十年前に、与えてある
十四日目の午後でございます。東の棟の四つ目の部屋は、窓が一つきりでございました。
格子が縦に六本。床は石で、寝台と、卓と、椅子が二つ。壁際に洗面の桶が置いてございます。桶の水は、半分でございました。
扉が閉まって、外で錠の音がいたしました。
中隊長の足音が、廊下を遠ざかってまいります。
三つ目の部屋との壁に、扉がございました。
両方の部屋を一続きに使うための扉で、いまは閉じたままでございます。
その向こうで、椅子の脚が石を擦る音がいたしました。
立ち上がられたのでございます。
わたくしは、その扉の前に立ちました。
――八日目でございます。
六日目の午後に王宮へ召され、それきり戻っておられません。今日で八日でございました。
錠が外れて、扉が内側へ開きました。
父は、そこに立っておられました。
髭が伸びております。上着は取り上げられて、下は着たままでございました。五十二の男が、八日ぶん痩せて見えます。
こちらを見て、それから、わたくしの前掛けと括った袖を見て、それから、また顔をご覧になりました。
「アデライド」
名でございました。
この十四日で、二人の方がわたくしを名で呼ばれました。一人は三百人の前で要らないと仰った方で、もう一人は、この方でございます。
「戻ってまいりました」
「……戻る場所が、ここか」
父は、そう仰いました。
声が、掠れております。
「桶を運んでまいりました。二十樽でございます。一樽二リーヴル。宮内省からのご注文でございました」
「二リーヴル」
「はい」
「組合は、値を上げなんだか」
「上げておりません。断水の初日から、一度も」
父は、扉の枠に手をかけて、しばらく立っておられました。
それから、椅子を一つ、こちらへ寄せられました。
卓の上には、紙が一枚ございます。
一行でございました。
『娘に、水門管理令の権限を与えた覚えはない』
その脇に、羽根ペンと、蓋を開けたままのインク壺が置いてございます。
毎朝、宮内卿がお持ちになるものでございました。
「今朝も、お断りになりましたか」
「断った」
「なぜでございます」
わたくしは、そう伺いました。
伺うために、ここまで参りました。宰相閣下は、ご自分でお訊きなさいませ、と仰いました。三度伺って、三度ともお答えにならなかったからでございます。
父の目は、卓の紙に落ちております。
「その一行に署名すれば、今日のうちに身柄だけは屋敷へ戻される。接収は解けぬが、家は残る。水利権も残る。負うのは、追記から先だけだ」
父は、そこで一度、目を上げられました。
「追記から先とは、何のことか分かるか」
「分かります。上水道橋の使用停止通告。四分の一の開門。ガルデニアとの談判。それに、板でございます」
「板」
「今朝、高札の隣に上がりました。十五日目の朝、王都の水は止まる、と。署名は、ヴェルネ公爵家代理――アデライド・ヴェルネ」
父の肩が、一度だけ上下いたしました。
「……三度目か」
「三度目でございます」
父は、目を閉じられました。
それから、椅子に腰を下ろされました。
「わしが署名すれば、その四つとも、十八の娘が勝手にやったことになる」
「はい」
「だから断った、とお前は思っておるな」
わたくしは、答えませんでした。
そのとおりだと思っておりました。七日、父は娘のために断っておられるのだと。
父は、首を横に振られました。
「違う」
その一言は、思いのほか短うございました。
「あの一行は、嘘だからだ」
父は、卓の紙を指で押さえられました。
「与えた覚えはない、と書いてある。わしは、与えておる」
「……管理令の追記は、わたくしが書きました。父上の筆は、一字も入っておりません」
「あの晩のことを言うておるのではない」
紙の上の指が、離れます。
「十年前だ」
部屋の空気が、動きませんでした。
隣の部屋で、洗面の桶の水が、ひとりでに揺れる音がいたします。
「八つのお前を王宮へ出した。あれが、与えた日だ」
わたくしは、扉の枠に手をかけました。
「十年、王国の決裁の三分の一を、お前が一人で通してきた。残りも、要約を作ったのはお前だ。誰も委任状を書かなんだ。書かなんだというだけのことで、権限は十年前からお前のところにある」
