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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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国境に狼が立っていた

 水門が閉じて、五日目。


 ガルデニア公国、北部国境。この国から見て北の果て、丘ひとつ越えればヴァルモア王国の南端にあたる。


 北に見えている、なだらかな緑の隆起。あれをヴァレの丘という。八年前の夏、両軍あわせて二千人が、あそこで死んだ。


 いまはただの草地だ。羊が歩いているが、羊飼いの小屋はない。羊飼いも、日暮れまでにこちら側へ引き返す決まりになっている。


 骨は掘り返さず、そのままにしてある。掘り返すと、また戦がはじまるからだ。


 丘からきっかり十マイル南。八年前の覚書がガルデニア軍に引かせた線の、その内側の稜線に、一頭の黒馬が立っていた。


 八年、この国の兵は誰ひとり、あの線を越えていない。


 乗り手は、灰色の外套を着ていた。飾りのない、実用一辺倒のものだ。腰の剣も装飾がない。この男の身なりからは、階級を読み取ることができない。


 できないように、そうしている。


「閣下」


 斥候が、稜線を駆け上がってきた。


「間違いございません。南部三領の水門、すべて閉鎖。開いている門はひとつもありません」

「王国軍の動きは」

「南進の準備をしております。工兵隊が先行、歩兵二個大隊が続きます。狙いは南部三領の水門と、水源林の取水堰かと」

「自国の公爵領にか」

「はい。王都の守備隊からも、三個中隊が引き抜かれる見込みです」


 男は、答えなかった。


 視線は北へ、ヴァルモア王国の方角へ向いたままだった。


「――閣下」


 斥候が、声を潜めた。


「四百年で、いちばん脆うございます。あの国が。王国軍が矛を向ける先は、他国ではなく自国の公爵領です。国境の砦は、こちらに背を見せることになります」


 斥候は、北の丘を指した。


「王都は渇き、軍は身内へ向かい、守りは背中を晒す。――騎兵だけなら、三日でリュミエールの市壁が見えます」


 風が、外套の裾を叩いた。


 テオドール・アシュフォードは、四半刻ほど動かなかった。


 斥候はその間、ひとことも喋らなかった。この人が黙っているときに口を挟んだ者が、どうなるかを知っている。


 やがて、男は言った。


「水門を閉じたのは、公爵か」

「は?」

「ヴェルネ公爵グレゴールの命令か、と聞いている」

「……はっ。管理令が発せられておりますが、署名は――代理となっております」

「代理」

「はい。アデライド・ヴェルネ。公爵令嬢でございます。齢十八。先日、王太子から婚約を破棄されたとの由」


 黒馬が、前脚で地を掻いた。


 乗り手の手綱が、それまでとわずかに違う力で握られたからだ。


「……なんと言った」

「アデライド・ヴェルネでございます」


 テオドールは、ゆっくりと右手を胸に当てた。


 外套の内側、左胸の衣嚢に、いつも一枚の紙が入っている。


 八年前から、そこにある。


 行軍中も、戦場でも、公国の宮廷でも。洗濯のたびに侍従が取り出し、外套が乾くまで手元で預かって、また戻す。三度、外套を新調した。そのすべてに、同じ位置に衣嚢を作らせた。


 紙は、もう繊維がほぐれかけている。折り目のところは、透けている。


 それでも、文字は読める。


 ――『たたかいをやめること。りようこくのぐんは、ヴァレのをかから、それぞれとおまいるさがること。ぐんがさがったあとのとちには、だれもすまないこと。ほねは、ほりかえさないこと』


 子どもの字だ。


 ヴァルモア語の綴りが、二か所間違っている。「りょうこく」が「りようこく」に、「おか」が「をか」に。八年見ているが、直したいと思ったことは一度もない。


 その下に、二つの署名がある。


 ひとつは、まだ字を書き慣れていない手で、丁寧に、一画ずつ。


 ――アデライド・ヴェルネ(十さい)


