第10章 飲み会で出る人間性――飲みにケーションの光と影
来週の金曜日、秋山が送った「行ける人だけで短時間」という誘いに、思ったよりも穏やかな反応が返ってきた。
近藤は「一時間くらいなら」と返信し、城山は「こういう場は慣れていないですが、行ってみたいです」と続けた。早川は予定が合わず不参加、相原は「今回は見送ります」とだけ返した。
秋山はその画面を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
全員が来るわけではない。理由を聞く必要もない。だが、来ると言ってくれた人がいる。昔の自分なら、それを少し寂しいと感じただろう。けれど今は、そのくらいの温度がちょうどいいのかもしれないと思えた。
店は会社の最寄り駅から少し離れた、小さな居酒屋だった。
個室ではなく、騒がしすぎもしないテーブル席。小林美咲が「最初はこのくらいがちょうどいいと思います」と選んだ店である。
秋山としては、本音を言えばもう少し活気のある店でもよかった。仕事帰りの会社員が肩を並べ、店員の声が飛び交い、ビールジョッキがぶつかる音が響くような場所。そういう空気の中でこそ、人は腹を割るものだと思っていた。
だが、席についた近藤と城山の表情を見ると、秋山は少し考えを改めた。
近藤は周囲の様子を確認しながらも、自然体でメニューを眺めている。城山は少し緊張しているようで、水のグラスを両手で持っていた。小林はその二人の間に座り、無理に場を盛り上げようとはせず、全員が落ち着くまで待っている。
「じゃあ、とりあえずビールでいいか」
秋山が言った瞬間、テーブルの上に一拍の間が落ちた。
近藤は笑顔のままメニューを指さし、城山は少しだけ目を泳がせた。
小林はすぐに口を開いた。
「秋山さん、最初の一杯もそれぞれで大丈夫です。お酒を飲まない人もいますし、今日は短時間なので、無理に合わせなくて大丈夫です」
「あ、そうですね。私、今日はウーロン茶にします」
近藤がそう言うと、城山もほっとしたようにメニューを開いた。
「僕も、今日はお酒はやめておきます。あまり強くないので」
秋山は、反射的に「最初の一杯くらい」と言いかけた。
だが、小林の視線がやわらかくこちらに向いていることに気づき、言葉を飲み込んだ。
飲めるかどうか、飲みたいかどうかは本人が決めることだ。そんな当たり前のことを、秋山はこれまで意外なほど考えてこなかったのかもしれない。
「じゃあ、俺はビールにします。皆さんは、それぞれ好きなもので」
自分で言ってから、秋山は少しだけ照れくさくなった。
昔なら、こんな前置きは不要だと思っていた。場の空気をそろえるために、まず全員で同じものを注文する。
それが飲み会の始まり方だと信じていた。だが、目の前の近藤と城山は、自分の選択を否定されなかったことで、明らかに表情を緩めていた。
飲み物がそろうと、秋山はグラスを持ち上げた。
「じゃあ、今日は来てくれてありがとう。無理に誘ったわけじゃないけど、こういう場で話すと、仕事中には見えないところも分かるからな」
言ってから、秋山は少しだけ自分の言葉に引っかかった。仕事中には見えないところ。確かにその通りだ。だが、それは相手が見せたいと思った範囲で見えるものであって、こちらが引き出しに行くものではないのかもしれない。
「まあ、今日は軽く。乾杯」
「乾杯」
グラスが静かに触れ合った。
昔の秋山なら、ここで勢いよくジョッキをあおり、「まずは一杯」と場を温めようとしただろう。
だが、目の前でウーロン茶を一口飲む近藤と、ジンジャーエールの泡を少し眺めている城山を見ていると、その勢いが必ずしも場を楽にするわけではないことが分かった。
最初の話題は、研修の感想になった。
近藤は「橋本さんの説明、分かりやすいですよね」と言い、城山は「質問しても大丈夫そうな雰囲気があるのが助かります」と続けた。
秋山は、その言葉に少しだけ身構えた。質問しても大丈夫そうな雰囲気。自分が課長だったころ、部下たちはそう感じていただろうか。
