娘には、その権限を与えた
王宮の外庭、勝手口の脇でございます。
空車の脇で、わたくしは頭巾の下から答えました。
「人違いでございます」
「そうかもしれません」
声に、力がございません。人を捕らえる者の声ではございませんでした。
この方は、井戸端の列に背を向けて立っておられます。列から見れば、荷札を検めているように見えるはずでございました。
「十日目の朝、わたくしは北の丘へ上がりました。近衛第三中隊、エミール・ラフォンと申します」
荷札の紙が、この方の指の下で一度鳴りました。
「丘の中腹で、堆肥の車と行き合いました。荷台に、娘が一人。膝を抱えて、目を伏せておりました」
わたくしは、轅を握ったままでおります。
「そのまま隊列へお戻りになればよろしかったのに」
「戻れませんでした。荷台に、麻の縄が三巻き積んでございましたので」
――縄。
「堆肥の車に、日に焼けて白くなった綱が三巻き。井戸の縄でございます」
「……」
「屋敷に入りましたら、井戸から縄だけがなくなっておりました。滑車も把手も外して、持って出ておられます。埋めれば半刻で済むものを、埋めておられない」
――そこでございます。
この方が足を止めたのは、そこでございました。
「隊の者は、水を出し惜しみされたと腹を立てました。わたくしは、腹が立ちませんでした」
中隊長は、言葉を切られます。
「縄を持って出た者は、いつか返す気でおるのだろうと、そう思いましたので」
わたくしは、轅から手を離しました。
この方は、井戸を読んだのでございます。
「翌日から、こちらへ回されました。北の丘は隊の者に任せて、わたくしは外庭付きでございます。今日で三日目になります」
「三日、ここに」
「はい。女中が桶を提げて並ぶのを、三日見ております」
中隊長は、外庭の壁のほうを向いておられます。
「今朝、高札を読みました。王国軍が水を戻した、と書いてございました」
「はい」
「――わたくしは、王国軍でございます」
――同じことを仰った方が、もう一人おいででした。
旗章のない二十騎を、私の部隊ではないと仰いました。仰ったときには、出した隊はもう四日前に特定され、隊長は軍法会議にかけられております。
自分の部隊ではないと言い切る前に、言い切れるだけのことを済ませておられたのでございます。
「わたくしは、水を一滴も戻しておりません。丘の上で、井戸の縄を探しただけでございます」
それから、こちらへ向き直られました。
「ひとつだけ、伺わせてください。四日目に、本当に水は止まりますか」
わたくしは、頭巾の下から顔を上げました。
「止まります」
中隊長の口が、開いて、閉じました。
それから、荷札をこちらへ返しながら、低い声で申されました。
「……どちらへ、お連れいたしましょう」
文書庫の地下二層に、宰相バルテルミー閣下がおいででした。
卓の上に、革表紙の帳面が三十冊ばかり。角灯が一つ。
老宰相は、顔を上げて、それから、腰を浮かせかけて、やめました。
「――嬢」
「ご無沙汰いたしております」
「……ここへ、どうやって」
「桶を運んでまいりました」
閣下は、わたくしの前掛けと、括った袖を見ておられます。
それから、両手を卓の上で組まれました。指が白くなるほど強く。
「十日目の朝の走り書き、頂戴いたしました」
「……あれは」
「あれで、屋敷を出ました。四半刻ございませんでした」
「一日目の朝に、わたくしはあなたに折れました」
しばらくして、そう仰いました。
「折れて、そのあとは何もしておりません。この十二日、一枚も止めておりません。高札も止められませんでした」
「一昨夜の御前会議で、四日目に水が止まると仰ったそうでございますね」
「……なぜ、それを」
「井戸端で樽を受けている女が。給仕の子から女中頭へ伝わって、今朝までに十人が暇をもらったそうでございます」
閣下は、目を閉じられました。
「外されましてございます。もっとも、東の棟の記録係は、四十年前にわしが入れた男でございますので」
「……そうでしたか」
「毎朝の紙は、その者が見ております」
わたくしは、卓の縁に手を置きました。
「父は、いま何を求められておりますか」
