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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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殿下は水の値段をご存じない

 王太子ルシアン・ヴァルモアは、生まれてこのかた、水を買ったことがない。


 パンの値も、蝋燭の値も、知らない。知らないことを、彼は一度も落ち度だと思ったことがない。


 水は栓をひねれば出る。パンは焼かれて皿に載っている。そういう仕組みで世界は回っており、その仕組みの外側を考える人間は、王宮にはひとりだけいた。


 彼はその人間を、七日前の夜、三百人の前で捨てた。


 七日目の朝、湯浴みの湯が半分しか用意されなかったとき、彼はまず、使用人を叱った。


「なぜ半分なのだ」

「……申し訳ございません、殿下。貯水槽の残量が」

「貯水槽など知らん。私は王太子だぞ」


 言ってから、彼は自分の言葉に妙な感触を覚えた。


 王太子だから水が出る。


 そんな仕組みは、この世のどこにもない。


 その日の午後、彼は執務室で書類の山を前にしていた。


 積まれている。恐ろしい量が積まれている。


 昨日も一昨日もそうだった。以前はこんなことはなかった。朝、机には数枚しか載っていなかったはずだ。


「これは何だ」

「決裁待ちでございます、殿下」

「昨日も同じ量があっただろう」

「昨日の分は、まだ手つかずでございます。これは本日到着分です」


 ルシアンは、いちばん上の一枚を取った。


 南部三領関連臨時歳出案。専門用語が並んでいる。読んでも意味がわからない。三枚目まで進んだところで頭が痛くなり、彼はそれを脇に置いた。


 次の一枚。国境守備隊増員に関する具申。これも意味がわからない。


 次の一枚。赤い封蝋。


 ――赤い封蝋のものだけは必ずその日のうちに。あれは戻せません。


 誰かの声が、頭のなかで響いた。


 あの夜、彼女がミレーユに言った言葉だ。


 ルシアンは、赤い封蝋を見つめた。


 なぜ戻せないのか、彼は知らない。誰も教えてくれなかった。いや――教える必要がなかったのだ。それを処理する人間が、ずっとそこにいたから。


 彼は封を切った。


 中身を読み、三度読み直し、それでも意味がわからず、呼び鈴を鳴らした。


「バルテルミーを呼べ」

「宰相閣下は、ただいま御前会議に――」

「呼べ!」


 半刻後に現れた宰相は、この数日で十歳ほど老けて見えた。


「これは何だ、バルテルミー」


 宰相は書面を一瞥し、そして、静かに言った。


「南部三領の水利権復帰に伴う、上水道橋の使用停止通告でございます。本日付。ヴェルネ公爵家代理、アデライド・ヴェルネの署名がございます」

「――水道橋の、停止だと」

「はい。水門を閉じても、三マイルの導水路と水道橋の管には、水が残っておりました。この六日、市中の泉に細々と出ていたのは、その残りでございます。それも、本日で終わります」

「――残り、だと」

「あわせて申し上げます。王宮の貯水槽も、本日で底が見えます」


 ルシアンは、口を開けたまま宰相を見た。


「それと、殿下。分水塔で水路が二つに割れることは、ご存じでいらっしゃいますか」

「……知らん」

「市壁をくぐった先で、水は上下二本に分かれます。上が、丘の上のこの王宮へ。下が、市中の泉と共同井戸へ。上の水路は分水塔でいちばん高い位置にございますので、水が細れば真っ先に空になります」

「それが、どうした」

「空になった石の管は、次に水を通すとき、内側が乾いて目地が痩せております。詰め直しに、二月」


 ルシアンは、その意味を測りかねた。


「つまり、どういうことだ」

「たとえ明日、嬢が水門をお開けになったとしても、この王宮に水が戻るのは二月先でございます。市中の下の水路は、まだ湿っております。あちらは、水さえ来ればその日に流れます」

「なぜだ! 水道橋は王家のものだろう!」

「水道橋は王家のものです。橋脚が立っている土地が、ヴェルネ領でございます」


 ルシアンは、口を開けたまま固まった。


「……土地」

「四百年前から、そうでございます。殿下」


 宰相は、机の上の書類の山に目をやった。


「それと、殿下。その山でございますが」

「なんだ」

「三分の一は、本来アデライド嬢が処理していたものです」

「なに?」

「正確に申し上げますと、三分の一は嬢が単独で決裁し、残りはすべて、嬢が要旨をまとめたうえで殿下にお回ししておりました。殿下がご覧になっていた書類は、一枚残らず、一度は嬢の手で短くされたものでございます」


