宰相が最初に青ざめた
沈黙というものにも、種類がございます。
言葉を失った沈黙。呆れた沈黙。そして――意味がわからない沈黙。
大広間を満たしたのは、三番目のものでした。
「……水?」
殿下が、繰り返されました。
「水がどうした」
「王都リュミエールの上水は、南部三領の水源林から引かれております。市壁の外を回ってくる石造りの水道橋を、殿下も何度もご覧になっているはずです」
「見たことはある」
「あれが市壁をくぐった先に、分水塔がございます。そこで水路が二つに割れます。ひとつは丘の上の王宮へ、ひとつは市中の泉と共同井戸へ」
「……それで」
「始点は、ヴェルネ公爵領でございます」
「それが、なんだと言うんだ。水道は王家のものだろう」
「水道は王家のものです。水は違います」
わたくしは、扇の骨を一本、指でなぞりました。
「四百年前、この地に王都を築くにあたって、王家はヴェルネ家から水を借りました。買ったのではありません。借りたのです」
「……借りた」
「以後、十年から二十年ごとに更新される貸与契約が結ばれてまいりました。直近の更新が、十年前――わたくしと殿下の婚約でございます」
「婚約が、契約……?」
「はい。婚約契約書第三条により、婚約が成立したその日から、水利権の行使は王家に委ねられます。ただしそれは、婚姻が成立するまでの、仮の預かりでございます」
「……仮の」
「婚姻が成立して初めて、次代の婚約が結ばれるまで延長されるのでございます。四百年、王太子がヴェルネの娘を娶り続けてきたのは、そのためでございます」
「娶らなければ」
「次の二十年の水がございません」
殿下は、何か仰ろうとして、口を閉じられました。
「――本家に娘がおらぬ代には、分家から立てました。血が濃くなりすぎぬよう、四百年かけて回してまいりました」
「……そんな話は」
「そして第七条により、王家側の都合で婚約が解消された場合、水利権は即日ヴェルネ家に戻ります。貸与そのものが、終わるのです」
殿下の顔から、少しずつ色が引いていくのがわかりました。
けれど、まだ足りません。この方はまだ、事の大きさを測りかねておいでです。
「バルテルミー閣下」
壁際で立ち尽くしている宰相へ、わたくしは呼びかけました。
「王宮の貯水槽の容量は、何日分でございましょう」
額の汗を拭いもせず、老宰相が答えます。
「……満水で、十一日」
「現在は」
「先月の乾季で減っております。おそらく、七日」
「では、王宮には七日ございます。――市壁の中には、いかほど」
閣下は、答えられませんでした。
「ございません。市中に貯水槽はございません。四百年、水は流れてくるものでしたから、誰も溜めておりません」
わたくしは、広間を見渡します。
「南部三領の水門を閉じてから、王都の井戸に影響が出るまでは」
閣下が、掠れた声で継がれました。
「三日。……三日です」
大広間に、ようやく理解が広がりはじめました。
貴婦人のひとりが扇を取り落とし、床で乾いた音がひとつ。誰も拾おうといたしません。
当然でございます。この場にいる三百人は、全員が王都に屋敷を持っております。厨房があり、浴室があり、庭に噴水を置いている家すらございます。
そのすべてが、南部三領から流れてくる一本の水道に繋がっております。
「……待ってくれ」
どこかの伯爵が、上ずった声を上げます。
「私の屋敷の井戸は、地下水だ。水道とは関係が――」
「市壁内の地下水は、市中を這う分水管からの漏出で保たれております」
その方の顔も見ずに、申し上げました。
「三十年前の測量記録に残っております。四百年ものあいだ管が漏れ続けて、その水が浅い層に溜まったものです。市壁内の井戸は、天然の水脈ではございません。水道の漏れでできた、人工の水溜まりです」
「そんな、馬鹿な」
「掘り抜き井戸をお持ちの家は、王都に七軒。うち六軒は市壁の外でございます」
伯爵が、椅子に座り込むのが見えました。
「待て」
殿下が、掠れた声を出されました。
「待て、アデライド。お前、まさか本当に水を止める気か」
「わたくしが止めるのではございません」
「同じことだろう!」
「いいえ、殿下。まったく違います」
わたくしは、殿下をまっすぐ見上げました。この十年で、初めてだったかもしれません。
「わたくしは、止めません」
「同じことだと言っている!」
「契約が戻るのです。水利権がヴェルネ家に復帰した以上、南部三領の水門を開けておく法的根拠が、消えます」
