水は、もう王家のものではございません
十六日目の第三鐘に、南門が開きました。
東の棟の窓からは、南門は見えません。見えたのは、丘の裾から上がってくる列のほうでございました。
旗が一つ。銀の狼でございます。
その下に、騎影が十二。
二マイルを、駆けずに上がってまいりました。駆ければ急使でございます。歩かせれば、使節でございました。
――旗を上げて入国している。王宮へ表から入れるのは、この国で私だけだ。
十二日目の夜明け前に、あの方はそう仰いました。仰ったとおりの日に、仰ったとおりの入り方でございます。
列が丘の中腹に差しかかったころ、廊下の錠が外れました。
宮内卿ではございませんでした。
立っておられたのは、近衛第三中隊長エミール・ラフォンでございます。
「――お召しでございます。謁見の間へ」
「中隊長」
「は」
「今朝、記録はどうなっておりますか」
「板を書いた者を捕らえたのは、わたくしである、と。昨日のうちに写しが三通、作られております」
声が、二日前より落ち着いておられます。
「ご処分は」
「まだでございます。今日それどころではないと、上が申しております」
わたくしは、廊下へ出ました。
壁の扉の向こうで、父が立ち上がられる音がいたしました。
「父上も、お召しでございます」
中隊長は、そちらへ向いて、そう仰いました。
謁見の間には、四十人ばかりが立っておりました。
卿と、書記と、近衛と。宰相閣下は、いちばん端におられます。南部三領の一件から外された方でございますので、席がございません。
王太子殿下は、陛下の右に立っておられました。
わたくしと父は、扉の内側に立たされました。水売りの前掛けのままでございます。着替えよとは、今日も仰いませんでした。
扉が開きました。
テオドール・アシュフォード閣下が、入っておいでになりました。
軍装でございます。外套は着ておられません。うしろに伍長のジローと、書記が一人。
そして、油紙の包みを二つ抱えた娘が一人。
セシルでございます。
二十間ばかりの床を、閣下は真っ直ぐ歩いて、玉座の前で足を止められました。
礼は、なさいませんでした。
――他国の高官に対する礼は、二十度でございます。
なさらなかったのは、この場が謁見ではないからでございます。談判にお見えになったのでございます。
「ガルデニア公国軍務卿、テオドール・アシュフォードである」
閣下は、そう名乗られました。
「十二日目に通告した。十六日目に参ると申し上げた。参った」
卿の何人かが、顔を見合わせます。
「本題に入る」
閣下は、書記から束を受け取られました。
「条約は十四条。第一条から第四条までが宗主権の譲渡、第五条以降が導水路の復旧。署名欄は三つ。二つは埋まっている」
閣下は、そこで初めて、扉の内側をご覧になりました。
目が、こちらへ向きます。
わたくしの前掛けと、括った袖と、十六日ぶんの埃を、上から下までご覧になりました。
それから、玉座へ目を戻されました。
「一つ、確かめる。そこにおるのは、この条約を書いた者だ。貴国は、条約の相手方を格子の内に置いておるのか」
「捕らえた者だ」
陛下が、そう仰いました。
「板を出し、市中を騒がせた」
「板は当たっただろう」
閣下の声は、少しも上がりません。
「昨日の朝、水は止まった。止まると書いた者を、止まったから捕らえたのか」
誰も、答えません。
「本題に戻る」
閣下は、束を書記へ渡し、その書記が卓へ置きました。
「第一条。南部三領の宗主権を、ヴァルモア王家からガルデニア公国へ譲り渡す。水利権はヴェルネ公爵家に残す。宗主はガルデニア、権利はヴェルネだ」
卿の一人が、身を乗り出しました。
「――値は」
「相場だ」
閣下は、続けられました。
「三倍は払わぬ。買い叩きもせぬ。相場で売られた土地は、二十年後に蒸し返す材料が残らん。――そちらの得になる話だ」
卿が、口を閉じました。
「第六条。復旧の二年、ガルデニア公国はヴァルモア王都へ水を売る。値はガルデニアの平時価格。一樽二リーヴル。運び賃は取らぬ。いずれの側にも利益および損失を生じない」
――九日目の覚書と、同じ一行でございます。
二十樽をお売りになったとき、閣下はご自分でその一行を書かせました。
「第七条。復旧費用は全額ヴェルネ公爵家が負担する。王家の負担はない。第九条。復旧の完了後、水は水売組合へ売られる。王家は水道橋の賃料を受け取る」
閣下は、玉座を見上げられました。
「貴国が失うのは、四百年握ってきた宗主権だ。得るのは、相場の代金と、二年ぶんの水と、そのあとの賃料と、一銭も出さずに済む導水路だ。――割に合わぬ話ではあるまい」
陛下は、お答えになりません。
わたくしは、そこで一歩、前へ出ました。
近衛が動きかけます。閣下が、手を上げてお止めになりました。
「陛下。一つだけ、申し添えさせてくださいませ」
閣下は、手を上げたままでおられます。
「賃料には、更新がございます。二十年でも、四十年でも、お決めになれます。更新のたびに、王家は賃料を上げることがおできになります」
陛下は、羽根ペンの軸に触れておられます。
