王家は、水売りから水を買った
十三日目の朝、王太子ルシアン・ヴァルモアは、半枚の紙を書こうとしていた。
一行目に結論。二行目に理由。三行目に選択肢を二つ。
十年間、彼の机に載っていたのは、そういう紙だった。丸をつけるだけでよかった。誰が作っていたのかを、彼は一度も考えたことがない。
六日前から、彼は自分でそれを作ろうとしている。
この朝の題は、南部三領の給水についてだった。
第一鐘に始めて、第四鐘に、彼は羽根ペンを置いた。
紙の上には、七行あった。
どれが結論なのか、書いた本人にも分からなかった。
――あの半枚は、日の出前に書かれていた。
宰相はそう言った。彼が目を覚ます、二刻前だと。
二刻前に起きて書いたのだとして、それでこの七行が半枚になるのか。ルシアンには分からない。分からないということだけが、この六日で確かになった。
高札の文案が議されたのは、二日前――十一日目の夜だった。
御前会議の卓に並んだのは、宮内卿と、財務卿と、近衛の長と、それに宰相バルテルミー。ルシアンは、父王の右に座っていた。
文案は四行。宮内卿が読み上げた。
「――『公爵家に与する者の申すことを、信じてはならぬ』。『水は、王家より民へ戻された』。以上でございます」
「一行、消してください」
卓の全員が、彼を見た。七日目からこちら、彼が会議で発言したのは二度目だった。
「三行目です。公爵家に与する者の申すことを、と書いてある」
「はい」
「公爵家に与する者、というのは水売りでしょう。あの者たちが言い出すことは、三つに決まっている」
彼は、指を三本立てた。生まれて初めて、数を指で数えた。
「堰が十二開いたこと。四日目に導水路が抜けること。王宮の管が二月かかること」
卓が、静かになった。
「一つ目は、今日の第五鐘に、我が軍がやった。二つ目は、今日の早馬に載っている。工兵の中尉が具申したと、そこに書いてある」
卓が、静かになった。
「三つ目は、私が七日目に宰相から聞いた。空になった石の管は、詰め直しに二月かかる」
彼は、宮内卿を見た。
「――偽りが、一つもない。一つもないものを、信じてはならぬと板に書くのですか」
答えたのは、宰相ではなかった。
「殿下」
宮内卿が、書面を揃えながら言った。
「三つとも、まだ市中には出ておりませぬ。出る前に立てるのでございます。あとから同じことを申す者は、板に逆らう者になります」
「――先に、こちらが言ってしまうということか」
「先に、王家の言い分を置くのでございます」
ルシアンは、そこまで聞いた。
言ってから、自分がその先を持っていないことに気づいた。
だから、どうしろというのか。
板を出さなければ、市中は水が戻った理由を知らないままになる。知らないままなら、戻したのはヴェルネ公爵家だと思う。思われたまま、四日目を迎える。
彼には、代わりの四行がなかった。
沈黙の中で、宰相が立ち上がった。
「陛下。四日目に、水は止まります」
六十三の老人の声は、思ったより通った。
「導水路は、十二の開門から四日目に抜けます。抜ければ、復旧に二年。この板は、その日まで四日、民の前に立っております」
「工兵の報告は、上の口まで水が来た、だ」
国王が、初めて口を開いた。
「上の口まででございます」
「届いたのだろう」
「届きましてございます。そこから先の管が、二月かかります。届いた水は、一滴も貯水槽に入りません」
「では、管は工部の話だ」
――工部の話だ。
同じ言い方を、彼は七日目からこちら、四度聞いた。宮内省には宮内省の枠があり、財務には財務の、工部には工部の枠がある。枠の外は、誰の枠でもない。
枠と枠のあいだに落ちたものを拾う役は、この王宮に一つしかなかった。
その役の名を、彼は三百人の前で捨てている。
その夜のうちに、宰相は南部三領の一件から外された。
罷免ではない。ほかの職掌がお忙しいゆえ、という言い方だった。
十三日目の昼、ルシアンは父の執務室にいた。
国王は、机の向こうで書面を繰っている。五十を過ぎた男で、背は息子より低い。ルシアンが子どものころ、この人は年に二度しか顔を見せなかった。
机の端に、硝子の杯が置いてある。
水が、七分目まで入っている。
「父上。宮内省が、水売組合に注文を出しました」
「聞いておる」
「日に二十樽。一樽二リーヴルでございます」
「安いな」
国王は、書面から目を上げない。
「安うございます。九日目の相場は、二十四リーヴルでした」
「では、なおのこと安い」
「――なぜ、二リーヴルなのかをお考えになりましたか」
父の指が、頁の途中で止まった。
ルシアンは、続けた。
「組合は、断水の初日から一度も値を上げておりません。二十四リーヴルは、市中の他の者がつけた値です。組合の荷車には、ヴェルネ家の紋章が入っております」