殿下の唇が、動きませんでした。
「根拠のないまま王領へ水を流し続ければ、それは公爵家の資産を、無償で王家に差し出していることになります。父が――ヴェルネ公爵グレゴールが、それを許すとお思いですか」
殿下は、答えられませんでした。
答えられるはずがございません。わたくしの父は、そういう人ではありませんから。娘を八歳で王宮に差し出し、十年間ただの一度も、元気かとも尋ねなかった人です。
あの人が計算しないものは、この世にひとつもございません。
「……撤回する」
殿下が、小さく仰いました。
「今のは、なしだ。婚約破棄は撤回する」
「殿下!」
悲鳴を上げたのは、ミレーユ様でした。
「そんな、殿下、あんなに約束してくださったのに! わたし、わたし、殿下のためなら家がどうなってもって……!」
「黙れ、ミレーユ! 今はそれどころではない!」
殿下が、初めてその方を怒鳴りつけました。
ミレーユ様の目から、涙がぽろぽろとこぼれました。今度のものは、本物のように見えました。
わたくしは、そっと視線を外しました。見ていて気持ちのよいものではありませんでしたから。
「殿下」
「なんだ」
「撤回は、承れません」
「なぜだ! 私が撤回すると言っているのだぞ!」
「第七条は『王家側の都合により解消された場合』と定めております。解消は、たった今、この大広間で、三百名の証人の前で成立いたしました」
「私が言ったのだぞ」
「はい。王太子殿下ご自身のお言葉によって。――撤回という概念が、この条文にはございません」
「そんな条文があるか!」
「ございます」
「見せてみろ! 今すぐ持ってこい!」
「原本は王宮の文書庫、地下三層の第七棚に保管されております。鍵をお持ちなのは陛下と宰相閣下のお二方のみ。写しは、ヴェルネ公爵邸の金庫に一通」
殿下の声が、急に低くなりました。
「三通目は」
「ございません。四百年間、三通目を作ることは双方が禁じてまいりました。写しが増えれば、条文が書き換えられますので」
殿下は、宰相を見ました。
バルテルミー閣下は、静かに首を横に振られました。『持ってこられるものではございません』、という意味でございます。
わたくしは、目を伏せました。
「八歳のわたくしに、それを暗誦させたのは、あなたのお父上でございます」
殿下が、息を呑みました。
――そうです。第七条は、王家がヴェルネ家を縛るために作ったものではありません。ヴェルネ家が王家を縛るために、四百年かけて磨いてきた一文です。
では、なぜ王がそれを、ヴェルネの娘に暗誦させたのか。
簡単なことでございます。覚えている者が王宮の中にいるかぎり、その一文は生きている。生きているとわかっていれば、誰も試そうとはいたしません。陛下はわたくしに、鎖を握らせておいででした。鎖の端は、ご自分の首に掛かっている。それを承知のうえで。
王家は水を人質に取られている。だから王太子は、代々ヴェルネの娘を娶る。それだけの話でございました。
そしてわたくしは、その一文を守るためだけに育てられた、契約の付属品でした。
「では、これで失礼いたします」
わたくしは礼をいたしました。
「殿下のご健康と、ヴァルモア王国のご繁栄をお祈り申し上げます」
誰も、わたくしを止めませんでした。
大広間の人垣が、割れるように道を開けます。十年間、この道はいつも殿下のために開くものでした。わたくしひとりのために開くのは、初めてでした。
扉に手をかけたとき、背後で殿下の声がしました。
「アデライド」
振り返りませんでした。
「お前は……本当に、何も感じていないのか」
わたくしは、少しだけ考えました。
感じていないわけではございません。むしろ、ずっと同じことを考えておりました。
――ようやく終わった、と。
けれどそれを申し上げるのは、あまりに不作法でしょう。
「おやすみなさいませ、殿下」
扉が、閉まりました。
廊下の空気は冷たく、燭台の火が細く揺れております。侍女のセシルが駆け寄ってきて、わたくしの外套を肩にかけながら、なにか言おうとして、やめて、また言おうとして、結局こう言いました。
「……お嬢様。手が、震えていらっしゃいます」
言われて、初めて気がつきました。
わたくしは自分の右手を見下ろし、それから、ゆっくりと握りしめました。
「そう」
「お嬢様」
「セシル。馬車を。屋敷に戻ります」
父に、会わなければなりません。
(第三話へつづく)




