王都の井戸が濁った日
三日目の朝でございます。
水位が下がると、底の泥が舞い上がります。汲み上げた水は薄茶色に濁り、そのまま置いておくと、桶の底に細かい砂が沈みました。
それでも、その日は誰も騒ぎませんでした。乾季の名残でときどきあることだと、皆そう思ったのです。
四日目、東区の共同井戸が涸れました。
五日目、市場のパン屋が三軒、窯を止めました。パン生地には水が要ります。
六日目の午後――王都で、最初の行列ができました。
丘の上からは、西区の広場に人の帯ができているのが見えるだけでございます。誰が並んでいるのかは、報告でしか知れません。
西区の広場に、ヴェルネ家の紋章を掲げた荷車が二十台。樽を積んで、朝と夕、一日に二度。並ぶのは女と子供が多いと、日報にございました。
「お嬢様」
セシルが、報告書を持って参りました。
「西区の配水、本日分完了しました。それから、これを」
紙束を受け取りました。リュミエール水売組合の組合長からの日報でした。
――配水量、予定比二割増。理由『王宮方面より流れてきた者が並んでいるため』
――配水中止、二件。理由『樽が尽きたため』
二行目のほうを、わたくしは長く見ておりました。
行列の後ろ半分は、水を受け取れずに帰ったということです。
「セシル。並べなかった方々は、どうなさっているの」
「……市壁の外の泉まで、歩いておられます。片道、二マイルほどで」
「往復で四マイル。桶を提げて」
「はい」
「あの泉は、ひとつきりよ。日に汲めるのは千人分」
「……はい」
二十万のうちの、千人でございます。
わたくしは、報告書を一枚めくりました。
「今朝、病院の受け入れは」
セシルが、報告書の下のほうをめくりました。
「昨日より、十四人多いそうです。多くは年寄りと、乳飲み子を抱えた方だと」
十四人。
わたくしは、その数を頭のなかに置きました。置いてから、置き場所が正しくないことに気がつきました。
人数は、樽の数と同じ棚に入るものではございません。
――けれど、わたくしには、ほかの棚がありませんでした。
「荷車を五台、増やします。増えた分は東区へ。費用はわたくしの名で」
「はい」
それから、一行目に戻りました。
「王宮の貯水槽は」
「閣下のご報告では、あと一日と」
計算どおりでございます。あの晩、父に申し上げた日数と、一日も違いません。
ですから、王宮の使用人が西区に並ぶのは道理でございます。明日には、自分の職場の水が止まるのですから。
わからないのは、そこではございません。
「セシル。組合長は、並んだ方の素性をいちいち尋ねる人ではないわ。『王宮方面より』と書けたということは、並んだ方々が自分から名乗ったのね。――何を言っていたの」
セシルが、口ごもりました。
「……あの。噂が」
「噂」
「王宮の水は、殿下とミレーユ様のお風呂で消えているのだと」
わたくしは、報告書を机に置きました。
六日前まで、そう囁かれていたのはわたくしのほうでした。
――『あの冷たい公爵令嬢』。『書類しか見ない女』。『あんな方が王妃になったら、この国は終わりだわ』。
夜会のたびに、扇の陰から聞こえてまいりました。誰も、わたくしに聞かれているとは思っておりません。声を潜めるという習慣が、あの方々にはないのです。
噂というものは、水と同じでございます。高いところから低いところへ流れ、いちばん低い場所に溜まります。
六日で、いちばん低い場所が入れ替わりました。
「本当なの」
「わ、わかりません。ただ、女中頭が親戚に話したという話が、市場でひとり歩きしていて――『貯水槽が減ったのは、ミレーユ様が毎日湯浴みをなさるからだ』と」
ありえない話です。
湯浴み一回に使う水など、二十万人の消費量から見れば塵のようなものです。数字で考えれば、一瞬でわかります。
けれど、渇いた人間は、数字では考えません。
「――父上の言ったとおりになったわね」
「え?」
「なんでもないわ」
わたくしは、窓を閉めました。
その日の夕方、二人目の使者が参りました。
今度は宰相ではなく、王太子殿下の従者でございます。手紙を一通、押しつけるようにして置いてゆきました。
封を切りました。
殿下の字でした。走り書きで、綴りが二か所間違っておりました。
『アデライド
お前は民を人質にとっている。恥を知れ。
水を戻せ。今すぐにだ。そうすれば婚約破棄はなかったことにしてやる。ミレーユのことは考え直す。お前を妃にしてやってもいい。