父は、そこで一度、息を継がれました。
「毎朝あの紙を持ってくる者に、わしは同じことを言うておる。『娘には、その権限を与えた』。過去のことを申しておるのだ。今日の話ではない」
――欄がございません。
右手が、震えております。
夜会の晩から数えて、六度目でございました。
合わない数なら、合わせる手がございます。欄のないものには、ございません。
「父上。それは、家をお捨てになるということでございます」
「そうだ」
「否認なされば、家は残ります」
「残る家に、誰が残る」
父は、こちらを見上げられました。
「否認すれば、その日のうちにわしは屋敷へ帰る。帰った屋敷に、お前はおらん。二度と入れてもらえん場所へ、お前が一人で行く」
わたくしは、そこで初めて、この方の目を正面から見ました。
「十年、わしはお前に何ひとつしてやっておらん」
父は、卓の紙のほうへ目を戻されました。
「してやれることが、八日ぶんだけあった。それだけのことだ」
窓の格子の影が、床を六本に割っております。
わたくしは、しばらく何も申し上げませんでした。
申し上げることが、欄のどこにもございませんでした。
――膝が、笑っております。
右手の震えなら、数え方を存じております。夜会の晩から、この手が震えるたびに、欄のないものを一つずつ数えてまいりました。
膝は、数えたことがございません。
「……宰相閣下に、なぜお答えにならなかったのでございます」
「バルテルミーに言えば、お前の耳に入る。入れば、お前は言う。では署名なさってください、と。お前は必ず、自分が被るほうを選ぶ。十年、そればかり見てきた」
父は、卓の一行へ顎をやりました。
「それに、な。お前が今日ここへ来なんだとしても、わしはあれには署名せん。お前がどこにおろうと、嘘は嘘だ」
近衛は、わたくしの外套をあらためませんでした。水売りの前掛けの下に十四条の束があるとは、どなたも思われなかったのでございます。
わたくしは、外套の内から、条約の束を出しました。
卓の上に置きます。
十四条。署名欄は三つ。ガルデニア公国軍務卿テオドール・アシュフォードの署名だけが入っております。
「父上。わたくしが今日ここへ参りましたのは、その一行を書かないでくださいと申し上げるためではございません」
父の目が、束の上へ落ちます。
「第五条以降を、お読みくださいませ」
父は頁を繰り、二枚目で指を止められました。
「……導水路の復旧費用は、ヴェルネ家の負担」
「はい」
「持参金十二万リーヴルと、南部三領の年間収入を、全額あてる」
「はい。二年でございます。二年、この家は無一文になります。使用人はもうおりません。屋敷は接収されております。父上に署名していただきたいのは、家を残す紙ではなく、家を空にする紙でございます」
頁から、顔が上がりました。
それから、笑われました。
声を立てずに、口の端だけで笑われたのでございます。わたくしは、この方が笑うところを、八つのとき以来、見ておりません。
「――お前は、わしに七日ぶんの意地を張らせておいて、その先で家を空にしに来たのか」
「はい」
「なぜ、ヴェルネが負う」
「王家に負わせれば、王家は二年、南部三領を握り続ける理由を持ちます。負う側が、握る側になります」
父は、羽根ペンを取られました。
インク壺の縁で、穂先の余りを落とされます。
卓の上には、紙が二枚ございました。今朝の一行と、条約の束と。
父は、一行のほうへは手を伸ばされませんでした。
束の第十四条の下、二つ目の署名欄に、名を書かれました。
グレゴール・ド・ヴェルネ。
インクが乾くまで、父は紙を押さえておられました。
扉の外に、記録係が控えております。
毎朝の紙と、断りの言葉を書き留めてきた者でございます。四十年前に、宰相閣下がこの棟へ入れられた男だと伺いました。
今日その者が書き留めるのは、断りの言葉ではございません。
「残るは一つか」
「陛下の署名でございます。宗主権を、お売りいただきます」
「陛下は、お前に会わぬ」
「会わずに済ませられるのは、明日の朝まででございます」
窓の外で、鐘が鳴りました。
第四鐘でございます。
明日の朝、市中の水が止まります。
(第三十一話へつづく)




