第8章 閑話:エリート課長 秋山の自負――ジュリアナの残像
秋山昭人は、定時退社という言葉がどうにも腹に落ちなかった。
もちろん、制度として分かっていないわけではない。働き方改革も、長時間労働の是正も、管理職として何度も説明を受けてきた。部下に無理な残業をさせてはいけないことも、若手が私生活を大切にする時代だということも、頭では理解していた。
それでも、心のどこかで思ってしまうのだ。あと一時間粘れば、資料はもっと良くなる。もう一本電話をすれば、相手の本音が聞ける。誰よりも先に動き、誰よりも長く考え、最後まで自分で責任を持つ。それが仕事というものではなかったのか、と。
入社式から数日が過ぎ、研修後のフロアでは、同期たちが当然のように帰り支度を始めていた。
近藤はスマホで予定を確認し、相原はイヤホンを片方だけ外して小林美咲に軽く会釈している。城山は「今日は地元の友人とオンラインで話すんです」と言い、早川は「この後、勉強会があるので」と足早に席を立った。
秋山は、その光景を見ながら、胸の奥に小さな苛立ちが浮かぶのを感じた。まだ明るい。まだ資料は読み込みきれていない。まだ質問も残っている。なのに、なぜそんなに迷いなく帰れるのか。
「お疲れさまでした」
近藤が笑顔でそう言った。
秋山は反射的に「もう帰るのか」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。今の自分は課長ではない。同期の一人だ。ましてや相手の退社を責める立場ではない。
だが、飲み込んだ言葉は、胸の中で別の形に変わっていた。
俺たちの頃は、ここからが勝負だった。定時後に残って、先輩の資料を盗み見て、取引先の名前を覚えて、電話のかけ方を身体で覚えた。誰かに教わる前に、自分で取りに行く。それが当たり前だった。
ふと、秋山の頭に、若い頃の記憶がよみがえった。
夜の街に流れる派手な音楽。肩パッドの入ったスーツ。きらびやかなネオン。テレビの中で踊る人々。ジュリアナの扇子が光の中で揺れ、世の中全体が前へ前へと進んでいるように見えた時代。実際の自分はその中心にいたわけではない。それでも、あの空気だけは身体に染みついていた。
頑張れば報われる。長く働けば経験になる。上司に食らいつけば成長する。仕事を優先すれば、いつか立場も給料もついてくる。秋山はそう信じて走ってきた。
営業で成果を出し、本社管理部門も経験し、同期より早く課長になった。努力した。結果も出した。だから、自分のやり方には根拠がある。
「秋山さん、今日はここまでで大丈夫ですよ」
声をかけたのは小林美咲だった。秋山がまだ研修資料を開いたまま座っていることに気づいたらしい。
「いえ、もう少し見ておきます。明日、質問されたときに答えられないと困るので」
秋山は自然にそう答えた。小林は少しだけ目を細め、言葉を選ぶように間を置いた。
「その姿勢はすごいと思います。ただ、全部を今日中に背負わなくても大丈夫です。分からないことは、明日確認すればいいので」
全部を今日中に背負わなくても大丈夫。その言葉は、秋山には少し軽く聞こえた。だが同時に、どこか引っかかった。
自分はいつから、分からないことを翌日に持ち越すことを負けだと思うようになったのだろうか。誰かに確認することを、なぜ準備不足だと感じてしまうのだろうか。
小林は続けた。
「秋山さんが残っていると、周りも少し気にします。同期でも、あの人がまだやっているなら自分も残った方がいいのかな、と思う人が出るかもしれません」
秋山は思わず顔を上げた。自分が残ることが、誰かの学びになるとは思っていた。自分の背中を見て、周囲が奮起するのだと信じていた。だが、小林の言葉は別の可能性を示していた。自分の背中は、励ましではなく、無言の圧として見えていたのかもしれない。
「でも、仕事って、そういうものじゃないですか。自分で責任を持って、最後までやり切るというか」
口にしてから、秋山は自分の声が少し強くなっていることに気づいた。小林は責めるでもなく、笑うでもなく、静かにうなずいた。
「責任を持つことは大事だと思います。でも、一人で抱えることだけが責任ではないと思います。確認すること、相談すること、今日はここまでと決めて明日に備えることも、今は大事な仕事の進め方です」
秋山は答えられなかった。反論ならいくらでもできる気がした。自分がどれほど仕事に向き合ってきたか。どれほど成果を出してきたか。どれほど周囲を助けてきたか。胸の中には、いくつもの実績が並んでいた。
だが、その実績の向こう側で、自分の部下たちは何を感じていたのだろう。俺が遅くまで残っているから帰りづらかったのではないか。俺がすぐ直してしまうから、自分で考える前に諦めていたのではないか。俺が正しいことを強く言うから、相談するより黙った方が楽だと思っていたのではないか。
ジュリアナの残像のようにきらびやかだった自負が、少しだけ輪郭を失っていく。
あの頃の熱量は、たしかに自分をここまで連れてきた。けれど、そのままの形で誰かに押しつければ、相手の足元を照らす光ではなく、まぶしすぎる照明になるのかもしれない。
秋山は、ゆっくりと研修資料を閉じた。
「分かりました。今日は帰ります。……明日、分からないところを確認させてください」
小林は少しだけ安心したようにうなずいた。
「はい。明日、一緒に確認しましょう」
その言葉を聞いたとき、秋山は初めて、誰かに頼ることが負けではないのかもしれないと思った。
かつての自分なら、今日中に全部仕上げることを誇りにしていただろう。だが、今の秋山は、閉じた資料を鞄に入れながら、小さく息を吐いた。
まだ、自負は消えていない。消す必要もない。ただ、その使い方を変えなければならない。秋山はそう思いながら、同期たちの後を追って、定時を少し過ぎたオフィスを出た。




