六百のほうは、まだ勘定に入っておりません
二十二日目の朝、ガルデニア公国軍務省の広間には、二十二人が集まっていた。
石造りの、天井の高い部屋である。北の壁一面が地図で、南の窓は川に向いている。
テオドール・アシュフォードは、卓の上座に立っていた。座らなかった。
「三百台だ。荷車を三百、馬をそれに添えて、車引きを三百。二年、ヴァルモアの南部三領から王都まで動かす。今朝、殿下が裁可された」
卓の左手で、輜重の大佐が手を挙げた。
「二年でございますか」
「二年だ」
「軍の輜重から出すのでございましょう。三百台となりますと、東の街道の分がまるごと消えます」
「消える」
「東は、山越えでございます。冬に荷が止まりますと、麓の三つの村が――」
「だから、東からは出さん。北の予備から出す」
テオドールは、地図の北端に指を置いた。
「北の予備は、ヴァレの丘の線を守るために置いてある。八年、一度も使っていない」
「使っておらぬから、置いてあるのでございます」
「守る相手が、宗主権を売った相手になった」
地図の前で、誰かが咳をした。
「南部三領は、六日前からガルデニアの宗主下にある。北の予備が守る線の内側に、その山が入った。輜重を出すのは、他国への施しではない。自国の水源地への手当てだ」
大佐は、書面に何か書き込んだ。
「……車の数は、動かせませんか」
「動かせん。三百で六万人だ。二百なら四万になる」
六万と四万の差が、この部屋の誰にとって何であるのかを、彼は説明しなかった。説明すれば、昨日の卓であの娘が言った十二万の話をすることになる。
その話は、彼女が自分の口で言うべきものだった。
「もう一件」
卓の右手から、声が上がった。
ロラン大佐である。五十を過ぎている。北部歩兵の連隊長を十二年やり、いまは軍務省の人事にいる。
「車の話は承知いたしました。承知したうえで、別の件を申し上げます」
大佐は、立ち上がった。
「閣下は、ヴァルモア王国の公爵令嬢と婚約なさっておいでだと伺いました」
「している」
「その方が、昨日、公宮においでになったと」
「いた」
「――八年前、ヴァレの丘で、私の弟が死にました」
部屋が、静かになった。
テオドールは、口を挟まなかった。
「弟は、二十一でございました。丘の斜面で、二日目の夕方に。遺体は戻っておりません。あの丘は、掘り返さない約束でございますので」
ロラン大佐の手は、卓の縁に置かれていた。震えてはいない。十二年、連隊を指揮した男の手である。
「私は、その約束に反対したことがございません。反対すれば、また二千四百が死にました。承知しております」
大佐は、そこで一度、息を継いだ。
「承知しておりますが――弟を殺した国の公爵令嬢が、我が国の軍務卿の妻になるという話は、別でございます」
「大佐」
卓の中ほどで、別の男が口を開いた。
「その言い方は」
「言い方を変えろと仰るなら、変えます」
ロラン大佐は、そちらを見ずに続けた。
「ヴァルモア王国は、八年前の夏、こちらの北部の三分の一を焼きました。復興は、まだ終わっておりません」
大佐は、地図の北端を指した。
「焼いた側の家の娘が、焼かれた側の軍務卿の家に入ります。――言い方を変えても、中身は変わりません」
テオドールは、答えなかった。
答える材料は、いくつもあった。
あの娘の家は南部三領で、北部を焼いたのは王国軍であって公爵家ではないこと。八歳から王宮に置かれ、十年、決裁の三分の一を通していたこと。その決裁の中に、北部の焼き討ちを止めた紙が三枚あること。
どれも、事実である。
どれも、この場で彼が言えば、弁護になる。
弁護された者は、弁護された者として部屋を出る。それは、二十二日目の朝に彼女がこの国で得るものとして、最も安いものだった。
だから、彼は黙っていた。
黙るというのは、口を閉じることではない。言える言葉を三つ数え上げて、三つとも卓の下へ落とすことである。落とすたびに、喉の奥が一度ずつ締まった。
黙っている上官を、二十二人が見ていた。
そのとき、部屋の隅で、一人が立ち上がった。
