二年を、はじめて見ました
十七日目の朝、わたくしどもは南門を出ました。
門の外で、荷車の列とすれ違いました。
二十九台でございます。空でございました。国境から上がってくる樽を受けに、これから南へ下る車でございます。
先頭の男が、手綱を引いて止まりました。
「お嬢様」
マルタンでございました。腕が丸太のようで、歯が三本欠けている男でございます。
「昨日、王宮で紙に署名がついたと聞きました」
「つきました」
「――これで、水が来ますか」
わたくしは、首を横に振りました。
「来ません。二年は来ません。来るのは、ガルデニアの樽でございます」
「二年」
「はい」
マルタンは、しばらく手綱を見ておりました。
「うちの倅は、九つでございます」
それだけ申しました。
「十一で、水が戻ります」
わたくしは、そう申し上げました。
勘定でございます。慰めるつもりで申したのではございません。
マルタンは、うなずいて、それから、車を出しました。
南街道は、上りと下りが逆になっておりました。
十日目からこちら、この道は南へ向かう軍でいっぱいでございました。いまは、その軍が南から北へ引き上げております。
工兵隊が先で、歩兵が二個大隊。来たときと同じ順序で、逆向きに歩いておりました。
道の脇に寄って、わたくしどもは通り過ぎるのを待ちました。
閣下は、馬上で何も仰いません。
銀の狼の旗は、下ろしてございます。上げたまま軍とすれ違えば、見せに来たことになるからでございました。
――国境まで、二日でございます。そのあいだに、数えてまいります。
昨日、わたくしはそう申し上げました。
申し上げてから、丸一日、一つも数えておりません。数えるための欄を、まだ引いておりませんでした。
好きになれるかどうかを、どの欄に書けばよいのか存じません。八年待たれた方に何を返せるかも、帳面には出てまいりません。
水源林に着いたのは、第四鐘のころでございます。
山の裾から、人が下りてまいります。
二人、三人ではございません。列でございました。
鍋を提げた女がおります。子を負ぶった女がおります。老人が二人がかりで戸板を担いでおりました。上に、動けない誰かが乗っております。
七日でございます。この方々は、七日、山におられました。
列の先頭に、革の前掛けの男が立っておりました。
腰の鍵束が、歩くたびに鳴っております。
「――嬢」
ユベールでございました。
六十を過ぎた水門長の顔は、七日ぶんの髭と、煤で黒うございます。
「よう、お戻りで」
「戻ってまいりました」
「王都は」
「渇いております。昨日の朝から、市中の泉は一滴も出ません」
ユベールが、山のほうを見上げます。
「へえ。四百人、下ろしました。欠けはございません。堂に入りきらんかった半分は、墓地で寝ておりましたが、墓の主のほうが静かでございましたので」
この人が、こういう顔をなさるのだと、わたくしはこの日に知りました。
わたくしは、そこで思い出しました。
「ユベール殿。十二日目に、麓の宿場でお預かりしたものがございます」
「宿場」
「馬方の、ドニと申される方から」
鍵束の鳴る音が、止まりました。
「姉の子でございます」
「はい。そう伺いました」
わたくしは、そのまま申し上げました。
「叔父にお会いになったら、わしは断らなかったと。そうお伝えくださいと」
ユベールは、何も仰いません。
それから、革の前掛けの縁を握られました。
「……あれは、七日前に、兵隊の馬を替えました」
「替えました」
「替えれば、水源地へ早う着きます。着けば、堰が開きます。断らなかった、と言うておるのは、そのことでございます」
「はい」
「わしは、断れと言うたことがございません」
水門長は、鍵束を握り直されました。
「ですが、あれは、わしが断れと言うたと思うておるのでございましょう。十九の堰を閉じた男の姉の子でございますから」
――欄が、一つ空いております。
わたくしは、ドニという方の顔を思い出そうといたしました。宿場の朝でございます。証文はお書きしませんでした。銀を三枚、飼葉桶の縁に置いて、馬を一頭お借りしました。
輪郭も、声の高さも、一つも戻ってまいりません。
「ユベール殿。お返事は」
