もう、出す娘がございません
なりませぬ、と仰ったきり、老宰相は言葉を継がれません。
文書庫の地下二層でございます。地下三層に婚約契約書の原本があると教わったのは、八つの年でございました。降りたことは、一度もございません。
いちばん近づいた日が、今日でございました。原本の一つ上の層に立って、その原本を見ずに帰ることになります。
「なぜでございます」
「お会いになれば、話したことになります。話したことになれば、負けたことになります」
老人は、両手を卓に置いたままでおられます。
「陛下がお守りになっているのは、水ではございません。四百年のうちの一行でございます。『この代の王は、十八の娘に水で膝を折った』。それを残さぬためでしたら、あの方は二十万人を渇かせます」
「その一行なら、もう決まっております」
閣下が、顔を上げられました。
「あさっての朝でございます。『この代の王は、水を二年止めた』。板に書いて、ご自分から名乗り出ておいでですので」
「……嬢」
「わたくしにできるのは、そのあとに一行足すことだけでございます。『そのあと、水を戻したのは誰か』」
「戻せるのはヴェルネ家でございましょう。嬢お一人ではない。王家は、公爵閣下に掘らせればよい。父娘二人を握ったまま、二年かければ済みます」
「掘れません。領が接収されております」
接収されたままでは、水門長も、四十人も、工法の写しも、順序の歌も、みな山から下りてまいりません。
「では、接収を解けばよい」
「解けば、生きた水利権を持つ家が、王家の外に戻ります」
卓の上の角灯が、油の減ったぶんだけ暗うございます。
「四百年、王家はその家から娘を取ることで縛ってまいりました。第三条でございます。婚姻が成立して初めて、次代の婚約まで延長される」
「……」
「もう、出す娘がございません。わたくしは、三百人の前で要らないと仰っていただきました」
老宰相は、答えません。
「――ですから、お売りいただくほかにございません。宗主権をお売りになれば、王家は縛る必要のない相手から水を買う側になります。買う側には、更新も、娘も要りません」
「その話を、どうやって陛下に申し上げます」
「板を、一枚立てます」
わたくしは、外套の内から紙を出しました。
条約の束にはさんでおいた、白紙の一枚でございます。
鉛筆を借りて、四行書きました。あちらと、同じ数にいたしました。
『十五日目の朝、王都の水は止まる。
南部三領の取水堰十九のうち十二が、十一日目の第五鐘より開いている。開けたのは王国軍である。
十二を開けたままにすれば、三日で目地が緩み、四日目に導水路が抜ける。掘り直しに二年。
水のあるのは十四日目まで。桶という桶、壺という壺を満たされたい』
その下に、名を書きました。
ヴェルネ公爵家代理――アデライド・ヴェルネ。
――この名を書くのは、三度目でございます。
一度目は父の書斎で、水門を閉じる管理令の追記に。二度目は、水道橋を止める通告に。
二度とも、閉じるための署名でございました。
三度目は、汲めと申し上げるために書きました。
閣下が、紙を見たまま動かれません。
「嬢。あの高札の三行目をお忘れか。公爵家に与する者の申すことを、信じてはならぬ。――あとから同じ場所に立てれば、板に逆らう者になるだけでございますぞ」
「日付がございます」
わたくしは、四行目を指しました。
「あちらの板には、確かめられる日が一日も書いてございません。こちらには、二つ書いてございます。十五日目の朝に、どちらが正しかったかが出ます」
「……」
「その朝までは、逆らう者の板でございます。その朝からは、当たっていた板でございます」
わたくしは、紙を折りました。
「そして、この署名は、父がいま守っておられるものでございます」
閣下の目が、上がりました。
「王家は、父にこの追記を否認させようとしております。否認させようとしている署名を、わたくしが王都じゅうの板に書きます。父が七日守ったものを、わたくしが二日で表に出します」
「捕まりますぞ」
「はい」
――昨日の夜明け前、わたくしは同じ形のものを脅迫と呼びました。
閣下が王宮へ入れば脅迫になる、だからわたくしが行くと申し上げたのでございます。
いま、わたくしは板に名を書いて、王家に二つのうちどちらかを選ばせようとしております。
名前の書き方が違うだけで、していることは同じでございました。
――脅迫と呼んで避けられる手は、わたくしにもう残っておりません。
持っていないものを数えないのは、負けている者のすることでございます。
「公爵閣下と、同じ場所へ入れられます」
「はい」
「そうなれば、署名を出す者が、外に一人もおらぬ」
「一人おります。三日後に、ガルデニア公国軍務卿が、旗を上げて表からお入りになります」
――その同じ夜明け前に、わたくしはこの方を議会から守るために、自分が行くと申し上げました。
いま、その方が来ることを、わたくしは勘定の欄に書き込んでおります。
守ると申し上げたものを、手札に数え直したのでございます。
――これも、あとで返さねばならないものでございました。
「ラフォン中隊長」
わたくしは、扉の脇を向きます。
「今夜、南門をお出になれますか」
「出られます」
「南門から一マイル西の窪地に、石積みの平屋がございます。マルタンという男に、これを」
折った紙を、差し出しました。
「今夜の一巡で書き写して、明日の朝、広場という広場に。高札の隣で結構でございます」
「……隣に」
「並べて読んでいただきます」
わたくしは、続けました。
「それから、ジャックという車引きに、こめかみの具合を訊いてくださいませ。そちらを、先にお願いいたします」
「――は」
「もう一つ」
外套の内側から、八年前の紙を取り出しました。
薄うございます。八年ぶんの重さというものは、紙には残っておりません。
「これも、マルタンへ。麓の少年に持たせて、尾根の陰まで。セシルという娘が、油紙の包みを抱えております」
「――お手元に置かれぬので」
「わたくしのものではございません。捕まって取り上げられるわけには参りません」
五日、お預かりする約束でございました。
二日で、お返しいたします。
中隊長は、二枚の紙を懐へ入れて、それから、こう仰いました。
「板が上がれば、あなたを捕らえる者が要ります」
「はい」
「わたくしに、やらせてください」
「あなたが、どうなりますか」
「知れれば、除隊でございます。父も近衛でしたので、家には帰れません」
中隊長は、兜を抱え直されました。
「ただ、捕らえた者の名は、記録に残ります。板を書いた者を捕らえたのは誰かを、二年後に誰かが繰るはずでございます」
――この方も、二年先を数えておいででした。
中隊長が、階段を上がってゆかれます。
板は、今夜のうちに南門を出ます。
――三日と申しましたのが、一日になりました。
昨夜のわたくしが答えを持っていなかったぶんでございます。その二日は、あとで数え直します。
――そして、もう一つ。
わたくしがこれから頂きに参るのは、『娘には、その権限を与えた』という一行ではございません。
条約の第五条以降。導水路の復旧費用はヴェルネ家が負担する。持参金十二万リーヴルと、南部三領の年間収入をあてる。
家を、二年、無一文にする署名でございます。
あの方が計算しないものは、この世にひとつもございません。
七日、わたくしの署名を守ってくださった方に、それを書かせに参ります。
明日の朝、板が上がります。
上がれば、その日のうちに、あの東の棟へ入れられます。
父と、同じ場所でございます。
(第二十八話へつづく)




