撤回のご要望は承れません
翌朝、第三鐘が鳴るより早く、王宮からの使者が門を叩きました。
三人。先頭は宰相バルテルミー閣下ご自身でした。夜会の礼装のまま、髭も剃らず、目の下に濃い隈を作っておいでです。おそらく一睡もしておられません。
わたくしは、応接室でお迎えいたしました。
あとの二人は、扉の外に控えたままでした。手に持っているのは矢立と、綴じたままの白紙。文書官と、書記でしょう。
閣下は、この屋敷で書面を一通、作らせるおつもりでいらっしゃる。
用意のよいことでございます。
「アデライド嬢」
「閣下。朝食はお済みでしょうか。パンと、それから――お水を」
閣下の顔が、ぴくりと動きました。
「……嬢」
「冗談ではございません。この屋敷の井戸は、まだ生きております。王都に七軒しかない掘り抜き井戸の、市壁の外の一軒でございます。――それでも、乾季の底では細ります」
セシルが硝子の水差しと杯を運んでまいりました。閣下は、それをじっと見つめておられます。透明な水が、朝の光で揺れておりました。
結局、手はお出しになりませんでした。
「本題に入らせていただく」
「どうぞ」
「昨夜の婚約破棄は、王太子殿下の一時の激情によるものだ。国王陛下は正式にこれを無効となさるご意向である。婚約は継続する。第七条は発動しない。――以上を、公爵閣下にお伝え願いたい」
「陛下の勅書は、お持ちでございますか」
閣下の顎が、わずかに引かれました。
「……追って出る」
つまり、まだ出ていないということでございます。
陛下はまだ何も仰っていない。この方は、四十年の宮廷でただ一度、根拠のないことを口になさった。
「承知いたしました。父に伝えます」
「では」
「ただし、父の返答は昨夜のうちに出ております」
閣下の眉が、上がりました。
「わたくしは、水門管理令に関するかぎり、ヴェルネ公爵家代理として署名する権限を得ております。管理令の写しは、こちらに」
父の封蝋の押された書面を、机の上へ。
「そして父は、閣下がお見えになったらこう伝えろと申しました。――『第七条の話は、娘とせよ。あれは八歳から、その一文だけを覚えて生きてきた』」
閣下の腰が、椅子から浮きかけて止まりました。
「……嬢」
「撤回のご要望は、承れません」
「なぜだ! 国王陛下が――」
「陛下が無効とされるのは、王家の内部意思決定でございます。契約の相手方が同意しなければ、契約上の効果は消えません」
「昨夜の宣言など、酒の席の――」
「三百名の証人の前で、王太子殿下ご自身のお言葉によって、解消は成立しております」
「……受けたのか」
「ヴェルネ家は、昨夜のうちに公爵の名でこれを受諾いたしました。受諾書は、いまお渡しした管理令に綴じてございます」
「……」
「双方の意思が合致した以上、婚約はもう存在いたしません。存在しないものを、片方の意思だけで元に戻すことはできません」
「詭弁だ!」
「では、閣下」
わたくしは、閣下の目を見ます。
「反論の筋は、ひとつだけございます。第七条は『王家側の都合により』と定めております」
「……」
「昨夜の殿下は『お前には心がない』と仰いました。あれは婚約者の非を鳴らしたのであって、王家の都合ではない。――そうご主張になるのが、いちばん通ります」
閣下の顔が、変わりました。
「……なぜ、それをあなたが言う」
「四十年の宮廷におられる方が、一晩で思いつかぬはずがございませんので。先に申し上げておきます」
扇を、机の端に置きました。
「わたくしに非があったと主張なさるには、それを証していただかねばなりません。十年分の決裁の記録は、すべて王宮の文書庫に残っております」
「……記録」
「どの書類を、いつ、誰が処理したか。――閣下は、あれを法廷に出せますか」
閣下は、答えられません。
「出せば、王太子殿下が十年間なにもなさっていなかったことが、記録で明らかになります。出さなければ、王家側に非がなかったことを証せません」
「……」
