父は十年ぶりにわたくしの名を呼んだ
ヴェルネ公爵邸は、王宮の丘とは川を隔てた、王都の北の丘の上にございます。
窓から見下ろすと、王都の灯りが川のように流れて見えます。八歳まで、わたくしはこの窓辺が好きでした。好きだった、という記憶だけが残っていて、どう好きだったのかはもう思い出せません。
深夜の書斎で、父は葡萄酒の杯を傾けておりました。
夜会には出席していなかったはずです。それなのに、机の上にはすでに一枚の書面が広げられていました。
「座れ」
わたくしは、向かいの椅子に腰を下ろしました。
「――第七条が発動したそうだな」
「はい」
「三百人の前でか」
「はい」
父は、杯を置きました。
ヴェルネ公爵グレゴール。五十二歳。この十年、わたくしが父と言葉を交わした回数は、両手で足ります。
「間抜けな王太子だ」
父は、そう仰いました。
「四百年待った。四百年だ。歴代のヴェルネ当主が、誰ひとりとして引き出せなかった一文を、あの若造は自分から口にした。しかも公衆の面前で、撤回不能の形で」
葡萄酒の色が、燭台の光に赤く透けました。
「アデライド」
わたくしは、顔を上げました。
父がわたくしの名を呼んだのは、十年ぶりでした。八歳の朝、王宮の門の前で『アデライド、行きなさい』と仰って以来です。
「よくやった」
「……わたくしは、何もしておりません」
「そうだな。何もしなかった。それがよかった」
父は、机の上の書面をこちらへ滑らせました。
南部三領水門管理令、と表題にありました。父の署名と、公爵家の紋章の封蝋。日付は――今夜。
「一刻前に書いた。早馬は、庭で待たせてある」
「――夜半でございます。夜明けの第一鐘までに、水門長の手へ届きますか」
「届く」
父は、杯の底を机に置きました。
「南街道の宿場に、四百年前から夜通し馬を繋がせてある。乗り手は三人。この一文のためだけにな」
「……三人」
「一人が落ちても、二人が届く。夜明け前には水門長の手に渡る。――明朝の第一鐘をもって、南部三領のすべての水門を閉じる」
わたくしは、その書面をしばらく見つめておりました。
紙のなかで、王都二十万人の喉が渇いていきます。
「……父上」
「なんだ」
「王都には、二十万の民がおります」
「知っている」
「病院と、孤児院と、公衆浴場と、パン焼き窯がございます」
「知っている」
「水門を閉じて三日で、井戸が濁ります。七日で、王宮の貯水槽が尽きます。十日目には――」
「アデライド」
父が、初めて声の調子を変えました。
「お前は、わしを責めているのか」
「いいえ」
わたくしは、首を横に振りました。
「確認しているだけでございます。父上が、それをすべてご存じのうえで署名なさったのかどうかを」
父は、答えません。
それから、意外なことを仰いました。
「――お前の母親と、同じことを言うな」
わたくしは、息を止めました。
母のことを、父の口から聞いたのは初めてでした。わたくしが五つのときに亡くなった人です。顔も、声も、もう輪郭しか残っておりません。
「母が、何を」
「あれも、水門の話になると必ずそう言った。二十万の喉がどうの、パン焼き窯がどうのとな」
父は杯を取り、中身を飲み干しました。
「わしは答えたよ。『では、その二十万の喉のために、うちの娘を八歳で差し出せというのか』と」
燭台の芯が、じじ、と鳴りました。
母は、何と答えたのでしょう。
「――母は、なんと」
「『では、私が王妃になればよかったのですね』と言った」
わたくしは、顔を上げました。
「母上が」
「あれはヴェルネの分家の出だ。本家の娘ではない。王家に差し出す資格がなかった。資格のない者が、資格のある娘を産んだ」
父は、杯の縁を指でなぞりました。
「わしが選んだ縁組だ。あれは十九で、わしは三十三だった。あれは最後まで、この家の水の話を理解しなかった。いや――理解したうえで、認めなかった」
燭台の火が、傾ぎました。
「それだけ言って、あれは部屋を出た。その晩に、一通の手紙を書いている。宛先は、お前だ」
「……わたくし」
「まだ三つだったお前に、読めるはずもない手紙をな。『十八になったら渡してください』と封に書いてあった」
父が、机の抽斗を開けました。
黄ばんだ封筒が、一通。蝋は、割られていませんでした。
「今夜が、その日だ」