 ルシアンは、机の上の一枚を取り上げた。


 文字がびっしりと詰まっている。専門用語だらけで、どこが要点なのかまるでわからない。


 ――以前は、こんなものは来なかった。


 来ていたのは、いつも半枚の紙だった。一行目に結論があり、二行目に理由があり、三行目に選択肢が二つ並んでいた。彼は丸をつけるだけでよかった。


 あれを、誰が作っていたのか。


 考えたことが、一度もなかった。


 ――あの半枚は。


 宰相の声が、思考を割って入ってきた。


「あの半枚は、嬢が毎朝、日の出前に書いておられました。殿下がお目覚めになる、二刻前でございます」

「……なに?」

「王太子妃教育の名目で、嬢は十年間、王宮決裁の実務を担っておられました。歳入査定、外交文書の下書き、七か国語の通信、地方陳情の一次選別。すべて嬢の手を通っておりました」

「そんな話は聞いていない!」

「殿下がご存じないように、そう設計されておりましたので」


 ルシアンは、言葉を失った。


「殿下。三年前、東部の飢饉のとき、殿下は救援令にご署名なさいました」

「……ああ。覚えている。私の判断だ」

「あれは、嬢が四晩かけて書いたものです。麦の備蓄量、輸送路の積雪状況、荷馬の頭数、宿場の受け入れ能力。すべて嬢が計算し、最短の経路を引きました。殿下がなさったのは、ご署名だけでございます」

「……」

「翌年、東部の代官が礼に参りました。殿下は『民のためだ』と仰いました。あのとき嬢は、殿下の三歩うしろで、次の書類を抱えて立っておられました」


 ルシアンは、椅子に沈み込んだ。


 ――お前が見ているのは書類だ。人ではない。


 自分の声が、耳の奥で反響した。


 彼女はいつも書類を見ていた。夜会でも、祝いの席でも、彼が熱を出した日でさえ。


 なぜ見ていたのか、彼はただの一度も考えなかった。


「……バルテルミー」

「はい」

「私は、なんてことを言ったんだ」


 宰相は、答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 その夜、ルシアンはミレーユの部屋を訪ねた。


 彼女は寝台の縁に腰かけ、両手で顔を覆って泣いていた。彼が入ってくると、飛びつくようにして胸にすがった。


「殿下……! みんなが、わたしのせいだって言うんです。わたしが水を止めたって、わたしが毎日お風呂に入るからだって……!」

「馬鹿な。そんなわけがあるか」

「でも、でも、外に出ると石を投げられるんです。昨日、市場で……」


 彼女の腕には、確かに小さな青痣があった。


 ルシアンは、彼女を抱きしめた。


 この娘は悪くない。悪いのは自分だ。自分が、三百人の前で、あの一言を口にした。


 ――そう思ったとき。


 彼の耳が、ひとつの音を拾った。


 部屋の奥、衝立の向こうで、水音がした。


 たぷん、と。


 彼は顔を上げた。


「……ミレーユ」

「え?」

「衝立の向こうに、何がある」


 彼女の身体が、腕のなかで硬直した。


「な、なにも」

「何がある」


 ルシアンは彼女を離し、衝立を回り込んだ。


 そこに、湯を張った浴槽があった。


 湯気が、まだ立っていた。


 王宮の貯水槽は、本日で底が見える。宰相がそう告げた、その日の夜に。


「……ミレーユ」


 彼女は、寝台の上で、しゃくり上げるのをやめていた。


 顔を覆っていた両手が、ゆっくりと下ろされた。


 その顔には、涙の跡が一筋もなかった。


「殿下」


 彼女は、ひどく落ち着いた声で言った。


「あの女の代わりが務まるとお思いですか。わたしに」


 ルシアンは、答えられなかった。


「務まりませんわ。当たり前でしょう。わたし、七か国語なんて話せませんもの」


 ミレーユは立ち上がり、湯に指を浸した。


「――でも、あなたはそれをご存じなかった。ご存じないまま、三百人の前でおっしゃった」


 彼女は、初めて微笑んだ。


 それは、彼がこの三か月見てきたどの笑顔とも似ていなかった。


「わたし、あなたのそこが、いちばん助かりましたの」


 ルシアンは、動けなかった。


 彼女は湯から指を抜き、寝台の枕元へ手を伸ばした。そこに、一通の書状があった。封蝋は、すでに割られている。


 彼女はそれを隠さなかった。伏せもしなかった。ただ、あることだけがわかる置き方をした。


「殿下。今夜も、お泊まりになります?」


 男爵家の娘が、王太子に向かって使う声ではなかった。


 ルシアンは、割れた封蝋の紋を見た。


 黒い蝋に、見たことのない紋章が押されていた。


 王国の貴族の紋は、四十七家すべてを覚えさせられている。八歳の年に、丸ひと冬かけて。


 その中に、この紋はなかった。



(第八話へつづく)

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