婚約破棄をご希望でしたら
「アデライド・ヴェルネ。お前との婚約を破棄する」
王宮大広間の中央で、王太子ルシアン・ヴァルモア殿下はそう仰いました。
三百人分の視線が、わたくしの背中に刺さります。
楽団が音を止めました。給仕は硝子の器を持ったまま固まり、シャンデリアの下で、どよめきだけが波のように広がっていきます。
建国記念の夜会。今年で四百二十一回目。招待状の草案を書いたのは、わたくしでございます。
十年前に王家と交わした婚約契約書の全十二条を、わたくしは今でも暗誦できます。八歳の冬に覚えさせられ、以来、忘れたことがございません。
そのうちの一条を、この方はご存じない。
わたくしは持っていた扇を閉じ、膝を折って礼をいたしました。
息を二つ数えるあいだ。角度は十五度。相手が王族で、公の場で、こちらに非がない場合の礼でございます。十歳の冬に、三か月かけて身体に叩き込まれました。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「……理由だと」
殿下は、わたくしのその一言に、なぜか傷ついたような顔をなさいました。
「そういうところだ、アデライド」
「と、仰いますと」
「今、私は婚約を破棄すると言ったのだぞ。十年だ。十年の婚約だ。それを聞かされて、お前の顔色ひとつ変わらん。涙も、怒りも、問いただすことすらしない。ただ『理由をお伺いしても』だ」
殿下の隣で、桃色の髪の令嬢が小さく肩を震わせていました。カンタン男爵家のミレーユ様。今夜の夜会でも、ずっと殿下の腕にすがっておいでの方です。
「お前には心がない」
殿下は、はっきりと仰いました。
「お前が見ているのは書類だ。人ではない。私が熱を出して寝込んだ日も、お前が寄越したのは見舞いではなく決裁の束だった」
「はい」
「父上の誕生祝いでも、お前は祝辞の前に予算表を開いていた。ミレーユは違う。この娘は、私が咳をしただけで泣くのだ」
「はい」
「……はい、だと?」
「殿下が咳をされた翌週、王宮医師団の年間予算が三割増額されております。あれはミレーユ様が泣かれたおかげでございましょう。よい効果だと存じます」
どこかで、誰かが息を呑む音がしました。
殿下の顔が赤くなりました。
「その言い方だ。その、人を数字にする言い方だ!」
わたくしは、そうですね、と申し上げました。実際、そのとおりでございましたから。
十年前、八歳のわたくしは父に手を引かれて王宮に上がり、その日のうちに王妃教育がはじまりました。教わったのは礼儀作法と、七か国語と、二十三の税制と、四百年分の条約史でございます。心の使い方は、教科に含まれておりませんでした。
十二のとき、家庭教師のひとりが『お嬢様、笑顔のご練習をなさいませ』と仰いました。わたくしは鏡の前で三日間練習をいたしました。四日目の朝、その方が解雇されたという報せが届きました。理由は『課程外の指導を行ったため』でございます。
以来、わたくしの笑い方は、そこで止まっております。
殿下が咳をなさったとき、わたくしが医師団の予算表を開いたのは、そうすることしか教わらなかったからです。けれどそれを申し上げたところで、この場の誰の役にも立ちません。
この十年で学んだことが、ひとつだけございます。
正しいことを申し上げても、場の空気は変わらないということです。むしろ、悪くなります。
「わかりました」
わたくしは、もう一度膝を折りました。
「婚約破棄の件、承知いたしました」
ざわめきが、今度は違う質のものに変わりました。
「あっさりしすぎだろう」「あの人、本当に何も感じていないのでは」「かわいそうなのはミレーユ様よ、あんな冷たい方が相手だったなんて」
声はいくらでも聞こえてまいります。もう慣れました。
この十年、わたくしを庇った方は一人もおられません。
庇う理由がないのです。わたくしは誰の友人でもなく、誰の恩人でもなく、ただ王太子の隣に置かれた家具でございました。家具が捨てられたところで、誰も痛みません。