「わしから、あれに言うことはございません。ただ、水が戻りましたら、いちばん先に宿場へ回してやってくださいまし。あれが替えた馬が、この山へ兵隊を運びましたので」
堰は、南の斜面に十九ございます。
地上から見えるのは七つ。残り十二は、木の陰と尾根の向こうでございます。
斜面には、人が入っておりました。
「四十人でございます。昨日の夕から、順に絞っております」
ユベールは、そう申されて、山の上のほうを指されました。
「順序がございます。上から順ではございません。下から絞りますと、上の水が行き場をなくして溢れますので」
開けるのに四十人と二刻。閉じるのにも四十人と二刻でございます。
わたくしは、その数を七日前に伺いました。伺ったときには、紙の上の数でございました。
いま、その四十人が斜面に散っております。歯車が鳴って、板が下りて、水音が一つずつ細くなってまいります。
「十二は、絞ってどうなりますか」
「どうにもなりません。管はもう抜けております。絞りますのは、これ以上、山の水を無駄に落とさんためでございます」
「――ご覧になりますか」
鍵束が、また鳴りました。
中継所の汲み上げ井とは別に、導水路の途中を覗く点検坑が、三マイルのあいだに七つございます。地上は、南街道の下でございました。
南から三つ目の坑の蓋を、四人がかりで開けました。
梯子は、四十段ばかりでございます。両端の坑は七十二段でございますが、途中の坑は、地面の高いところ低いところに合わせて深さが違うそうでございます。
降りました。閣下も降りられました。ジローという伍長の方が、角灯を三つ持って先に立たれました。
下は、匂いが違っておりました。
石と、水の抜けたあとの泥の匂いでございます。七日前にここを歩いたときは、乾いた石の匂いでございました。
天井は背丈の二倍。幅は五尺。傾きは一マイルにつき二尺でございます。
角灯を上げますと、その先が、途中で終わっておりました。
――終わっている、というのは、正しくございません。
石が、内側へ落ちておりました。
天井の石が三つ、四つと外れて、床に積んでおります。積んだ石の隙間から、水が滲んで、泥になって、その泥が管の底に一面広がっておりました。
目地でございます。
四百年、石と石のあいだを埋めていたものが、三日で緩んで、四日目に抜けました。
「――ここが一つでございます」
ユベールが、角灯を低くされました。
「三マイルのあいだに、こういう箇所が、いくつございますか」
水門長は、答えられません。
答えられないのではなく、まだ数えておられないのでございます。
「掘り直しに二年、と申しました。二年では、きかんかもしれません」
わたくしは、角灯を受け取って、落ちた石のほうへ寄りました。
石の一つに、手を置きました。
冷たうございます。それだけでございました。
――一つ。
数えようといたしました。
落ちた石は、角灯の届く範囲に十七ございます。届かない先に、いくつあるのかは分かりません。三マイルのうち、いま見えているのは十間ばかりでございます。
十間で十七なら、三マイルで――
――割り切れません。
箇所の数が分からないものに、一箇所あたりの数を掛けることはできません。掛けたところで、日数にはなりません。
欄がございません。
わたくしは、石から手を離しました。
指の先が、痺れております。冷たいものに触れていたからではございません。触れているあいだ、息を止めておりました。
右手は、震えておりません。
石に押しつけておりましたので、震えていたとしても分かりません。
分かりますのは、数えるのを途中でやめたということだけでございます。
やめたのは、生まれて初めてでございます。
角灯の油が、じじ、と鳴りました。
閣下が、少し離れたところに立っておられます。
こちらへは、来られません。
来られずに、ただ、こちらを見ておられます。
――二年でございます。
数えられないものを、二年、毎日見にゆく者が要ります。その役は、昨日、ラフォン中隊長がお引き受けくださいました。
引き受けていただいたときには、わたくしはまだ、この石を見ておりませんでした。
(第三十四話へつづく)