「知っておる」
「では、この水は」
「水売りから買った水だ」
国王は、頁を繰った。
「アデライド・ヴェルネから買ったのではない。組合から買った。板にも、そう書いてはおらぬ」
そして、硝子の杯を取り、半分ほど飲んだ。
ルシアンは、それを見ていた。
父が飲んだのは、二リーヴルの水である。ヴェルネ家の紋章を側板につけた荷車が、今朝、坂を上げてきた水だ。
言えばよかった、と思った。
言ったところで、この人は杯を置かない。置かないところを見てしまえば、彼は父に対して何も残らなくなる。
彼は、机の端の杯を取った。
父が、初めて息子の手を見た。
ルシアンは、残りを飲み干した。
味は、水の味だった。井戸の水とも、湯の水とも違わない。二リーヴルの水と二十四リーヴルの水を、彼の舌は区別しない。
それでも、この一杯がどこの誰の桶から来たのかを、彼は生まれて初めて知っている。
「……何のつもりだ」
「喉が渇いておりました」
嘘だった。
嘘をついた理由も、彼にはわからなかった。
「ルシアン」
「はい」
「公爵は、まだ書かぬか」
「――七日目でございます」
「七日か」
国王は、杯を戻した。
「あれは、一行書けば今日にも屋敷へ帰れる。『娘に水門の権限を与えた覚えはない』。それだけだ」
「はい」
「水門を閉じたのは公爵の署名だ。そこは動かん。だが、水道橋を止めたのも、堰を四分の一開けたのも、狼と談判したのも、代理を騙った十八の娘がやったことになる。家は残る。負うのは娘一人だ」
国王は、そこで初めて息子を見た。
「わしは、あれに逃げ道を出しておるのだぞ」
――逃げ道。
父の言葉が、そのまま頭の中に残った。逃げ道という語が、娘一人を通すために作られている。通れば、通った者の名で全部が塞がる。
ルシアンは、椅子の背に手をかけて立った。何を言うつもりだったのかは、立ってからも出てこなかった。
執務室を出て、彼は東の棟へ向かった。
外庭に面した石の棟である。窓の三つ目と四つ目に、格子が入っている。
扉の前に、近衛が二人立っていた。二人とも、王太子を見て道を空けた。
ルシアンは、扉に手を置いた。
置いたまま、動かなかった。
中の男に、何を言うつもりなのか。書けと言うのか。書くなと言うのか。
どちらを言っても、この六日の自分と釣り合わない。
彼は、手を下ろした。
道を空けた近衛の前を、来た道へ引き返した。
その日の夕方、彼はミレーユの部屋の扉を叩いた。
彼女は、髪を拭いていた。
濡れている。
「湯を使ったのか」
「二はい、いただきましたわ」
ミレーユは、手巾を膝に置いた。
「殿下。お顔の色が、よろしくございませんこと」
「ミレーユ」
「はい」
「枕元にあった書状は、どこから来ている」
部屋の空気が、少しも動かなかった。
彼女は、まず微笑んだ。それから、髪を肩の前へ寄せた。
「殿下」
「答えろ」
「わたくし、あなたに何か伺いましたかしら」
ルシアンは、寝台の枕元へ目をやった。
七日目の夜、そこに黒い封蝋の書状があった。彼女はそれを隠さず、伏せもせず、あることだけが分かる置き方をした。
いまは、何も置かれていない。置く必要が、なくなったのだ。
この三か月、彼はこの娘の何を見ていたのか。天真爛漫だと思っていた。守ってやらねばならないと思っていた。
「捨ててもよろしいのですよ」
ミレーユは、そう言った。
「いつでも。ただ――捨てられた女は、口を開きますの」
彼女は、髪を拭き終えた手巾を、寝台の枕元に置いた。
ちょうど、七日目の夜に書状のあった場所である。
置き方が、あのときと同じだった。
日が落ちてから、ルシアンは外庭へ下りた。
自分の目で、井戸の水の上がり方を見ておこうと思った。この六日で彼が思いついた、たった一つの、自分にできそうなことだった。
滑車が回り、桶が上がってくる。半分だった。
女中頭が、王太子の姿に気づいて膝を折った。
「殿下。このような場所へ」
「今朝、水売りが来たそうだな」
「はい。二十樽、下ろしてまいりました」
「足りるか」
「……足りませぬ」
女中頭は、そう答えた。答えてから、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。差し出がましいことを」
「構わん。ほかに、何かあったか」
老女は、しばらく考えて、それから、笑うように言った。
「樽を受けた下働きが申しておりました。新顔の水売りが一人おったと。若い女で、樽を下ろしながら、声に出して数えておったそうでございます」
ルシアンは、井戸の縁から一歩、退いた。
「――数えていた、と言ったな」
「はい。十八、十九、二十、と」
王太子は、井戸の暗い口を見下ろしていた。
声に出して数える人間を、彼は一人しか知らない。
(第二十六話へつづく)