老人は、帳面の一冊を、こちらへ滑らせました。
「毎朝、宮内卿が同じ紙をお持ちになります。一行でございます」
「……」
「『娘に、水門管理令の権限を与えた覚えはない』。ご署名くだされば、その日のうちに屋敷へお帰りいただける」
管理令には、父の署名と、公爵家の封蝋がございます。水門を閉じよと命じたのは、父でございました。
その下に、追記がございます。ヴェルネ公爵家代理――アデライド・ヴェルネ。
あの追記を父が否認すれば、追記から先が全部わたくし一人のものになります。上水道橋の使用停止通告。四分の一の開門。ガルデニアとの談判。
公爵の代理を騙った十八の娘が、勝手に王都を渇かせた。そういう筋になります。
「宰相閣下。一日目の朝、わたくしは管理令の写しを、閣下にお渡しいたしました」
老人の肩が、動きました。
「文書官と書記を扉の外に控えさせて、机の上に置きました」
「……覚えております」
「あの写しは、いまどちらに」
「宮内卿の手にございます」
あの朝、わたくしはあの一枚で撤回を潰しました。潰すために、父の署名とわたくしの追記の並んだ紙を、自分の手で王宮に渡しております。
いま、王家が父に突きつけている紙は、そこから作られたものでございました。
「宰相閣下。あの束に、受諾書が綴じてございます」
「綴じてございます」
「あれは、どちらの署名で」
老人は、角灯の芯へ目を落とされました。
「公爵閣下ご自身の署名でございます。あの一枚だけは、嬢のお名前が入っておりません」
――では、第七条は残ります。
代理を否認しても、婚約の解消を受諾したのは父本人でございます。受諾が生きているかぎり、水利権はヴェルネ家に戻ったままでございました。
落ちるのは、追記から先だけ。
落ちる先には、わたくししかおりません。
「宰相閣下。地下三層の第七棚は」
「鍵が、十一日目に移りましてございます。わたくしの手から、宮内卿へ」
この世の写しは二通。一通はセシルが油紙三重で抱えております。
もう一通の鍵が、いま、高札の文案を書いた方の手にございました。
「もう一つ、伺わせてください。黒い蝋の使いを、女中頭が二度、どこかへ通しております」
閣下の指が、帳面の背で止まりました。
「――陛下は、その二度のあとで、何をお決めになりましたか」
老人は、答えません。
答えないという答え方を、この方は四十年やってこられた方でございます。
「――お答えになれないことは、答えでございます。数えておきます。父の話に戻らせてください。父は、なんと」
閣下は、角灯の芯を少し上げられました。
「七日でございます。毎朝、同じ紙を出されて、毎朝、同じことを仰います」
老人は、そこで一度、息を継がれました。
「『娘には、その権限を与えた』」
文書庫の空気は、地下の匂いがいたします。石と、革と、埃でございます。
わたくしは、その匂いの中で、しばらく立っておりました。
――勘定が、一つ余ります。
取れないのは父のほうだと、そう見積もって、五日を数えはじめました。その父が、七日、紙を断っておられます。
「宰相閣下。父は、なぜ」
閣下の指が、帳面の背から離れます。
「存じません」
「……」
「『娘には、その権限を与えた』。あの一行を、わたくしは四十年の宮廷で、いちどきりしか聞いておりません」
「宰相閣下は、お訊きになりましたか」
「三度、伺いました。三度とも、お答えになりません」
閣下は、角灯の芯を落とされました。
「嬢。お会いになったら、ご自分でお訊きなさいませ」
――右手が、震えております。
夜会の晩から数えて、五度目でございました。
この手が震えるのは、いつも、欄のないときでございます。
合わない数なら、合わせる手がございます。欄のないものには、ございません。
父が七日、あの一行を守っておられる理由を書き込む欄が、わたくしの帳面のどこにもございません。
わたくしは、条約の束を持ち直しました。
署名欄は、まだ二つ空いております。
残りは、三日でございます。
「宰相閣下。陛下は、わたくしにお会いになりますか」
「なりませぬ」
即答でございました。
(第二十七話へつづく)




