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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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牢へは入れられません

 十四日目の第一鐘に、荷車が五台、丘を上がってまいりました。


 わたくしは、勝手口の脇でそれを待っておりました。


 昨夜は、文書庫の地下二層におりました。宰相閣下は、帰れとも、おいでとも仰いません。角灯の油を足して、帳面を繰り、夜明け前にひとこと、階段の下は寒うございます、と仰いました。それだけでございます。


 外庭に出ますと、東の空が白んでおりました。


 樽が下ろされます。一台に四樽。五台で二十樽。


 わたくしは、声に出して数えました。


「十八、十九、二十」


 昨日と、同じでございます。数えているあいだだけは、欄のあるものを数えていることになります。


 女中が二十人、桶を提げて井戸端に並んでおりました。滑車が回って、桶が上がってまいります。半分でございました。次の桶は、三分の一ほどでございます。昨日と同じで、汲むたびに行き来しております。


 明日の朝、市中の泉が止まります。この井戸も、浅い層に残ったぶんで数日だけ保って、それから死にます。


 第二鐘の少し前でした。


 厨のほうから、給仕の子が走ってまいりました。


 息を切らして、女中頭の前で足を止めて、それから、あたりを憚らずに申しました。


「板が――高札の隣に、もう一枚」


 井戸端の列が、静かになります。


「なんと書いてある」

「十五日目の朝、王都の水は止まる、と」


 桶を提げていた女中の一人が、桶を落としました。


 石の上で、水が跳ねました。誰も拾いません。


「堰が十二開いておって、明日の朝に導水路が抜けるそうで。掘り直しに二年、と」

「二年」

「桶という桶、壺という壺を満たされたい、と書いてございます」


 女中頭は、動きませんでした。


 四十年、この王宮の勝手を握ってきた老女でございます。この方が動かないでいるあいだは、列も動きません。


「――誰の名で」


 老女は、そう訊きました。


 給仕の子は、覚えてきた言葉をそのまま返しました。


「ヴェルネ公爵家代理――アデライド・ヴェルネ」


 列の中の何人かが、こちらを見ませんでした。見なかったのは、わたくしが樽の脇に立っていたからでございます。新顔の水売りが二日つづけて樽を数えているという話は、昨日のうちに十人へ伝わっております。


