十二万人は、渇いたままでございます
二十一日目の第三鐘に、公宮へ上がりました。
通されたのは、謁見の間ではございませんでした。卓が一つきりの、天井の低い部屋でございます。
卓には、七人が着いておられました。
閣下がおられます。軍装ではなく、外套でございました。ほかの六人は存じ上げません。三人は文官、三人は軍の方でございます。
いちばん奥に、白い髭の方が座っておられました。
ガルデニア大公ギヨーム殿下でございます。六十を過ぎておられます。閣下の伯父にあたられる方でございました。
――王族に向ける角度は、十五度でございます。他国の高官には、二十度でございます。
他国の元首に向ける角度を、わたくしは教わっておりません。八年、王宮でその折がございませんでした。
この二つは、身分ではなく血で分かれております。血で分かれるのでしたら、他国であっても王族は王族でございます。
わたくしは、十五度、頭を下げました。
「アデライド・ヴェルネにございます」
「掛けなさい」
声が低うございます。閣下の声に似ておりました。
卓の上に、条約の写しが広げてございます。
頁の端が、幾つも折ってございました。読まれた紙の折り方でございます。
「第六条を読んだ。復旧の二年、ガルデニア公国はヴァルモア王都へ水を売る。値はガルデニアの平時価格。一樽二リーヴル。運び賃は取らぬ。いずれの側にも利益および損失を生じない」
「はい」
「訊きたいことが一つある」
殿下は、こちらをご覧になりました。
「なぜ、我が国の水を買う」
――そこでございます。
わたくしは、姿勢を正しました。
この方は、条約の中でいちばん薄いところをご存じでございます。
「水は、そなたの家の山にあるのだろう。四マイル先だ。我が国から運べば、その五倍を運ぶことになる」
「仰るとおりでございます。南部三領の水は、涸れておりません。涸れたのは、水ではなく管でございます」
「では、第六条は要らぬ」
「水は要りません。要るのは、車と、馬と、人でございます」
卓の端で、文官の一人が筆を執ります。
「順を追って申し上げます」
わたくしは、順に申し上げました。
「一つ。王都の水売組合は、荷車を二十九台持っております。一台に日に八樽。二百三十二樽でございます。これは中継所から市中まで二マイルを、朝と夕の二度運んだ数でございます」
「中継所は使えぬのか」
「使えません。中継所の坑は、導水路から水を汲み上げる口でございます。導水路が抜けましたので、汲むものがございません」
「二つ。十七日目に発ちます前から、水源林の堰の下で汲むように変えてございます。そこから南門まで四マイル。荷車で三刻でございます。往復六刻。一日に一度きりでございます」
「一台に八樽ではなくなるな」
「四樽でございます」
「三つ。二十九台で、日に百十六樽。いまの半分でございます」
「その二十九台は」
「三百に混ぜます。別に走らせますと、四マイルの道で列が二重になりますので」
卓が、静かになりました。
「王都の人口は二十万でございます。一樽で、五十人が一日渇かずにおられます。百十六樽で、五千八百人でございます」
文官の一人が、書き取っておられます。
「必要なのは、水ではございません。車でございます。三百台を、二年、動かしていただきたいのでございます。馬と、車引きを添えて。三百台で日に千二百樽。六万人でございます」
殿下は、こちらをご覧になったままでございます。
「六万か」
「六万でございます」
わたくしは、そこで一度、息を継ぎました。
「残る十四万人には、届きません」
部屋の空気が、動きませんでした。
「市壁の外の泉が、日に千人分。掘り抜き井戸が七軒、うち六軒は市壁の外でございます。あわせて、多く見積もって二万。それでも十二万人が残ります」
軍の方の一人が、口を開かれました。
「――十二万を、放っておくのか」
「放ってはおりません。数えております」
わたくしは、その方のほうを向きました。
「二年のあいだ、十二万人は、桶を持って市壁の外へ出るか、川のある町へ移るか、そのどちらかでございます。移れる者は移ります。移れない者が残ります。残るのは、年寄りと、病人と、子でございます」
誰も、お答えになりません。
――十二万人は、渇いたままでございます。
右手が、震えております。十度目でございました。
