だれもすまないこと
十八日目の昼過ぎに、丘が見えてまいりました。
南部三領の南の端でございます。ここから先が、ガルデニア公国でございました。
道は、丘の裾を東へ回っております。回らずに、閣下は馬の首を西へ向けられました。
「上がる」
それだけ仰いました。
斜面には、草が生えております。
膝の上まででございました。ほかには、何もございません。
畑がございません。牧がございません。杭も、石垣も、道の跡もございません。八年、鋤の入っていない土は、こういう草の生え方をするものだと、わたくしはこの日に知りました。
丘の上に立ちますと、北も南も見渡せました。
北は、南部三領の水源林でございます。南は、ガルデニアの畑でございました。麦でございましょうか。緑の面が、遠くまで続いております。
そのあいだの、この丘だけが、草でございます。
――『だれもすまないこと』
八年前の夏に、十の娘がそう書きました。
書いた者は、この土地を見たことがございませんでした。地図の上の丘でございます。両軍がそれぞれ十マイル下がれば、あいだが二十マイル空きます。空いたところに人を住まわせれば、住んだ者が次の口実になります。ですから、住まわせません。
紙の上では、そういう勘定でございました。
勘定の外に、この草がございます。
閣下は、馬から下りて、少し先を歩いておられます。
三十間ばかり先で、足を止められました。
わたくしも、そこまで参りました。
草の中に、窪みがございます。長さが四間ほど、幅は一間ほど。周りより、草の色が濃うございました。
「ここか」
「ここでございます」
ジロー伍長が、そう答えられました。
この方は、丘に上がってから一度も口を開いておられませんでした。
「掘っておりません。八年、誰も掘っておりません」
伍長は、そう申されて、兜を脇に抱えられました。
――『ほねは、ほりかえさないこと』
四つ書いたうちの、四つめでございます。
停戦の朝、この斜面には四百人が残っておりました。収容されなかった四百人でございます。
十の娘は、その四百人を数に入れて紙を書きました。掘り返さないと書けば、両軍とも収容に人を出さずに済みます。人を出さずに済めば、その日のうちに軍を下げられます。
紙の上では、そういう勘定でございました。
勘定の外に、この窪みがございます。
「伍長どの」
「は」
「この下に、何人おられますか」
ジロー伍長は、すぐには口を開かれませんでした。
「……存じません」
それから、そう申されました。
「この窪みが、丘に十四ございます。数えたことはございますが、下の人数は、誰も存じません」
十四でございます。
欄が、また一つ空きました。
――空いている欄が、もう一つございます。
こちらは、九日目から空いたままでございました。
わたくしは、そこにしばらく立っておりました。
風が、草を撫でて南へ抜けてまいります。麦のほうへ抜けてまいります。
「閣下」
「なんだ」
「三つめのことを、申し上げに参りました」
閣下は、丘の北を見ておられます。
「九日目の夕方に、わたくしは、たぶん、あなたを好きにはなれませんと申し上げました。なりかたを知らないと」
「言った」
「あれを、取り消しに参りました」
草の音のほかに、音がございません。
「取り消して、どうする」
「――」
わたくしは、そこで詰まりました。
取り消せば、好きになれるということになります。
なるのでございましょうか。
この十八日で、わたくしがこの方について新しく知ったことを並べます。二十樽を四十リーヴルで売られたこと。尾根を越えてから四日、旗を畳んだまま動かずにおられたこと。十六日目に、その旗を上げて表からお入りになったこと。
どれも、勘定の合う話でございます。
合う話ばかりを並べたところで、好きだという結論は出てまいりません。合うから信用できる、までしか出てまいりません。
――取り消せません。
わたくしは、そう気づきました。
取り消せば、嘘になります。わたくしは、紙に嘘を書いたことがございません。口でも同じでございます。
「閣下。取り消せませんでした。申し訳ございません。取り消しに参りましたが、取り消すだけの中身がございませんでした」
閣下は、こちらを向かれました。
丘の上は光が強うございます。いつもより、目の色が薄う見えました。