 もうひとつは、震える手で書かれた、二十歳の男の署名。


 ――テオドール・アシュフォード


「閣下?」


 斥候が、不安げに呼んだ。


 「氷の狼」と呼ばれ、五年で公国軍の最上位まで駆け上がり、四つの戦役で一度も負けなかったこの男が、今、明らかに動揺していた。


 斥候は、それを見たのが初めてだった。


「あの娘は」


 テオドールが言った。


「あの娘は、無事か」

「は……はい。王都の北、ヴェルネ公爵邸に」


 ――八年、この男は待った。


 紙を持ち歩き、名を調べ、それきり何もしなかった。十歳の子どもに会いに行く口実は、軍務卿の権限をもってすれば十いくつも作れた。作らなかった。


 斥候は、その理由を一度だけ本人に尋ねたことがある。


 返ってきたのは、ひとことだった。


 ――『こちらから会いに行けば、あれに借りができる。借りのある人間は、断れなくなる』


「婚約を、破棄された」

「三百名の面前で、と聞いております。理由は――」


 斥候は、言い淀んだ。


「言え」

「……『心がない』と」


 風が止まった。


 北の草が、一斉に伏せたまま動かなくなった。


「もう一度言え」

「閣下」

「もう一度言え」


 斥候は、唾を飲んだ。


「王太子ルシアン・ヴァルモアは、大広間にて、アデライド・ヴェルネに対し『お前には心がない』と申したそうにございます」



    ◇



 テオドールは、目を閉じた。


 ――八年前、あの丘の上で、二十歳の自分は膝を折っていた。


 部隊の三分の二を失い、剣も折れ、両軍が三日目の突撃の準備をしていた朝だった。


 王国側の陣から、ひとりだけ、白旗を持って歩いてきた者がいた。


 小さかった。最初、伝令の少年だと思った。


 それが十歳の公爵令嬢だと知ったのは、彼女が目の前まで来て、こう言ったときだ。


『わたくしは、この土地の持ち主の娘です。父の代理でまいりました。ここは、わたくしの家の土地です。ですから、わたくしが決められます』


 誰も彼女を止めなかった。誰も、その言葉に反論できなかった。


 彼女は地面に紙を広げ、腹ばいになって、字を書いた。


 書き終えると、こちらへ差し出した。


『署名してください』

『……なぜだ』


 テオドールは、掠れた声で聞いた。


『なぜ、君が来る』


 少女は、少し首をかしげた。


 そして、まったく感情のない声で、こう言った。


『骨が、増えるからです』


 そう言って、少女は丘の斜面を指した。


 前日の戦闘で倒れた者たちが、まだそこに横たわっていた。回収する余裕が、どちらの軍にもなかった。


『あそこに、四百人います。明日の朝には、二千八百人になります』


 テオドールは、その数を頭のなかで確かめた。


 彼の手元に残る六百と、向かいの千八百。あわせて二千四百。斜面の四百に足せば、二千八百。


 合っていた。


 ――こちらの残兵は六百。それは、この場で私しか知らぬ数だ。


『……なぜ、六百と数えた』

『昨日、そちらの旗が三つ倒れました。旗ひとつに四百でございます』


 少女は、そこで一度だけ言葉を切った。


『二千八百の骨は、掘り返すのに三年かかります。掘り返した骨には、名前がつきます。名前がついた骨には、遺族がつきます』


 少女は、こちらを見上げた。


 感情のない目だった。恐怖も、憐憫も、正義感も、そこにはなかった。


『二十年後に、また戦になります。計算が合いません』


 テオドールは、その場で署名した。


 筆を持つ手が震えて、字が読めないほど歪んだ。彼は生涯であれほど酷い署名をしたことがない。


 少女は紙を受け取り、砂を払い、丁寧にたたんで、こちらへ差し出した。


『お持ちください。わたくしの分は、父が持ちますので』


 そして、来たときと同じ速さで、白旗を引きずって帰っていった。



    ◇



 ――あれから八年。


 ヴァレの丘に、あれ以来ひとつも骨は増えていない。


 手綱を握る手の甲に、筋が浮いていた。斥候は、それから目を逸らした。


 テオドールは、馬首をめぐらせた。


「南進の準備をしている王国軍は、何日で南部三領に着く」

「歩兵と工兵の列でございます。六日かと」

「その六日、砦の背が空くのは、いつまでだ」

「十日から、十二日」

「充分だ」


 斥候の背筋が、冷たくなった。


 ――やる。この人は、やる。四百年に一度の好機だ。誰も文句は言わない。公王も、議会も、諸侯も、全員が今日それを望んでいる。


「閣下。ご命令を」


 斥候は、無意識に姿勢を正していた。


 この人の下について四年になる。四つの戦役に出た。命令はいつも短く、迷いがなく、そして一度も間違っていなかった。


 部下たちは陰でこう言う。閣下は勝ち方を計算しているのではない、負け方を先に消しているのだと。


 その人が今、いつもの倍の速さで計算していた。


 テオドールは、稜線を下りながら言った。


「軍は動かさん」

「……は?」

「国境の全部隊に伝えよ。いまの持ち場から、さらに一マイル南へ下がれ。いかなる挑発にも応じるな。越境した者は即刻軍法会議にかける」

「――閣下。第三水門付近に出ている二十騎は」

「私の部隊ではない。旗章がないからな」


 テオドールは、そこで初めて足を止めた。


「北部方面軍のどの隊が出したかを、今日中に洗え。八年、我が軍は誰ひとりあの線を越えていない。破った者がいるなら、私が破らせたことになる」

「こ、閣下! しかし、これは千載一遇の――」

「馬車を出せ」

「馬車?」

「私が乗る。護衛は十二騎。旗章は上げる。ガルデニア公国軍務卿として、正式な使節としてヴァルモア王国に入る」


 斥候は、稜線を駆け下りる背中を、呆然と見送った。


「あ、あの、閣下! ご用向きは、なんと申し上げれば!」


 テオドールは、振り返らなかった。


 外套の内側に、右手を当てたまま、こう言った。


「求婚だ」


 馬車の扉に手をかけながら、テオドールは北の丘を見上げた。


 あの向こうで、いま二十万人が渇いている。それを止められる人間は、この世にひとりしかいない。


 その人間に向かって、あの国は言ったのだ。


 ――心がない、と。


「出せ」


 鞭が鳴った。


 旗章を上げた馬車が、八年前に二千四百の骨が増えずに済んだ丘へ向かって、北へ走り出した。



(第九話へつづく)

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