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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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四百人の名を、集めさせてくださいませ

 二十三日目の朝、軍務省の広間に通されました。


 昨日、閣下が三百台の話をなさったのと同じ部屋だと伺いました。地図の前に椅子が足してございます。足りないぶんは、壁際に立っておられました。


 人が、四十人ばかりおられました。


 昨日は二十二人だったと伺っております。増えた十八人は、軍装ではございません。年配の方が多うございました。女の方が、六人。


 ――遺族の方々でございます。


 卓の右手に、五十を過ぎた軍の方が立っておられます。


「ロランと申します」


 その方は、そう名乗られました。


「北部歩兵の連隊長を十二年。いまは軍務省の人事でございます」

「アデライド・ヴェルネにございます」


 わたくしは、二十度、頭を下げました。


 閣下は、卓の上座におられます。今日も座っておられません。昨日から一言も庇わなかったと、伍長どのから伺っております。


「単刀直入に伺います。八年前、あなたは十歳で、ヴァレの丘の覚書を書かれた。――あのとき、何を数えられましたか」


 部屋が、静かになりました。


 わたくしは、少し考えました。


 考えたのは、答えではございません。答えの順序でございます。


「二千八百でございます」


 卓の向こうで、誰かが息を呑まれました。


「内訳を申し上げます。四百と、二千四百でございます」


 指を二本、立てます。


「四百は、停戦の朝に丘の斜面に残っていた方々でございます。収容されないままの数でございました。二千四百は、翌朝の突撃で失われるはずだった数でございます。ガルデニア側が六百、王国側が千八百」


 ロラン大佐の目が、こちらを見ておられました。


「千八百のほうは、わたくしが数えたのではございません。使者が持ってまいりました王国側の報告から、そちらの参謀が出された見込みでございます。わたくしは、その見込みを紙の上で足しただけでございます」

「では、六百は」

「六百は、わたくしが数えました。前の日に、ガルデニア側の旗が三つ倒れました。旗ひとつに四百でございます。倒れた三つを引けば、残りが六百でございました」

「――旗の数だけで」

「旗の数だけでございます。丘の下から見えるものが、それきりでございました」


 部屋の空気が、動きませんでした。


「大佐どの」

「なんでございましょう」

「弟ごが亡くなられたのは、二日目の夕方と伺いました」


 この方の指が、卓の縁で止まりました。


「――伍長から、お聞きになりましたか」

「昨日、伍長どのが仰ったことを、そのまま伺いました」


 わたくしは、続けました。


「二日目の夕方でしたら、わたくしの紙は、弟ごを一人も助けておりません」


 誰も、口を挟みません。


「あの紙が止めたのは、四日目の朝の突撃でございます。それまでに亡くなった二千人には、一人も届いておりません。届かなかったものを、届いたように申し上げるつもりはございません」


 ロラン大佐は、しばらく黙っておられます。


「……そう仰る方は、初めてでございます」


 大佐の肩から、力が抜けました。


「八年、私はこの話を何度も聞かされました。あの覚書が二千四百を救ったと。救ったのは事実でございましょう。ですが、そう言われるたびに、私の弟は、救われた側の勘定に入れられます」

「入りません」

「入りません」


 大佐は、そう繰り返されました。


 それから、初めて椅子に腰を下ろされました。


 わたくしは、そこで一つ、申し上げようと決めておりました。


 昨夜、迎賓の館で決めたことでございます。


「大佐どの。一つ、お願いに参りました」


 この方が、顔を上げられます。


「あの丘の窪みは、十四ございます。五日前に、伍長どのに伺いました」

「十四でございます」

「その下に何人おられるかを、誰も数えておりません」


 部屋の後ろのほうで、椅子の動く音がいたしました。


「掘り返さないと書いたのは、わたくしでございます。八年、両軍とも守っておられます。ですから、骨は掘れません。掘れば、あの紙が一行ずつ死んでまいります」


 わたくしは、そこで一度、息を継ぎました。


「骨は掘れません。名前でしたら、掘れます」


 誰も、動かれませんでした。


「両軍の名簿がございます。ガルデニア側には、あの三日で戻らなかった者の名簿がおありでしょう。ヴァルモア王国側にも、同じものがございます。突き合わせれば、あの斜面に残された四百人の名が出ます」

