取り上げられる前に、返しておいでだ
十四日目の朝、尾根の陰には霧が下りていた。
三方を岩に囲まれた窪地である。南へ一本だけ、炭焼きの道が細く落ちている。馬は十二頭、岩肌の際に繋いであった。天幕が二つ。旗は畳んだまま、四日、上げていない。
テオドール・アシュフォードは、北の縁に立っていた。
斜面の下は水源林の裾である。そこから北へ四マイルで王都の南門だが、あいだの南街道は十日目からずっと王国軍で埋まっている。工兵隊が先で、そのうしろに歩兵が二個大隊。
旗を上げて入国した使節が、街道の手前で四日、止まっている。
止まっているのではない。止めていた。
十六日目に王宮へ入ると、彼は自分で通告している。それより一日でも早く門を叩けば、談判ではなく威嚇になる。四日前にこの窪地から北を見たとき、彼はそう決めた。
――父の署名を取るところまでを、わたくしの仕事といたします。
九日目の夕方に、あの娘はそう言った。
仕事、と言ったのである。
背後で、小石の転がる音がした。
炭焼きの道を、誰かが上がってくる。伍長のジローが、岩の陰から先に下りた。剣は抜いていない。抜くまでもない足音だった。
上がってきたのは、少年だった。十二か、十三か。裸足に藁を巻いて、膝から下が泥だらけである。霧で肩が濡れて、息が上がっていた。
「その子は、南部三領の、麓の炭焼きの倅でございます」
ユベールが、岩を回って出てきた。革の前掛けに、腰の鍵束。六十を過ぎた水門長は、少年の顔を見て、それから、その泥を見た。
「宿場を通ってはおらんな」
「へえ。回りました。兵隊がおりますので」
「よう上がった」
少年は、頷いて、懐から油紙の包みを出した。掌に載るほどの、小さなものである。
「水売りのマルタンさんに、頼まれました。尾根の陰に、油紙の包みを抱えた娘さんがおられる。その人に渡せと」
天幕の陰から、セシルが出てきた。
胸の前に、油紙で三重に包んだものを抱えている。十日目の朝に王都の北の丘を出てから、この娘はそれを一度も体から離していない。夜も抱えて寝る。雨の日には自分が濡れた。
セシルは、少年の包みを受け取った。
結び目を解く指が、途中で止まった。
中から出てきたのは、紙が一枚である。薄い。子どもの手で書かれた字が、全部ひらがなで並んでいた。
「……閣下」
セシルは、それを両手で持ったまま動かなくなった。
「これ、お嬢様が――」
「見せてくれ」
テオドールは、紙を受け取った。
折り目が四本ついている。八年ぶんの折り目である。
『たたかいをやめること。りようこくのぐんは、ヴァレのをかから、それぞれとおまいるさがること。ぐんがさがったあとのとちには、だれもすまないこと。ほねは、ほりかえさないこと』
八年前の夏、斜面に四百人が未収容のまま残っていた朝に、十歳の娘が書いたものだった。彼の軍はいまも丘から十マイル南にいる。八年、誰も越えていない。
この紙を、彼は十二日目の夜明け前に自分の手から離した。
――五日、お預かりいたします。
あの娘は、そう言い置いていった。五日である。
今日は、その三日目だった。
「……二日、早い」
テオドールは、そう言った。
ジローが、横から紙を覗いた。
ヴァレの丘で生きて帰った六百のひとりである。この男が八年前の停戦の朝に何を見たかを、テオドールは訊いたことがない。
「お約束より早くお返しになった。それだけのことでは」
「早く返す理由が、あの女に一つしかない」
彼は、紙を裏返した。裏は白い。
「手元に置いておくと、取り上げられるからだ」
霧が、窪地の底を一度撫でて抜けた。
「取り上げられる前に、返しておいでだ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
セシルが、油紙の包みを抱え直した。抱え直して、それから、もう一つを腕の中へ入れた。
二つになった。
婚約契約書の写しと、八年前の覚書である。この世に二通しかない写しの片方と、八年前に丘を降ろした紙が、いま二十歳の侍女の腕の中で重なっていた。
「セシル」
「……はい」
「重いか」
「いいえ」
娘は、首を横に振った。振ってから、目のふちを一度拭った。
「お嬢様は、返さなくてよいものを、いつも先にお返しになります」
――五日で戻られなければ、両方持ってガルデニアへ。
同じ夜明け前に、この娘は自分でそう言い切った。言い出したのは、娘のほうである。