「それに、争う場所がございません。婚約契約書第十二条。『本契約に関する紛争は、両当事者の合意なくしては、いかなる法廷にも付されない』」
閣下の口が、動かなくなりました。
「四百年前、この契約を作った方々は、あらゆる出口を塞いでおられました。撤回できず、争えず、時効もございません」
「……」
「残された出口はひとつだけ――婚姻の成立です。その婚姻を、殿下は昨夜、ご自身で潰されました」
「――ならば、力ずくという出口が残っておる」
閣下は、そう仰いました。声は低く、脅しの色はございません。ご自分でも言いたくないことを、義務で口に出しておられるのがわかります。
「軍を南へやり、水門を開ける。法廷がないなら、それが最後の出口だ」
「ございます。四百年、王家が一度もお使いにならなかった出口です」
「なぜ使わなかったと思う」
「水門は、開けても意味がないからでございます」
わたくしは、指を一本立てました。
「水源林の取水堰は十九か所。導水路は地下に三マイル。どこをどう塞げば王都へ届かなくなるかを知っているのは、南部三領の水門長と、その下で働く四百人だけでございます」
「……四百人」
「あの者たちはヴェルネの領民です。軍が来れば、山へ入ります」
「……四百人を、捕らえればよい」
「どうぞ。四百人を捕らえ、堰の場所を吐かせ、そのすべてを軍で押さえるのに、何日かかりましょう」
「……」
「王都の井戸は、三日で濁ります」
閣下は、帽子の縁から手を離されました。
「王都へ水を戻せるのは、ヴェルネ家だけです。それが四百年前から、この契約のいちばん外側にある錠でございます」
「――ならば、買う」
「は」
「水を買う。値は言い値でよい。年ごとでも、日ごとでもかまわん。国庫が空になるまで払う」
「お売りできません」
「なぜだ! あなたは民を渇かせたくないのだろう!」
「まだ何も申し上げておりませんが、閣下」
閣下が、口を閉じられました。
「けれど、お売りできないのは本当でございます。水を売れば、それは新しい契約になります。新しい契約には、いずれ更新の時期が来ます。更新のたびに、王家はヴェルネ家の娘を欲しがるでしょう」
「……」
「四百年、そうしてまいりました。同じ穴を、わたくしの代でもう一度掘るわけには参りません」
しばらく、部屋が静かになりました。
窓の外で、庭師が朝の水撒きをしております。柄杓が桶に当たる音が、二度、三度。
止めさせるのを忘れておりました。この屋敷の井戸だけが、まだ出るものですから。
閣下は、その音のほうへ、少しだけ顔を向けておられました。
それから、思いがけないことを仰いました。
「――殿下は、昨夜から一睡もしておられぬ」
「……」
「文書庫の鍵を寄越せと、三度言われた。地下三層の第七棚を、ご自分の目で見ると仰って」
わたくしは、閣下の顔を見ました。
六十を過ぎたこの方が、なぜこんな話をなさるのか、わたくしにはわかりません。情に訴えるおつもりでしたら、相手をお間違えです。
「今朝はカンタン男爵家の令嬢を呼びつけて、こう仰ったそうだ。『お前は知っていたのか』と」
「ミレーユ様は、なんと」
「泣いた。泣いて、『わたし、水のことなんて何も』と」
閣下は、帽子の縁を握っておられます。
「――嬢。あの娘は、水利権のすの字も知らぬ。知らぬ娘に、この国は喉を賭けたのだ」
わたくしは、返す言葉を探しました。
見つかりません。
何もご存じないという一点において、殿下とミレーユ様はよく似ておられます。似た者どうしが並ぶのは、悪いことではございません。ただ、その二人が並んだ場所が、たまたま王国の頂上だったというだけのことで。
そしてそれを十年、黙って見ていたのは、陛下と、宰相閣下と、わたくしでございます。
「陛下は、なんと仰せでございました」
「……何も。ひとことも仰らぬまま、朝までご自分の書斎におられた」
閣下は、両手で顔を覆われました。
しばらくして、指の隙間から、絞り出すような声がいたしました。
「……何が望みだ」
(第五話へつづく)