この広間にいる三百人のうち、二百十四人は、わたくしが決裁した書類のどれかで得をしております。数えたわけではありません。数えなくても出てまいります。そういう頭に作られましたので。
その二百十四人が、今、扇の陰で笑っておいでです。
当然のことでございます。書類には、名前が載りません。載るのは、殿下のご署名だけですから。
ただひとり、広間の隅で侍女のセシルが、両手を握りしめて震えているのが見えました。
あの子だけは、いつもわたくしの分まで怒ります。二十歳になったばかりの、まだ怒り方を忘れていない子です。
わたくしは、そちらへ小さく首を振りました。だめよ、と。
セシルの唇が、悔しそうに歪みました。
「では、これで」
わたくしは踵を返しました。
「待て」
殿下が呼び止められました。
「お前は何も言わないのか。十年だぞ。悔しくないのか。ミレーユに、何か言いたいことはないのか」
わたくしは足を止め、振り返りました。
ミレーユ様が、殿下の袖をきゅっと握って、上目遣いでこちらをご覧になっています。可愛らしい方だと思いました。本当に、そう思ったのです。
「ミレーユ様」
「は、はいっ」
「殿下をよろしくお願いいたします」
「……え?」
「殿下は朝が弱くていらっしゃいます。第四鐘の前に起こしても、二度寝をなさいます。冬は必ず喉を痛められますので、寝室の湿度に気をつけてさしあげてください」
「え、ええと……」
「西の廊下の三番目の窓は建て付けが悪く、風の強い日に鳴ります。眠りが浅くなられますので、そういう晩は東の客間へお移しください」
「あの」
「陛下への月次のご報告は、必ず前夜のうちに清書をご確認ください。殿下は数字の桁をひとつ落とされる癖がおありです。三度、国庫の記載を誤られました。三度とも、こちらで差し替えております」
「……あの、わたし」
「それから、書類にはお目を通されない方ですが、赤い封蝋のものだけは必ずその日のうちに。あれは戻せません」
「もど、せない……?」
「戻せません。赤は、陛下のご署名が要らない案件でございます。殿下の判が押された時点で、王国のどこかで人が動きます。止める手だてはございません」
ミレーユ様の口が、半分開いたまま止まりました。
「以上でございます」
わたくしは頭を下げ、それから――思い出しました。
いえ。思い出したのではありません。ずっと覚えておりました。ただ、言うつもりがなかっただけです。けれど殿下が『何か言いたいことはないのか』と仰るのでしたら、ひとつだけ、申し上げておかなければならないことがございます。
「殿下」
「なんだ」
「婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください」
殿下が、眉を寄せました。
「……なんの話だ」
「十年前、ヴェルネ公爵家と王家のあいだで交わされた婚約契約書でございます。全十二条。第七条にこうございます」
わたくしは、暗誦いたしました。八歳のときに覚えさせられた文章です。忘れようがありません。
「――本婚約が王家側の都合により解消された場合、ヴェルネ公爵領南部三領における水利権は、直ちにヴェルネ公爵家へ完全復帰するものとする」
広間の奥のほうで、椅子の倒れる音がしました。
宰相のバルテルミー閣下でした。六十を過ぎたあの方が、あんな勢いで立ち上がるのを、わたくしは初めて見ました。
「殿下、それは――」
「黙っていろ、バルテルミー。水利権がどうしたと言うんだ。土地の話だろう。ヴェルネ領はもともとあれの家のものだ。返して何が困る」
殿下は、本当にわかっておいででないようでした。
それはそうかもしれません。水は、泉の栓をひねれば出るものですから。どこから来るのかを考える必要のある人間は、この国にそう多くはございません。
「殿下」
わたくしは、静かに申し上げました。
「王都の水は、わたくしの領地から流れております」
(第二話へつづく)




