値が、動かないのでございます
国境を越えたのは、十八日目の夕方でございました。
石が一つ、道の脇に立っております。膝ほどの高さで、字は彫ってございません。
「これが境か」
閣下が、そう仰いました。
「境でございます。彫ってあったものは、八年前に削り落としました」
ジロー伍長が、そう答えられます。
「どちらの側の兵も、彫り直しに来ておりません」
そこから南は、道が変わりました。
轍が深うございます。荷が通っている道でございました。
――二十日目の朝。
川を渡りました。
橋の下を、水が音を立てて流れております。
わたくしは、馬を止めて、しばらくそれを見ておりました。
川幅は、二十間ほどでございましょうか。深さは分かりません。分からないほど流れております。
――この川は、一日に何樽でございましょう。
数えようといたしました。
二十間の幅に、深さが仮に一間として、流れの速さが――
速さを測る手立てが、ございません。
王都の水は、堰が十九、坑から上げられるのが日に二百五十樽、荷車が二十九台。全部、数えられる形に並べてございました。四百年かけて、人が並べ替えたからでございます。
この川は、並べ替えられておりません。
わたくしは、数えるのをやめて、馬を出しました。
道の両側に、水路がございました。
畑のあいだを走っております。石で畳んだものではなく、土を掘っただけの溝でございます。板を一枚落とせば、水が畑へ入る作りでございました。
板を上げ下げしているのは、麦の畑の女でございます。
一人でございました。
――四十人で、二刻。
南部三領では、十九の堰を開けるのに四十人と二刻かかります。順序が決まっておりますので、一人では回りきれません。
こちらでは、女が一人で板を上げております。
水が余っているというのは、こういうことでございました。
村を二つ通りました。
二つとも、真ん中に泉がございます。
列が、ございません。
女が桶を提げてまいります。汲みます。帰ります。次の者が来ます。汲みます。帰ります。
見張りは立っておりませんでした。順番を決める者もおりません。
わたくしは、馬を下りて、そこに立っておりました。
半刻ほど見ておりましたが、列にはなりませんでした。
「お嬢様」
セシルが、こちらへ寄ってまいります。この娘は、油紙の包みを一つだけ抱えております。婚約契約書の写しでございました。
「あの、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「あの泉は、誰のものでございましょう」
わたくしは、口を開いて、そのまま閉じました。
王都の泉は、市壁の外にひとつきりで、日に汲めるのは千人分でございます。誰のものかと申せば、王家のものでございました。
この泉が誰のものかを、わたくしは知りません。
「伍長どの」
「は」
「あの泉は、どなたのものでございますか」
ジロー伍長は、少し考えられました。
「……村のものでございます」
「村の、どなたの」
「村の、でございます」
この方は、それ以上の言い方をお持ちでないようでございました。
わたくしは、もう一つ伺いました。
「水は、一樽いくらでございますか」
「二リーヴルでございます」
九日目に伺った値と、同じでございます。
「去年は、いくらでございましたか」
「二リーヴルでございます」
「その前の年は」
「二リーヴルでございます」
伍長は、当たり前のことを訊かれた顔をしておられます。
「日照りの年もございましょう」
「ございます。川が細ります」
「そのときは」
「……二リーヴルでございます」
――そこでございます。
王都の水は、平時が一樽二リーヴルでございました。三日目に二、六日目に八、九日目に二十四。六日で十二倍でございます。
あの二十四リーヴルは、水の値ではございません。渇きの値でございます。
こちらの二リーヴルは、動きません。動かないのは、渇く見込みがないからでございます。
――値のつくものと、値の動くもの。
四百年、ヴァルモア王国が数えてまいりましたのは、後のほうでございました。堰も、樽も、荷車も、みな渇きの側から数えた数でございます。
この国の帳面には、渇きの欄がございません。
その国から、二年、王都へ水が来ます。