これは私の譲歩だ。ありがたく思え。
ルシアン』
わたくしは、それを二度読み、それから燭台の火にかざしました。
「お嬢様!」
「セシル。灰皿を」
「あの、返信は」
「必要ないわ」
紙の端が焦げ、青い炎が走り、丸まって落ちました。
――お前を妃にしてやってもいい。
六日前まで、わたくしはその言葉のために十年を費やしておりました。
なのに今、胸のなかにあるのは怒りですらなく、ただ、薄い疲労だけでした。
「セシル」
「はい」
「わたくし、あの方のどこが好きだったのかしら」
セシルが、息を呑みました。
「お、お嬢様……」
「思い出せないの。八歳のときから、あの方はわたくしの職務でした。好きになるように言われたことは一度もないし、好きになってはいけないと言われたこともない。ただ、そういう項目が、どこにもなかった」
焦げた紙の残りが、灰皿の上でまだ縮んでおります。
「あの夜、母の手紙を読みました。三つのわたくしは、井戸に落ちた仔猫のために泣いたのだそうです。父の書斎の扉を、半刻叩き続けたのだそうです」
「まあ……」
「覚えていないの。ひとつも」
燭台の火が揺れました。
「セシル。わたくしはたぶん、そのときに全部使い切ったのね。泣く分を」
セシルが、いきなり、ぼろぼろと泣き出しました。
「な、なぜあなたが泣くの」
「わ、わかりません……! でも、お嬢様が仰ることが、あんまり、あんまり――」
わたくしは、少し困って、それから手を伸ばして、この子の頭に触れました。
どう撫でるものなのか、よくわかりませんでした。八歳から、そういう場面がなかったものですから。
たぶん、ぎこちなかったと思います。
けれどセシルは、いっそう激しく泣きました。
しばらくして、セシルは涙を拭いながら、こう言いました。
「お嬢様。あの、ひとつだけ、申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「わたし、お嬢様に拾っていただいた日のことを、覚えております」
「……拾った?」
「五年前です。市場で財布を掏られて、雇い主の家に帰れなくなって、路地で泣いておりました。そこへお嬢様の馬車が通りかかって」
わたくしは、思い出そうといたしました。出てまいりません。
「お嬢様は、馬車を降りて、わたしにこう仰いました。『泣くと脱水します。水を飲みなさい』と」
「……ずいぶん失礼なことを申し上げたのね」
「はい。失礼でした」
セシルは、笑いました。泣きながら笑うという器用なことを、この子はよくいたします。
「でも、そのあとお嬢様は、わたしを馬車に乗せて、掏摸に遭った場所を三度回って、警吏に届けを出して、雇い主の家まで送って、その方に頭を下げてくださいました。公爵令嬢が、わたしのような者のために」
「それは、そうするのが手順だからで」
「手順に、頭を下げる項目はございません」
わたくしは、黙りました。
その夜、南部三領から早馬が参りました。
水位観測所の定時報告です。父ではなく、わたくし宛てでございました。管理令の署名がわたくしの名になっている以上、報告先もわたくしになります。
封を開けて、わたくしは目を疑いました。
――第三水門付近、越境と思われる騎影を確認。数、およそ二十。旗章なし。
国境です。
南部三領の南端は、そのままガルデニア公国との国境になっております。八年前まで、あの丘では戦がございました。
旗章なしの騎影が二十。
偵察でございます。
水門が閉じたことを、隣国が知ったのでございます。
「……早いこと」
わたくしは、地図を広げました。
王都の水が止まる。王国軍は水を確保するために南へ動く。――けれど、その矛先は他国ではございません。自国の公爵領です。
国境の砦は、背中を見せることになります。
もし、わたくしがガルデニアの将であれば――今この瞬間を、四百年に一度の好機と呼ぶでしょう。
わたくしは、ペンを取りました。
書かなければならない手紙が、三通ございます。父へ。宰相閣下へ。そして――
三通目の宛名を、わたくしは書きました。
『ガルデニア公国 軍務卿 テオドール・アシュフォード閣下』
名は、すぐに出てまいりました。八年前、ヴァレの丘で交わした停戦の覚書。その紙の、もうひとつの署名でございます。
書いてから、わたくしはペンを置きました。
――顔が、出てまいりません。
名は書けるのに、その名を書いた人がどんな顔をしていたのか。背丈も、髪の色さえ、ひとつも。
(第七話へつづく)




