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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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渇かせたいのは、民ではございません

「望み、でございますか」


 応接室の窓は、まだ朝のままでございました。手をつけられなかった水差しの水が、光を集めて揺れております。


「金か。領地か。それとも王家からの何らかの譲歩か。言え。だいたいのものは通してみせる」


 わたくしは、少し考えました。


 望みを問われたのは、生まれて初めてでございます。


 頭に浮かんだのは、答えではなく、答えの書式でした。――わたくしの頭は、そういう作りになっております。


「閣下」

「なんだ」

「昨夜、わたくしは殿下に『心がない』と言われました」

「……それは」

「あれは、正しいのだと思います」


 閣下が、顔を上げられました。


「わたくしは八歳から、条約と、税と、七か国語を覚えてまいりました。よく覚えられました。褒められもいたしました」

「嬢……」

「わたくしは、契約の付属品として作られました。ですから、契約が終われば、わたくしの役目も終わりです。それだけのことでございます」


 机の上に、一枚の書面を置きました。


 昨夜のうちに、自分で書いたものです。


「これを、陛下にお渡しください」


 閣下は、震える手でそれを取り上げ、目を通し――そして、二度、読み返されました。


「……これは」

「南部三領からの、限定給水申し出でございます。病院、孤児院、修道院、西区の共同井戸。この四か所に限り、ヴェルネ公爵家が費用を全額負担して水を運びます」

「水道橋を使わずに、どうやって」

「導水路の点検坑を使います。水門から市壁の外の中継所までは、水路が地下を落ちてまいります。荷車が動くのは、中継所から市中までの二マイルだけでございます」


 書面から、閣下の視線が上がります。


「……点検坑は、王家の図面にない」

「四百年、ヴェルネ家しか知らぬものでございます。二十万人分は落ちません。日に二百五十樽が限度でございます」

「……二十万に、二百五十樽」

「はい。焼け石でございます」

「わかっていて、やるのか」

「焼け石に水をかけるのは、石を冷ますためではございません。水をかけている者がいると、皆に見せるためでございます」


 閣下は、しばらく紙面を見ておられました。


「なぜ、そんなことを」

「わたくしが渇かせたいのは、二十万の民ではございませんので」


 閣下の手のなかで、紙が、かさりと鳴りました。


「――嬢。あなたは、恐ろしいことをする」

「そうでしょうか」

「わかっておられよう。荷車には紋章が入る。民は、水を運んでくるのがヴェルネ家だと知る。そして水を止めたのが誰かも、同時に知る。四日で王都中がその話をしている」

「五日半と見積もっております」

「同じことだ!」


 閣下は立ち上がり、それから、深く、深く息を吐かれました。


 六十を過ぎた宰相が、わたくしの前で、まるで老人のように背を丸めておいでです。


「……わしは、四十年この宮廷にいる」

「はい」

「あの第七条を知っていた者は、宮廷に三人しかいなかった。陛下と、わしと――そして、あなただ」

「はい」

「なぜ王太子に教えなかったのかと、今朝から何度も自問しておる」


 わたくしは、答えませんでした。


 答えは、わかっておりましたから。


 ――教える必要がなかったのです。ヴェルネの娘を娶りさえすれば、第七条は永遠に眠ったままなのですから。王太子が自分から婚約を破棄するなどとは、宮廷の誰も思っておりませんでした。