「上げられた側は、値切ることもできます。値切り合いは、四百年、王家がなさってこなかったことでございます。四百年、王家がなさってきたのは、娘をお取りになることだけでございました」
四十人が、立ったままでございます。
「賃料には、娘が要りません」
陛下は卓の束をご覧になり、それから、宮内卿へ手を伸ばされました。
宮内卿が、羽根ペンを渡されます。
陛下が、三つ目の署名欄に名を書かれました。
インクの音は、いたしませんでした。紙を押さえる指の音だけが、四十人の立っている部屋に聞こえました。
王太子殿下は、陛下の右に立っておられます。
この方は、署名をご覧になりませんでした。ご覧にならずに、卓の上のインク壺を見ておられます。
――蓋が、開いたままでございます。
十年、この方の前に置かれた紙には、いつも誰かが蓋を閉めておりました。
卿の一人が、扉の外へ出てまいります。奥方へ知らせに行く足でございました。今日この部屋で起きたことは、日の暮れるまでに四十七家へ回ります。
黒い蝋で使いを二度通させた方のところにも、回ります。
――四百年で、はじめてでございます。
ヴァルモア王家が、南部三領の水を、自分のものでないと紙に書きました。
「水は、もう王家のものではございません」
申し上げてから、頭を下げました。十五度でございます。
王家に向ける角度で、最後に一度だけ下げました。
その日の午後に、接収が解かれました。
山の四百人が下ります。四十人が堰へ戻ります。加減を戻すだけでは水は来ません。抜けた管を掘り直すのに二年でございます。そのあいだ、王都の水はガルデニアから来ます。
東の棟の扉は、開けたままにされました。
父は、屋敷へ戻られます。使用人はおりません。井戸の縄と滑車と把手は、十日目に中継所まで運んで、空樽の脇へ下ろしたままでございます。
謁見の間を出るとき、父は一度だけ足を止められました。
「アデライド」
「はい」
「井戸の縄は、どこに置いた」
「中継所の、空樽の脇でございます」
「そうか」
父は、それだけ仰って、先に廊下へ出られました。
――返す気でおるのだろう、と読んだ方が、二日前にもおいででした。
この家の井戸に縄を掛け直すのは、二年後でございます。
「アデライド」
中隊長が、廊下で待っておられました。
兜を抱えておられません。
「除隊でございます。今朝のうちに決まりました」
「……家には」
「帰れません。父も近衛でしたので」
中隊長は、そう仰って、それから、少し笑われました。
「ですが、記録には残りました。板を書いた者を捕らえた者の名が。二年後に誰かが繰ります」
「繰ります」
わたくしは、そう答えました。
「二年後、掘り直した導水路の記録を、どなたかが取らねばなりません。ヴェルネ家に、その者を雇う金はございません。父が署名いたしましたので、二年、家は無一文でございます」
「……はい」
「無一文の家で、記録だけを取る役でございます。お引き受けくださいますか」
中隊長は、しばらく黙っておられました。
それから、二十度、頭を下げられました。
王族に向ける角度ではございません。他国の高官に向ける角度でございます。
この方が、わたくしを何と数えてその角度をお取りになったのかは、伺いませんでした。
外庭に下りますと、荷車が五台、坂を下りていくところでございました。
空でございます。今朝の二十樽は、もう下ろし終わっております。
その脇に、油紙の包みを二つ抱えた娘が立っておりました。
「お嬢様」
セシルは、それだけ申しました。
今日が、五日目でございます。日が落ちるまでに戻らなければ、この娘は二つとも抱えて国境を越える約束でございました。
それから、包みを両方とも、こちらへ差し出しました。
婚約契約書の写しのほうは、六日ぶんでございます。十日目の朝から、この娘は一度も体から離しておりません。覚書のほうは、一昨日からでございます。
わたくしは受け取り、それから、婚約契約書の写しのほうを、もう一度セシルへ返しました。
「もう一日だけ、お願いいたします」
「……はい」
「明日、南へ発ちます」
馬の足音が、うしろで止まりました。
振り返りますと、閣下が馬上からこちらをご覧になっております。
九日目の夕方に、わたくしはこの方のご提案をお受けいたしました。そのうえで、条件を三つ申し上げております。
一つめは、宗主権の値を相場のままにすること。今日、片がつきました。
二つめは、婚姻は王都への給水が戻ってからということ。戻るのは、二年先でございます。
三つめだけが、残っております。
「テオドール閣下」
「なんだ」
「三つめを、覚えておいでですか」
閣下が、馬から下りられました。
「覚えている」
「あれは、条件ではございませんでした。お願いでございます」
「そうだ」
「――取り消しに参ります」
閣下は、すぐにはお答えになりません。
「取り消せるものかどうか、存じません。存じませんが、置いたままで国境を越えるのは、勘定が合いません」
外庭の風が、坂を下りていく荷車の埃を運んでまいります。
「国境まで、二日でございます」
わたくしは、外套の襟に手をかけました。
「そのあいだに、数えてまいります」
(第三十三話・第三章へつづく)