この数を書き込む欄が、わたくしの帳面にございません。二年でどれだけ死ぬかを数えた者が、この世に一人もおりませんので、作りようがございません。
「その方々が、二年でどれだけ死ぬかを、わたくしはまだ数えられておりません。数えた者が、この世に一人もおりませんので」
軍の方が、もう一つ訊かれました。
「六万に配るのは、誰が決める」
「水売組合でございます」
「王家ではないのか」
「王家には、数える者がおりません」
組合は、断水の初日から一度も値を上げておりません。二十四リーヴルの相場のときに、二リーヴルで売り続けた者たちでございます。渇いているときに何をしたかで、あとの十年が決まると申しておりました。
「配る順は、組合長のマルタンと、わたくしとで決めます。決めた順は、板に書いて出します。誰が先で、誰があとかを、隠さずに出します」
「恨まれるぞ」
「恨まれます。ですが、隠して配れば、二年で組合が潰れます」
卓の向こうで、大公殿下が指を組まれました。
「そなたは、こちらへ売り込みに来たのではないのか」
「売り込みに参りました」
「売り込む者は、六万を先に言うて、十二万は言わぬものだ」
「言わずに始めますと、二年目に露見いたします」
卓の端の一人が、顔を上げられました。
「露見いたしましたときに、ガルデニアは十二万人を見殺しにした国と呼ばれます。呼ばれれば、二十年後に蒸し返す材料が残ります。――閣下が、宗主権を相場でお買いになったのと同じ理屈でございます」
殿下が、組んでいた手をほどかれます。
それから、目が、こちらから閣下のほうへ動きました。
閣下が、こちらをご覧になりました。
卓の向こうから、ほんの一度でございます。何も仰いません。
「もう一つ、申し上げねばならないことがございます」
わたくしは、続けました。
「第六条は、水を売ると書いてございます。ですが、実際にお売りいただくのは、ほとんどが車と馬と人でございます。水はヴェルネ家の山から出ます」
「それが、どうした」
「二リーヴルという値が、合わなくなります」
文官の三人が、いっせいにこちらを見ております。
「一樽二リーヴルは、ガルデニアの水をお売りになるときの値でございます。ですが、運ぶ水のほとんどは南部三領のものでございます。ガルデニアがお売りになる樽は、ほとんどございません」
文官の一人が、筆を止めております。
「売る樽がなく、運び賃も取らぬと書いてございます。この条は、ガルデニアが一銭も受け取らない条になります」
わたくしは、そこで頭を下げました。
「いずれの側にも利益および損失を生じない、と書いてございます。損失が出ます。書き直しをお願いに参りました」
卓の端で、誰かが息を吐かれました。
大公殿下は、しばらく黙っておられます。
それから、条約の写しを一度、閉じられました。
「軍務卿」
「は」
「この娘は、自分の国のために来たのか、我が国のために来たのか」
「両方でしょう」
閣下が、初めて口を開かれました。
「片方だけの者は、条文の穴を自分から申し出ません」
殿下はうなずいて、それから、こちらへ仰いました。
「車は出す。三百でよいのだな」
「三百でございます。多ければ多いほど助かりますが、道が四マイルきりでございます。四百を超えますと、街道で詰まります」
「詰まる前の数を、そなたが出したわけだ」
「はい」
殿下の手が、卓の上に置かれます。
「値は、書き直させる。文官がやる」
「陛下のご署名が要ります」
「要らぬ。減らすのはこちらの取り分だ。あちらの負担は一銭も増えぬ。増えぬ書き直しに、向こうの署名は要らん」
それから、この方は少し身を乗り出されました。
「――ところで」
声の調子が、変わっております。
「そなたは、うちの軍務卿と婚約しておるそうだな」
わたくしは、顔を上げました。
「九日目にお受けいたしました」
「わしは、その話を本人から聞いておらぬ。昨日から、あれは公都におる。国境で足止めを食っておったわけでもあるまい」
卓の向こうで、閣下が窓のほうを見ておられました。
「軍務卿。伯父に言うことはないのか」
「本国の議会に諮る前に、伯父上に申し上げるわけには参りません」
「――言い訳が、四十年ぶんうまくなったな」
殿下は、そう仰って、初めて笑われました。
笑われてから、こちらへ向き直られます。
「明日、軍務省へ行きなさい。そなたの車の話をする者と、そなたの顔を見たがっておる者とが、同じ部屋におる」
(第三十七話へつづく)