 わたくしですら、です。


「嬢」

「はい」

「わしが宮廷に上がった年、文書庫で古い日誌を読んだ。八十年前にヴェルネ家から輿入れなさった妃殿下の、女官の書き付けだ」


 初めて聞くお話でした。


「あの方も、今のあなたと同じことを仰ったそうだ。『わたくしは契約の付属品でございます』と。二十二でお亡くなりになるまで、一度も笑われなかったと書いてある」


 閣下の指が、帽子の縁をたどっておられます。


「わしは、まだ二十三だった。妙なことを書き残す方だ、と思って、棚に戻した。四十年、思い出しもしなかった」

「……」

「今朝、思い出した」


 わたくしは、水差しを閣下のほうへ押しました。


 今度は、手を伸ばされました。硝子の杯に注ぎ、半分ほど飲んで、それから、ずいぶん長いあいだ、その杯を見つめておられました。


「……うまいな」

「南部三領の水でございます」

「四十年、毎日飲んでいた」

「はい」

「味など、考えたこともなかった」


 閣下は、帽子を取って、深く一礼なさいました。


 宰相が公爵令嬢に頭を下げるのは、本来ありえないことでございます。


「嬢。ひとつ、答えずともよい問いを申し上げる」

「どうぞ」

「あなたは、これからどうなさる」


 わたくしは、口を開いて、そのまま閉じました。


 頭のなかには、十年分の予定表がございます。来月の外交文書の締切も、来季の税の査定日も、二年先の停戦覚書の更新日も、全部。


 そのどれにも、わたくしの名前は要りません。


「……わかりません」

「そうか」

「閣下。これは、答えたくないのではございません。項目がないのです」

「項目」

「婚姻の日までは、課程表に一日ずつ書いてございました。その先の頁が、白いのです」


 閣下は、しばらく黙っておられました。


「……嬢。白い頁というのはな」

「はい」

「わしの歳になると、二度と手に入らんものだ」


 閣下は、そこで一度だけ、笑われたように見えました。


 目のあたりが動いただけで、口は動いておりません。この十年、わたくしがしてきた笑い方と、たぶん同じものでございます。


「もうひとつだけ、よろしいか」

「どうぞ」

「あなたは昨夜、ミレーユ嬢に殿下の朝の起こし方を伝えられたそうだな」

「はい」

「なぜだ」


 わたくしは、少し困りました。


 なぜ、と問われても、理由らしい理由はございません。ただ――赤い封蝋の書類が、戻せないことだけは、誰かが知っていなければならなかったのです。


「引き継ぎでございます」

「……引き継ぎ」

「十年分の。あれが、わたくしの最後の職務でしたので」


 閣下は、何か言いかけて、やめられました。


 そして、去り際にこう仰いました。


「ヴェルネの娘は、代々そう言うのだ」


 扉が閉まったあと、セシルが小さな声で言いました。


「お嬢様。閣下、泣いておられました」

「そう」

「お嬢様は、泣かないのですか」


 わたくしは、窓の外を見ました。


 北の丘から、王都の屋根が朝日に光っております。あの下で、二十万の人が、いつもどおり水瓶を抱えて井戸に向かっているはずです。


 まだ、水は出ます。


 あと二日は。


「セシル。荷車の手配を。それから、リュミエール水売組合の組合長を呼んでちょうだい」

「かしこまりました。……荷車は、何台ご用意すれば」

「二十六台。西区の共同井戸に二十、病院と孤児院と修道院に六。一台で日に八樽、朝と夕の二度」

「に、二十六台も、どこから」

「南部三領の穀物運搬車を回します。麦の刈り入れは終わっておりますので、いま空いております」


 セシルが書き取ろうとして、途中で手を止めました。


「お嬢様。それ、いつお考えになったのですか」

「昨夜、馬車の中で」

「……夜会の、お帰りに」

「ええ」


 セシルは、それきり何も言わずに書き取りを続けました。


 ペンの先が、少し震えております。


「病院の受け入れ台帳も、写しを取り寄せて。日ごとの人数を見たいの」

「……人数、でございますか」

「ええ」


 なぜ台帳を見たいのか、そのときのわたくしには説明ができませんでした。


 配水の量を決めるのに要るのは、樽の数でございます。人数ではございません。


 それでも、見ておきたいと思いました。


 ――白い頁というのは、こういうもののことでしょうか。


 母の手紙を懐に入れたまま、その日、わたくしは一度も座りませんでした。



 ――二日後の朝。


 王都じゅうの井戸から、砂の匂いがいたしました。



(第六話へつづく)

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