「それを言いに、丘を上がったのか」
「はい」
「――律儀な女だ。九日目に、好きにならなくていいと申し上げたはずだ」
「仰いました。なりかたを知らないなら、それでいい、私も知らん、とも」
「では、取り消しに来ることもあるまい」
「ございました。あの日、閣下は、もうもらっていると仰いました。もらっておられるのでしたら、こちらは払っていないことになります」
閣下は、草の中に立っておられます。
「払っていないものを、払わなくてよいと言われたままにしておくのは、勘定の外でございます」
そう仰ってから、丘の南のほうへ目を移されます。
「では、こちらの用も済ませておく」
わたくしは、姿勢を正しました。
「九日目に、私はあなたを国ごと買うと言った」
「仰いました」
「その値を、直させてもらう」
――やはり、そうでございます。
わたくしは、うなずきました。
この方はご自分で仰る前に、こちらから申し上げるつもりでございました。それを先に言われただけでございます。
「閣下。値は下がっております。南部三領の宗主権は、相場でお買いになりました。そこは変わりません。ですが、わたくしのほうが変わりました」
指を、一本折りました。
「持参金十二万リーヴルは、導水路に消えます。第九条により婚約者本人の名義で返されたものでございますが、返された先から、石の下へ入ります」
二本目を折りました。
「南部三領の年間収入も、二年、そちらへ入ります。家は無一文でございます。使用人は二十三人、三月ぶんの給金を先渡しして解雇いたしました。屋敷の井戸には、縄も滑車もついておりません」
三本目を折りました。
「わたくしが十年やってまいりました王宮の決裁は、ガルデニアでは何の役にも立ちません。ヴァルモア王国の四十七家の名と、十年ぶんの前例を覚えているだけでございます」
閣下は、草の中に立っておられます。
「この国では、覚えていること自体が値になりません」
わたくしは、折った指を開きました。
「――国ごと、と仰いました。その国が、いま手元にございません」
草が、鳴っております。
「値が下がりました。閣下は、下がった値でお買いになることになります」
閣下は、最後まで黙って聞いておられます。
「下がっておらん」
わたくしは、顔を上げました。
「――計算が、合いません」
「合っている」
この方の顎が、丘の窪みのほうへ向きます。
「八年前、私はこの丘で二千四百を数えた。翌朝の突撃で死ぬはずだった数だ。その数を止めたのは、土地でも、金でも、軍でもない。紙が一枚だ」
それから、こちらを見られました。
「私が九日目に買うと言ったのは、その紙を書いた頭のことだ。国は付いてきただけだ。付いてきたものが外れたところで、値は動かん」
風が、いったん止みました。
草の音がやみますと、この方の声だけが残ります。九日目に伺ったときより、わずかに低うございました。
わたくしは、答えられませんでした。
答えられないというより、書き込む欄を探しておりました。
値が動かない理由が、収入でも、地所でも、家の格でもございません。四百年、ヴェルネ家の娘についていた値札は、水利権の担保でございました。担保が外れれば値は落ちます。落ちるはずでございます。
この方は、その値札を見ておいでではございません。
――右手が、震えております。
夜会の晩から数えて、八度目でございました。
「閣下」
「なんだ」
「わたくしは、いま、震えております」
震えている右手を、左の手で包みます。
「合わない数なら、合わせる手がございます。欄のないものには、ございません。この手が震えますのは、いつも欄のないときでございます」
「知っている。九日目にも、震えていた」
――ご覧になっておいでだったのでございます。
あの日も、わたくしは左の手で右手を押さえておりました。押さえていれば分からぬものと思っておりました。
「閣下は、それを、どうお思いになりましたか」
「欄がないなら、これから作ればいい」
この方は、丘を下りはじめられました。
「作るのは、あなたの仕事だ。私は、紙を待つのが得意だ。八年待った」
わたくしは、その背を追いました。
丘の南に、麦の面が広がっております。
その向こうが、ガルデニア公国でございました。
(第三十五話へつづく)




