第9章 飲み会は全員参加ではない――五時から男の誤算
その日の研修が終わるころ、秋山昭人は少しだけ気分が上向いていた。
定時退社という令和の職場感覚にはまだ戸惑いが残っていた。だが、小林美咲との会話を経て、少なくとも今日は無理に残らず帰るという選択をした。自分の中では、それだけでもかなり大きな譲歩だった。
だからこそ、秋山は思った。仕事が終わった後こそ、人間関係をつくる時間ではないか、と。
「今日、軽く飲みに行かないか」
ロッカーの前で、秋山は同期たちにそう声をかけた。
言い方としては自然なつもりだった。歓迎会というほど大げさではない。説教をするつもりもない。ただ、少し酒でも飲みながら、腹を割って話す。昔から、職場の距離はそうやって縮まってきた。
秋山の頭には、かつて聞いた「五時から男」という言葉が浮かんでいた。
仕事中は目立たなくても、定時後に急に元気になる人たち。居酒屋で本音を語り、二次会で距離を縮め、翌日の仕事がなぜか少し回りやすくなる。そんな光景を、秋山は社会人の原風景として覚えていた。
しかし、返ってきた反応は、秋山の予想とは少し違っていた。
「すみません、今日は予定があって」
近藤が申し訳なさそうに笑った。城山は地元の友人とのオンライン通話があると言い、早川は勉強会の予定を理由に手早く帰り支度を進めた。相原は「また機会があれば」と丁寧に言ったが、その言葉には明確な距離があった。
秋山は一瞬、理解が追いつかなかった。
予定があるのは分かる。だが、新入社員同士の最初の時期だ。少しくらい都合を合わせて親睦を深めるものではないのか。飲み会に来ないということは、職場の関係づくりに関心がないということなのか。
そんな思いが顔に出たのだろう。小林美咲が、すっと秋山の横に立った。
「秋山さん、飲み会は自由参加です。来られない人がいても、それで関係づくりに消極的だとは限りません」
「いや、強制するつもりはないんです。ただ、仕事だけでは見えない部分もあるでしょう。少し飲めば、本音も聞けるし」
秋山はそう言いながら、自分でも少し言い訳めいていると思った。強制ではない。そう言えば言うほど、相手には断りづらい圧として響くことがあるのかもしれない。
小林はゆっくりとうなずいた。
「飲み会で話せることがあるのは、たしかだと思います。ただ、飲み会に出ないと本音を話せない、出ないと人間関係がつくれない、という前提になると、参加しない人に負担がかかります」
秋山は、近藤たちが去っていく背中を見つめた。
誰も秋山を嫌っているようには見えない。だが、誰も当然のようにはついてこなかった。そのことが、秋山には新鮮だった。
昔なら、上司や先輩が「軽く行くか」と言えば、予定があっても何とかする空気があった。
行けば行ったで、仕事の話、失敗談、武勇伝、愚痴、将来の夢が混ざり合い、関係が深まったように感じた。だが、その関係は本当に対等だったのだろうか。断れない空気の上に成り立っていたものも、なかったと言い切れるだろうか。
「業務外の時間は、その人の時間です。体力を回復する人もいれば、家族や友人との時間にする人もいます。勉強する人も、趣味に使う人もいます。そこを尊重したうえで、来たい人が来られる場にするのが今の考え方だと思います」
小林の言葉は淡々としていたが、秋山には重く響いた。
飲み会は悪ではない。腹を割って話すことも、相手の意外な一面を知ることも、仕事に良い影響を与えることはある。だが、それは参加する側が安心して選べる場であって初めて成り立つ。
秋山は、ふと自分が課長だった頃の送別会を思い出した。
忙しい時期にもかかわらず、部下たちはほとんど全員参加していた。自分はそれを、慕われている証拠だと思っていた。だが、本当は欠席しづらかっただけの者もいたのかもしれない。二次会に誘ったとき、曖昧に笑っていた若手の表情を、秋山は今さらのように思い出した。
「じゃあ、どう声をかければいいんですか」
秋山が尋ねると、小林は少し考えてから答えた。
「例えば、『行ける人だけで短時間、無理に来なくて大丈夫です』と最初に言うだけでも違います。参加しない理由を聞きすぎないことも大事です。あと、飲み会でしか話せない関係にしないことです」
飲み会でしか話せない関係にしない。
秋山はその言葉を胸の中で繰り返した。会議で話せないから飲み会で聞く。職場で相談されないから酒席で本音を探る。そう考えていた時点で、日中の自分の関わり方に足りないものがあったのかもしれない。
秋山は、スマホを取り出し、同期のグループチャットに短いメッセージを打った。
「来週、行ける人だけで短時間ごはんでもどうですか。もちろん予定優先で大丈夫です。参加しない理由も不要です」
送信してから、秋山は少し照れくさくなった。
昔の自分なら、こんな書き方は水くさいと思っただろう。だが、誰かが安心して断れる余白をつくることも、今の職場では大切な気遣いなのだと分かり始めていた。
しばらくして、近藤からスタンプが返ってきた。城山からは「来週なら行けそうです」とメッセージが届いた。相原は「予定確認します」とだけ返した。そのどれもが、秋山には以前より少し軽やかに見えた。
五時から男の時代は、もうそのままでは通用しない。
けれど、仕事の外で人を知ろうとする気持ちまで捨てる必要はない。ただし、その入口には、相手が自由に選べる扉をつけなければならない。秋山はそう思いながら、小林と並んで駅へ向かった。