 女中頭が、こちらへ顔を向けました。


 この方は、八つのわたくしを見ておいでです。


 目が合いました。


 老女は、何も仰いませんでした。ただ、井戸端の列のほうへ向き直って、桶を落とした女中に、拾いなさい、と仰いました。


 ――ここまでは、勘定のうちでございます。


 板は上がりました。あとは、王宮がこれをどう扱うかでございます。


 勝手口の石段を、上から誰かが下りてまいりました。


 近衛が二人、先に立っております。そのうしろに、若い方が一人。


 外庭の女中が、いっせいに膝を折りました。


 わたくしは、頭巾の下から、その方の靴を見ております。


 膝を折らずにおりますと、かえって目立ちます。わたくしも折りました。


「――そこの水売り」


 声は、覚えのある声でございました。


 あの晩まで、決裁の紙を挟んで、毎日聞いていた声でございます。


「顔を上げよ」


 わたくしは、顔を上げました。


 王太子ルシアン・ヴァルモア殿下は、石段の三段目に立っておられました。


 頭巾を取れとは仰いません。仰らずに、そこから動かずに、こちらを見ておられます。


 しばらくございました。


「……アデライド」


 名でございました。


 この方が、わたくしを名で呼ばれたのは、三百人の前で要らないと仰った、あの晩以来でございます。


「人違いでございます」

「二度、同じ言い訳を使うな」


 殿下は、石段を一段下りられました。


「昨日、女中頭から聞いた。新顔の水売りが、声に出して樽を数えていたと。――十八、十九、二十、と」


 わたくしは、答えませんでした。


「私は、声に出して数える人間を一人しか知らない。十年、私の机の前でそうしていた」


 殿下の靴が、もう一段下りました。


「なぜ戻ってきた」

「桶を運んでまいりました」

「そうではない」

「水を売りに、王宮へ上がってまいりました。一樽二リーヴル。日に二十樽。宮内省からのご注文でございます」


 殿下は、そこで黙られました。


 黙られたところに、こちらから足しました。


「今朝、殿下がお使いになった水も、その二十樽のうちでございます」


 殿下の肩が、動きました。


「井戸の桶は、半分しか上がりません。女中が二十人並んで、半分でございます。厨と、湯殿と、殿下のお手水が、その半分から出ております」


 ――この方は、いま初めて、その勘定をなさっております。


 十年、この方のお手元に届く紙には、いつも結論だけが書いてございました。


「アデライド」

「はい」

「板を書いたのは、お前か」


 わたくしは、頭巾を取りました。


 外庭の風が、髪に当たりました。十四日ぶんの埃と、水売りの前掛けと、括った袖でございます。三百人の前に立っていたときの恰好ではございません。


「書きました」


 ――右手は、震えておりません。


 この方のぶんは、とうに欄に書き終えております。


「なぜだ」

「桶という桶を、満たしていただくためでございます」


 殿下は、こちらを見ておられます。


「明日の朝、水は止まります。止まってから申し上げても、間に合いません。今日のうちに汲んでいただければ、二日は保ちます。二日あれば、市中の井戸のうち、市壁の外の六軒に列を作る順番が決まります」

「――それは、王家の仕事だ」

「はい。王家の仕事でございます。板を出されたのは、一昨日でございました。四行のうち、確かめられる日が一日も書いてございません」


 殿下は、目を伏せられました。


 伏せてから、低い声で仰いました。


「あの四行のうち一行は、私が消させようとした」

「存じております」

「……なぜ知っている」

「三夜前の御前会議のことは、昨日の朝までに十人が暇をもらう程度には、この勝手口まで下りてきております」


 石段の上から、足音が下りてまいりました。


 宮内卿でございます。うしろに、近衛が四人。


 この方は、石段の途中でわたくしをご覧になって、それから、殿下のいらっしゃる段より一段上で足を止められました。


「殿下。お下がりくださいませ」

「宮内卿」

「その者を、市中の牢へ移させます」


 わたくしは、そこで一歩、前へ出ました。


 近衛の一人が、槍を斜めにいたします。


「宮内卿さま。牢へは入れられません」


 この方の目が、こちらへ向きました。


「……代理を騙った娘が、口をきくか」

「騙っておりません。管理令の追記に、公爵家代理と書いたのはわたくしの手でございます。その紙の写しは、いま、あなたさまのお手元にございます」

「だから牢だ」

「牢へお入れになれば、記録が残ります」


 わたくしは、轅を握っていた手を、前掛けで拭きました。


「『ヴェルネ公爵家の娘を、市中の牢へ入れた』。四百年の記録に、その一行が残ります。陛下がお守りになっているのは、水ではございません。四百年のうちの一行でございます」


 宮内卿の指が、書面の縁で止まりました。


「『三百人の前で婚約を解かれた娘を、王家が牢へ入れた』。板の四行と並べて読まれることになります」


 宮内卿は、お答えになりません。


「板には、十五日目の朝と書いてございます。明日の朝、当たっていた板と、その書き手を牢へ入れた王家とが、同じ日に市中へ出ます」


 石段の上と下で、誰も口をききません。


「東の棟には、格子の入った部屋が二つございます。三つ目と、四つ目でございます」


 石段の一段目に、殿下が立っておられます。


 宮内卿が、もう一度、お下がりくださいませ、と申されました。


 殿下は、一段だけ上がって、そこで止まられました。


 ――一段でございます。


 この方にお出来になるのは、いつも一段でございました。


 わたくしは、殿下へ頭を下げました。二十度でございます。他国の高官にお目にかかるときの角度でございました。王族に向ける角度ではございません。


「――どうぞ、父と同じ場所へ」


 宮内卿は、しばらくわたくしを見下ろしておられました。


 それから、うしろの近衛へ、短く仰いました。


「東の棟へ。四つ目の部屋だ」

「――お待ちください」


 声を上げたのは、外庭の隅に立っていた中隊長でございました。


 エミール・ラフォン。今日で四日目の、外庭付きでございます。


「その者を捕らえたのは、わたくしでございます。記録は、そのように」


 宮内卿は、興味もなさそうに頷かれました。


 ――この方は、これで家に帰れなくなります。


 エミール・ラフォン。二年後に、どなたかが繰る記録に残る名でございます。わたくしは、その名を欄に書きました。


 わたくしの腕を取ったのは、その方の手でございました。


 力は、入っておりませんでした。



(第三十話へつづく)

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