もう一度、娘をお出しになりますか
十五日目の第一鐘を、わたくしは格子の内側で聞きました。
窓は一つきり、外庭に向いております。真下が井戸端でございました。
滑車が回っております。桶が上がってまいります。
半分でございました。昨日と、同じでございます。
――こちらは、まだ生きております。
王宮の外庭の井戸は、掘り抜きではございません。市壁の内側の井戸はどれも、四百年ぶんの分水管の漏れが浅い層に溜まったものでございます。十一日目の朝に漏れが復活して、桶に半分ずつ上がるようになりました。
管が抜けても、浅い層に残ったぶんは、しばらく残ります。数日でございます。
市中の泉は、そうではございません。
第二鐘のころに、廊下を走る足音がいたしました。
一人ではございません。三人か、四人でございます。
壁の扉の向こうで、父が椅子を鳴らされました。
「アデライド」
「はい」
「走っておるな」
「走っております」
わたくしは、格子に額を寄せました。
外庭の井戸端で、女中が二十人、動かずに立っております。桶を提げたまま、誰も列を進めておりません。
厨のほうから、給仕の子が走ってまいりました。
昨日と、同じ子でございます。
「南門の泉が、止まりました」
声が、井戸端の石にはね返って、格子の内まで届きました。
「西区の共同井戸も、東区のも。泉と井戸と、三つとも朝のうちに」
女中頭が、桶を置きました。
その方が桶を置いたのを、わたくしはこの二日で初めて見ました。
――当たりました。
右手は、震えておりません。
欄のある数でございます。十一日目の第五鐘に十二を開けて、三日で目地が緩み、四日目に抜けます。そのとおりの朝でございました。
欄のある数が合ったときには、この手は震えません。
合っても、二十万人が渇きます。
昼前でございました。
廊下の錠が外れて、扉が開きました。
宮内卿でございます。うしろに近衛が四人、そのうしろに、女中が二人。
「陛下が、お会いになる」
わたくしは、椅子から立ちました。
「水売りの恰好で参りますか」
「着替えさせる」
「――この恰好のままで参ります。陛下がお会いになるのは、板を書いた者でございます。板を書いたのは、水売りの前掛けを掛けた娘でございました。着替えれば、誰にお会いになるのか分からなくなります」
宮内卿は、女中を下がらせました。
壁の扉の向こうで、父は何も仰いません。
わたくしは、その扉に向かって、二十度、頭を下げました。
他国の高官にお目にかかるときの角度でございます。父に向ける角度を、わたくしは教わっておりません。八つで王宮へ上がってから、この方に礼をする折がございませんでした。
王の間は、東の棟から丘を三つ上がった先でございます。
通されたのは、謁見の間ではございませんでした。書物の並んだ、机が一つきりの部屋でございます。
国王陛下は、机の向こうに座っておられました。
五十を過ぎた方で、背は殿下より低うございます。硝子の杯が、机の端に置いてございました。
空でございます。
わたくしは、十五度、頭を下げました。
「アデライド・ヴェルネにございます」
陛下は、書面から目を上げられませんでした。
しばらく、頁を繰る音だけがいたしました。
この方は、四百年のうちの一行をお守りになる方でございます。会えば話したことになり、話せば負けたことになります。宰相閣下は、そう仰いました。
その方が、会うと仰いました。
――お会いになったということは、そちらに紙が一枚ある、ということでございます。
「板を書いたのは、そなたか」
「書きました」
「今朝、当たったな」
「当たりました」
「二十万人が渇く」
「渇きます」
陛下は、そこで初めて顔を上げられました。
目の色は、殿下と同じでございました。
「そなたの父は、九日、一行を断っておる」
「伺いました」
「なぜだと申した」
「嘘だからだと申しました」
頁を繰る音が、そこで途切れました。
それから、机の抽斗をお開けになりました。
出てきたのは、紙が一枚でございます。
こちらへ滑らされました。
わたくしは、それを読みました。
三行でございました。読み終えるのに、四半刻はかかりませんでした。
『婚約の解消を、王家の側から撤回する。
ヴェルネ公爵家の接収を、本日付で解く。
水利権は、第三条により、婚姻の日まで王家の預かりとする』
紙の下には、まだ署名がございません。
「そなたが承知すれば、今日のうちに水門は開く。山の四百人は下りる。四十人が加減を戻す。管は割れておるが、割れた管を掘るのはヴェルネ家の領民だ。領が戻れば、明日にも掘りはじめられる」