「――王国側の名簿を、どうやって」

「わたくしは、十年、王宮の決裁の三分の一を通しておりました。軍の名簿の所在は存じております」


 卓の向こうで、書き取る筆の音が止まりました。


「王家に頼めば、断られます。ですが、いまヴェルネ家は南部三領の水利権を持っております。王家は、二年、この家に頼らねばなりません。頼る側は、名簿の一つは出します」


 ロラン大佐が、こちらを見上げておられます。


「……何のためでございますか」

「数えるためでございます。四百人の名が並びますと、この十四の窪みは、四百人の窪みになります。四百人の窪みでしたら、数のある場所でございます。数のある場所には、欄がございます」


 言ってから、これでは足りない、と思いました。


 この方々に、欄の話をしても仕方がございません。


 わたくしは、言い直します。


「――名前が分かれば、その方は、いなくなった方ではなく、あそこにおられる方になります」


 卓の左手で、若い士官が口を開かれました。


「八年、誰も思いつかなかったのでございますか」

「思いついた者はおる」


 ロラン大佐が、そちらを見ずに答えられました。


「王国へ名簿を出せと申し入れれば、こちらが丘の勘定をつけ直そうとしていることになる。つけ直しは、たいてい戦の前にやるものだ」

「では、なぜ今なら」

「申し入れるのが、王国の公爵家の娘だからだ。こちらから頼めば戦の支度に見える。あちらから出せば、家の始末に見える」


 部屋の後ろで、誰かが立ち上がりました。


 女の方でございます。年は七十を過ぎておられましょうか。杖をついておられます。


 その方が、卓のほうへ歩いてまいります。


 誰も、止めませんでした。


 老女は、わたくしの半間ほど手前で足を止められました。


 それから、じっとこちらを見上げられます。


「あんたが」


 声が、掠れておりました。


「あんたが、あの紙を書いた娘さんかね」

「書きました」

「うちの息子は、二日目に丘へ上がって、それきりでございます」


 杖の先が、石の床で一度、鳴りました。


「名前は、アンリと申します。アンリ・ムラン。二十でございました」


 わたくしは、その名を、口の中で二度繰り返しました。


 アンリ・ムラン。


 覚えるのは、得意でございます。十年、覚えることで食べてまいりました。


「アンリ・ムラン様。承りました。名簿が出ましたら、いちばん先に、その名をお探しいたします」


 老女は、何も仰いません。


 仰らずに、わたくしの手のほうへ目を落とされました。


 ――右手でございます。


 震えております。


 十一度目でございました。


 この方の名を書き込む欄が、わたくしの帳面にまだございません。名簿はこれから頼むのでございますから、あるはずがございません。


 老女は、その手を、しばらく見ておられました。


 それから、何も仰らずに、杖をついて、もとの席へ戻ってゆかれました。


 部屋は、静かなままでございます。


 ロラン大佐が、立ち上がられました。


「――ヴェルネ嬢」

「はい」

「名簿の件、軍務省として承ります。ガルデニア側の名簿は、私が出します。八年、人事におりましたので、どこにあるかは存じております」


 大佐は、そこで一度、言葉を切られました。


「王国側の名簿を、あなたが取ってこられるのでしたら」

「取ってまいります」

「――婚約の件については、まだ何も申し上げておりませんぞ」

「存じております。今日は、そちらのお話をしに参ったのではございません」


 卓の上座で、閣下が窓のほうを向いておられます。


 こちらは、ご覧になりませんでした。



(第三十九話へつづく)

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