セシルは、指を折った。十二、十三、十四。
三日目である。
あと二日で、彼女は主人を置いてこの尾根を南へ下りることになる。下りれば、腕の中の二つは国境を越えて、二度とこの国へは戻らない。
主人はそれを承知のうえで、三つ目を送ってよこした。
「閣下」
「なんだ」
「わたし、字が読めます」
「知っている」
「お嬢様に教えていただきました。五年でございます」
娘は、腕の中の二つを引き寄せた。
「読める者が持って出れば、中身を確かめられます。読めない者なら、確かめずに渡すだけでございます。……お嬢様は、そこまで数えて、わたしを外へ出されたのだと思います」
テオドールは、少年に向き直った。
「中継所を出たのは、いつだ」
「昨夜でございます。第四鐘のころに」
「そのとき、あそこで何をしていた」
「皆さんが、板に何か書き写しておいででした。角灯を五つ点けて」
少年は、少し言い淀んでから続けた。
「おらは字が読めませんので、何を書いてあるかは分かりません。ただ、いちばん下だけ、皆さんが指で押さえて、何度も見比べておいででした」
――いちばん下。
テオドールは、北の斜面へ目を戻した。
四マイル先の市壁の中で、今朝、何かが起きている。板が何枚あるのかも、そこに何が書いてあるのかも、この窪地には届かない。届くのは、字の読めない少年が見たものだけだった。
だが、それで足りた。
署名のない板を、五つの角灯で見比べる者はいない。
――名を書いたな。
王家が父親に否認させようとしている署名である。それを、娘のほうが王都じゅうの板に書いた。
紙を先に返したのは、そのあとに何が来るかを勘定に入れたからだ。
「ジロー」
「は」
「街道は」
「変わりません。宿場から北は、輜重で詰まっております。馬で北へ抜けるには、五十騎で押し通るほかに」
伍長は、そこで言葉を切った。
「――十二騎では、無理でございます」
「分かっている」
テオドールは、覚書をセシルへ返した。
八年前、彼はこの紙を持って丘を下りた。二千四百人が死なずに済んだ。そのことを、彼はこの八年、一度も自分の手柄だと思ったことがない。彼がしたのは、十歳の子どもの字を読んで、そのとおりにしたというだけである。
――わたくしは、たぶん、あなたを好きにはなれません。
九日目に、あの娘はそう言った。なりかたを知らないのだ、と。
なりかたを知らない人間が、五日の約束を三日で切り上げて、取り上げられる前に紙を返してよこす。
知らないのではない。この娘は、返しかたしか教わっていない。
いま、その字を書いた人間が、四マイル先で捕まろうとしている。
そして彼は、二日、ここから動けない。
動かないと決めたのは、彼女の仕事を彼女に終わらせるためだった。終わらせたあとに、彼が表から入る。そう組んである。
組みは正しい。正しいことと、この二日をどう数えるかは、別の話だった。
「ユベール殿」
「へえ」
「山の四百人は」
「四日目の朝までは、下りません。堰の脇の立て札を、幾人かが交代で見ております。見ておるだけで、手は出しておりません」
水門長は、そう言ってから、少年の頭に手を置いた。
「十九のうち五つ。これ以上開くと導水路が割れる。割れれば復旧に二年。――日付と、わしの名を添えてございます」
「軍は、それを読んだか」
「読んで、十二まで開けました」
ユベールは、少年の泥だらけの膝を見下ろしている。
「読んで開けたのでございます。読まずに開けたのなら、まだ話のしようがございました」
テオドールは、天幕のほうへ歩いた。
卓の上には、清書前の草稿が一綴りだけ残っている。署名欄のない十四条である。清書したほうは、四マイル先にいる。
――明日の朝、水が止まる。
十二を開けたままにすれば、三日で目地が緩み、四日目に抜ける。開いたのは十一日目の第五鐘である。
そのあと、王都には二年、水が来ない。
二年ぶんの渇きを、たった一枚の板で先に告げた人間が、告げたその日のうちに石の棟へ入れられる。
彼は、卓の縁に手をついた。
ついた手を、しばらく離さなかった。
「ジロー。旗を出しておけ」
「――十六日目に上げるのでは」
「上げるのは十六日目だ。出しておけと言った」
銀の狼の旗が、箱から出された。
畳んだままの布が、霧の中で一度だけ音を立てた。
あと二日である。
(第二十九話へつづく)