動かない値で、動く値の国へ入ることになります。
――二十日目の夕方。
公都リヴィエールが見えました。
市壁がございます。ヴァルモアの王都のものより低うございました。低くてよい理由が、川でございます。市壁の三方を川が回っております。
門は、開いておりました。
閉じていない門を、わたくしは初めて見ました。
門の脇に、人が立っております。文官の身なりでございました。年は四十ばかり。
その方は、閣下ではなく、こちらへ先に一礼をなさいました。
「――アデライド・ヴェルネ様。ようこそおいでくださいました。迎賓の館の差配を務めます、オーブリーと申します」
名でございました。
公爵令嬢でも、ヴァルモアの使者でも、水門管理令の代理人でもございません。
名でございます。
二十度、頭を下げました。
他国の高官に向ける角度でございます。館の差配の方に向ける角度ではございません。
ですが、名を呼んでいただいたお礼の仕方を、わたくしはそれ以外に存じませんでした。
「アデライド・ヴェルネにございます。お世話になります」
「大公殿下が、明日の第三鐘にお会いになります。今日は、お休みくださいませ」
「オーブリー殿。一つ、伺わせてくださいませ」
「はい」
「明日は、殿下のほかにどなたがお出ましになりますか」
「軍務省の方々が、幾人か」
この方は、そこで少しだけ言葉を選んでおられます。
「……この先、八年前の戦で身内を亡くされた方に、お会いになることもございましょう」
「そうでございますか」
「ご承知おきいただければ、と存じます」
わたくしは、もう一度、頭を下げました。
閣下は、門の内で馬を下りられました。
「私は軍務省へ回る。明日、公宮で会おう」
それだけ仰って、十一騎を連れて東へ折れられました。ジロー伍長だけが、こちらへ残られます。
市壁の内は、水の音がいたしました。
川から引いた水路が、街路の片側を通っております。その水路に、水車が三つ。粉を挽く音でございました。
川の岸では、女が十人ばかり並んで洗い物をしております。ヴァルモアの王都では、洗い物は桶一杯の水を三度使い回すものでございました。ここでは、流れの中で濯いで、そのまま流しております。
「お嬢様」
セシルが、小さな声で申しました。
「わたくし、五年前に市場で拾っていただきましたときに、水を一杯いただきました」
「覚えております」
「あの一杯は、王都でしたら銭を出して買うものでございました。……ここでしたら、誰も勘定しないのでございますね」
迎賓の館は、川に面しておりました。
通された部屋には、寝台と、卓と、椅子が三つ。窓が二つございます。両方とも、開けたままにしてございました。
卓の上に、水差しが置いてございます。
硝子でございました。
満たしてございます。
わたくしは、その前に立っております。
――桶に、半分ほどでございましょうか。
一樽の何分の一になるのかを、わたくしは存じません。樽の大きさは覚えておりますが、硝子の水差しに何杯入るかを、数えたことがございませんでした。
この水差しは、わたくしが飲まなければ、明日には捨てられます。
捨てられて、また満たされます。
誰も、この一杯を数えておりません。
「お嬢様」
セシルが、扉のところで立っております。
「お召し替えの湯を、お持ちくださるそうでございます」
「湯」
「はい。……あの、二はい、と申しておられました」
「二はい」
「わたくしが、一ぱいで結構でございますと申しましたら、なぜ減らすのかと訊かれました」
セシルは、困った顔をしております。
「お答えできませんでした」
わたくしは、その言葉を聞いて、しばらく動けませんでした。
湯二はいでございます。
十三日目の王宮で、あの方が使われたのと同じ量でございました。あの二はいは、西区へ届くはずだった二十樽が丘の上へ回された、その二十樽のうちの二はいでございます。
こちらの二はいは、川の水でございます。
同じ二はいが、片方では西区の朝を一つ潰し、片方では何も潰しません。
――欄が、合いません。
わたくしは、卓の水差しに手を触れました。
冷たうございます。
――右手が、震えております。
九度目でございました。
(第三十六話へつづく)