わたくしは、それを受け取りました。
思ったより、軽い封筒でした。
「読むのは屋敷でなくてもいい。好きなときに読め」
「父上」
「なんだ」
「水門を、閉じます」
父の眉が、わずかに動きました。
「……ほう」
「ただし、条件がございます」
「言ってみろ」
「病院、孤児院、修道院、そして西区の共同井戸。この四つに限り、ヴェルネ家の負担で水を供給し続けます。水道橋ではなく、水売りの荷車を使います」
「金は」
「南部三領の年間収入の四分の一を上限といたします。それを超えた分は――わたくしの持参金から出します」
「持参金だと」
「はい。婚約に際して王家へ寄託し、婚姻の日まで手をつけない約定になっておりました。婚約が消えれば、そのまま戻ります。総額十二万リーヴル」
「あれは、ヴェルネ家が出した金だ」
「契約書第九条。『寄託金は、婚約者本人の名義において返還される』。八歳のわたくしの名で預けたのは、父上でございます」
父は、少しのあいだ黙っております。
「……そうだったな」
「荷車一台で、日に八樽。西区の共同井戸に二十台、病院と孤児院と修道院に六台。日に二百八樽。平時の値で、日に四百十六リーヴルでございます」
「……一年か」
「十二万と、領の四分の一をあわせて、一年は保ちます。それを過ぎれば、そのときに考えます」
父は、しばらくわたくしを見ております。
それから――笑いました。声を立てて笑うのを、わたくしは初めて見ました。
「なるほどな」
「何かおかしゅうございましたか」
「おかしいとも。お前は今、王家を殺しながら、民を生かすと言ったのだ。この意味がわかるか、アデライド」
「……民が渇かなければ、暴動は王宮に向かいます」
「そうだ。水が止まっても、パンを焼く窯だけは動いている。病院にだけは水が届く。誰がそれを運んでいるのかは、荷車に紋章を入れればすぐに知れ渡る。――ヴェルネの紋章をな」
父が、立ち上がります。
「四日で、王都の民はこう言い出すぞ。『水を止めたのは公爵家ではない。婚約を破棄した王太子だ』とな」
「五日半かと」
「ほう。なぜ延ばす」
「井戸が濁っても、民はまだ耐えます。桶の底に砂が沈むだけでございますから。本気で怒るのは、パンが焼けなくなったときです」
「パン屋が止まるのは」
「五日目。窯が冷えて、翌朝の売り台が空になるまでに、あと半日」
父の目が、細くなりました。
「――誰に教わった」
「教わっておりません。三年前の東部の飢饉で、そうなりました」
「よろしい」
父が、羽根ペンをこちらへ寄越しました。
「管理令に追記せよ。文も、名も、お前の手で書け。ヴェルネ公爵家代理――アデライド・ヴェルネ」
わたくしは、追記の一文と、その名を書きました。
追記に、父の筆は一字も入っておりません。封蝋の上の一段は父のもので、その下の一段は、わたくしのものでございます。
十年間、わたくしの署名はいつも「王太子妃候補」の肩書きと並んでおりました。ヴェルネの名だけで書類に署名したのは、生まれて初めてでした。
父が、扉の外へ短く声をかけました。
馬蹄の音が、三つ。庭を出て、南へ遠ざかってまいります。
書斎を出て、自室に戻り、寝台に腰を下ろして――わたくしは、母の手紙を見つめました。
封を切る勇気が出るまでに、四半刻かかりました。
中には、一枚きり。
震えるような、けれど丁寧な文字で、こう書いてありました。
『アデライドへ
あなたは三つのとき、井戸に落ちた仔猫のために、泣きながら父上の書斎の扉を叩き続けた子です。
半刻でした。手が赤くなっても、やめませんでした。
この家は、それを忘れさせようとするでしょう。
母が、覚えています。
母より』
わたくしは、その紙を膝の上に置いたまま、しばらく動けませんでした。
――思い出せません。
仔猫のことも、扉を叩いたことも、泣いたことも、何ひとつ。
半刻。手が赤くなるまで。
それは、わたくしが今夜、大広間で膝を折っていたあいだの、何百倍でございます。比べてしまってから、なぜ比べたのだろうと思いました。
けれど、右手が。
夜会のときから震えの止まらないこの右手が、なぜ震えているのか、ようやくわかった気がいたしました。
――翌朝の第一鐘。
南部三領の、すべての水門が閉じました。
(第四話へつづく)