「はい」
「二年が、一年半になるやもしれぬ。市中の死人は、そのぶん減る」
陛下は、空の杯に指を触れられました。
「そなたが、要らぬと言われた三百人の前へ、もう一度立つだけでよい」
机のほかには、何もない部屋でございます。
わたくしは、紙を机の上へ戻しました。
「陛下。二つ、伺わせてくださいませ」
「申せ」
「一つ目。この撤回は、四百年で何度目でございますか」
一日目の朝に、王家は同じ手をお出しになりました。あのときは片方の意思だけでしたので、潰れました。今日は、こちらの承知を条件にしておられます。
同じ手を、形だけ変えてお出しになったのでございます。
陛下は、お答えになりません。
「わたくしの知るかぎり、一度もございません。第七条が働いたのが初めてだからでございます。二つ目を伺います。――第三条を、お読みになりましたか」
「読んでおる」
「婚約成立の日から婚姻成立までは、仮の預かりでございます。婚姻が成立して初めて、次代の婚約まで延長される」
陛下は、まだこちらをご覧になりません。
「四百年、王家がヴェルネ家を縛ってこられたのは、この一条でございます。娘を一人お取りになるたびに、水が一代ぶん延びます。延ばすためには、次の代にも娘が要ります」
陛下の目が、こちらへ向きました。
――一昨日、同じことを宰相閣下に申し上げました。
あのときは、答える立場にない方に申し上げたのでございます。
「陛下。もう一度、娘をお出しになりますか」
部屋の中で、誰も動きませんでした。
「わたくしは十八でございます。婚姻すれば、次の代の婚約までは延びます。その次には、わたくしの娘が要ります。要らぬと言われた娘の娘を、また三百人の前へお出しになるのでございますか」
「……」
「わたくしがこれを承知いたしましたら、四百年目に一度だけ働いた第七条が、働かなかったことになります。この先四百年、ヴェルネの娘は、破棄されても水を止められません」
陛下は、机の上の三行から目を上げられません。
「止められると分かったから、王家は今日この紙をお出しになったのでございましょう」
陛下は、指を杯から離されました。
「――では、二十万人はどうする」
――右手が、震えております。
七度目でございました。
二十万人の渇きと、わたくしの承知不承知とを並べて置ける欄が、帳面のどこにもございません。
「宗主権をお売りくださいませ」
わたくしは、条約の束を机に置きました。
「第五条以降。導水路の復旧費用は、ヴェルネ家が全額負担いたします。持参金十二万リーヴルと、南部三領の年間収入を、二年、全部あてます。家は無一文になります。昨日、父が署名いたしました」
陛下は、束をご覧になりました。
ご覧になって、それから、二つ目の署名を見つけられました。
グレゴール・ド・ヴェルネ。
「……あれが、書いたか」
「書きました。八日断り続けた者が、家を空にする紙には、その日のうちに署名いたしました」
「わしに売れと申すか。王家に、四百年握ってきたものを、渇いておる最中に売れと」
「買う側に回っていただきます。買う側には、更新も、娘も要りません」
わたくしは、束の二枚目を開きました。
「陛下のお申し出は、一年半でございました。接収をお解きになれば、明日から掘れます。ですが、掘る金は王家にございません。二年、王家が南部三領を握ったままで、掘るのはヴェルネ家でございます」
「……」
「お売りになれば、掘る金はガルデニアの代金とヴェルネ家の持参金で出ます。二年は、二年でございます。縮みません」
「では、何が変わる」
「その二年のあいだ、市中に水が来ます。ガルデニアが平時の値で売ります。陛下のお申し出には、明日からの二年をどう凌ぐかが一行も書いてございません」
陛下は束を閉じ、こちらへ押し戻されました。
「下がれ」
それだけでございました。
束は、こちらの手に戻っております。三行の紙のほうは、机の上に残りました。お破りにはなりません。抽斗へお戻しにもなりません。
――残されたものは、まだ数のうちでございます。
わたくしは、十五度、頭を下げました。
東の棟へ戻される廊下で、窓の下に外庭が見えます。
井戸端の列は、まだそこにございました。
桶は、半分でございます。
――明日の朝、旗が上がります。
銀の狼が、南門から丘まで、二マイルを上がってまいります。
わたくしの手には、もう札がございません。
残っているのは、明日の朝までに、この王宮のどなたかが数を数えはじめることだけでございました。
(第三十二話へつづく)