伍長である。この部屋で最も階級が低い。昨日まで迎賓の館の護衛に付いていた男が、今朝この部屋へ呼ばれて、末席に立っていた。発言する立場ではない。
「――伍長」
ロラン大佐が、眉を上げた。
「ジローと申します」
伍長は、そう名乗った。
「北部歩兵、第四中隊。八年前、ヴァレの丘におりました」
卓の端で、書面を繰る音が止まった。
「大佐どのの弟ごが亡くなられた、二日目の夕方。私は、丘の中腹の窪みにおりました。上から四つ目の窪みでございます」
ロラン大佐は、何も言わなかった。
「四日目の朝に、突撃の命が出るはずでございました。窪みの中で、それを待っておりました」
伍長は、卓のほうを見ていなかった。窓のほうを見ていた。
「出ませんでした。かわりに、紙が回ってまいりました。全部ひらがなの、子どもの字でございます」
伍長は、兜を持ち替えた。
「私は、あの朝、六百のうちの一人でございました。丘を下りて、生きて帰った六百でございます」
誰も、口を挟まなかった。
「大佐どの。弟ごの千二百のことは、私には言えません。あの紙は、亡くなった方を一人も生き返らせておりませんので」
伍長は、そこで初めて、大佐のほうを向いた。
「ですが、六百のほうは、まだ勘定に入っておりません」
ロラン大佐の指が、卓の縁で動いた。
「八年、誰もその六百を数えておりません。あの紙のおかげで生きている者が六百いて、そのうちの一人が、いまここで喋っております。数えたのは、たぶん、書いた本人だけでございます」
伍長は、そう言って、姿勢を正した。
「私は、その方に一度も礼を申し上げておりません。伍長でございますので、申し上げる折がございませんでした」
彼は、頭を下げた。
二十度である。他国の高官に向ける角度で、伍長が下げる角度ではない。この男が誰に向かって下げているのかは、部屋の全員に分かった。
それから、腰を下ろした。
部屋は、しばらく音がしなかった。
テオドールは、八年前のその朝を思い出していた。
白旗が上がってきたのは、その朝である。彼は二十歳で、丘の南の斜面に六百を並べていた。並べたまま、翌朝の刻限を待っていた。
娘が帰ったあと、彼は紙を声に出してもう一度読んだ。六百に聞かせるためではない。自分が読み違えていないことを、他人の耳で確かめるためだった。
全部ひらがなである。誤りが二つある。りようこく、と、をか。
誤りのある紙を、彼は八年、懐に入れていた。誤りごと正しいものを、彼はそれ以外に一つも知らない。
ロラン大佐は、立ったままでいた。
この男は、十二年、連隊を指揮してきた男である。数の話をされて黙る種類の男ではない。
「――伍長」
「は」
「そなたは、その方に会ったことがあるのか」
「四日、同じ道を参りました」
「どういう方だ」
ジロー伍長は、少し考えた。
「泉を、半刻ご覧になっておいででした」
「泉を」
「村の泉に、列ができるかどうかを、半刻、立って見ておられました。できませんでしたので、次に、水の値の内訳をお訊きになりました」
ロラン大佐は、その返事をしばらく考えていた。
それから、テオドールのほうを向いた。
「閣下」
「なんだ」
「――弟のことは、まだ言えません。言えぬまま、別のことを申し上げます。その方に、お会いしたい」
「私は、弁護を聞きに来たのではございません。閣下が一言も庇われなかったのは、そのためでございましょう」
「そうだ」
「では、本人に伺います。――八年前、あの丘で何を数えたのか。四百のほうか、二千四百のほうか、それとも別の数か」
テオドールは、窓の外の川を見た。
あの娘なら、四つめを答えるだろう、と思った。
四百でも、二千四百でもない。あの丘の草の下に、数えられていない窪みが十四ある。そのことを、彼女は四日前、丘の上で伍長に訊いていた。
「あれは、今日は公宮だ。宗主権の書き換えで、文官と机に向かっておる。明日、この部屋へ来させる」
「ただし、大佐。一つだけ言っておく」
テオドールは、卓の上座から動かずに続けた。
声の高さは、輜重の話をしていたときと変わらない。変わらないまま、語尾だけが、わずかに柔らかかった。
「あれは、庇われるのを嫌う。数を出されるほうが、まだ楽な女だ」
(第三十八話へつづく)