分からないなら聞けと言っていた。だが、聞いた相手に対して「それで君はどう考えたのか」とすぐ返し、答えが曖昧だと表情を曇らせていた。その顔を見て、部下は本当にもう一度相談に来られていただろうか。
「うちの部署にも、質問しやすい人が多いといいですね」
近藤が何気なく言った一言に、秋山は少しだけ笑ってごまかした。
ここで「質問は自分で考えてからするものだ」と返すのは簡単だった。だが、それを言った瞬間、せっかく緩みかけた場が仕事の面談のようになるのも分かった。
「俺の若いころは、分からないことがあったら、まず自分で一晩調べて、それでも分からなければ先輩の机の横に立って聞いたものだけどな」
言ってしまってから、秋山は内心で「あ」と思った。これは、武勇伝の入口だ。飲み会で一番やりがちな、自分の時代の話である。
近藤は責めるでもなく、「一晩調べるのはすごいですね」と言ったあと、少し首をかしげた。
「でも、今だと一晩かける前に、途中で相談してもらった方が助かることもありそうです。方向が違っていたら、その一晩がもったいないので」
秋山はビールを一口飲み、返す言葉を探した。昔なら「その遠回りが力になる」と言っただろう。たしかに、遠回りで得た経験は自分を鍛えた。だが、今はチームで仕事を進める時代だ。自分の遠回りが、誰かの予定や判断を止めることもある。
城山が、少し控えめに口を開いた。
「僕、地元では年上の人と飲むと、けっこう最後まで付き合うのが普通だったんです。でも、実は早く帰りたい人もいたと思います。断れないだけで」
その言葉は、秋山の胸にすっと入ってきた。
城山の言い方には、誰かを責める響きがなかった。ただ、自分もそういう空気の中にいたことがある、という実感だけがあった。
料理が運ばれてくると、場は少し和らいだ。
小林は取り分けを強制せず、「必要な人は取ってください」とだけ言った。
秋山は一瞬、皿を持って全員分を分けようとしたが、近藤が自分の箸で必要な分だけ取るのを見て、手を止めた。
気が利くことと、場を仕切ることは似ているようで違う。良かれと思って先回りしすぎると、相手の自由を少しずつ奪うことがある。
話題は、出身地、通勤時間、休日の過ごし方へ移っていった。
秋山は何度か、恋人の有無や実家の事情を聞きそうになった。昔なら、そういう話題こそ距離を縮める入口だった。
だが、近藤が推しのライブの話を楽しそうにし、城山が地元の友人とのオンライン通話を大事にしていると話すのを聞いているうちに、相手を知ることと、踏み込みすぎることの境界が少し見えてきた。
「飲み会って、話す内容だけじゃなくて、聞き方にも出ますよね」
小林が、メニューを閉じながら言った。
「盛り上げようとしてくれる人はありがたいです。でも、相手が話したいことを待てる人の方が、安心して話せることもあります」
秋山は、グラスの中の泡を見つめた。
自分はこれまで、飲み会では場を回す側だった。沈黙があれば埋める。若手が話さなければ質問する。盛り上がらなければ、自分の失敗談や武勇伝を出す。
それが気遣いだと思っていた。だが、その気遣いは、相手にとっては逃げ場のない連続質問だったかもしれない。
予定していた一時間が近づくと、近藤が時計を見た。
秋山は反射的に「もう一軒行くか」と言いそうになったが、今度は口に出す前に止められた。
「今日はここまでにしましょう。最初に短時間って言いましたし」
小林の言葉に、近藤が少し安心したようにうなずいた。城山も「ちょうどよかったです」と笑った。
その表情を見て、秋山は理解した。約束した時間で終わることは、盛り上がりに水を差すことではない。むしろ、また来てもいいと思える余白を残すことなのだ。
会計の場面でも、秋山はまた昔の癖が出そうになった。
「ここは俺が出すよ」と言いかけて、秋山は小林を見る。小林は小さく首を振った。
「お気持ちはありがたいですが、今日は同期の集まりですし、無理のない範囲で割り勘にしましょう。おごられると、次に断りづらくなる人もいます」
秋山は、財布を出しかけた手を止めた。おごることは、善意だと思っていた。年長者が多めに払う。稼いでいる人が負担する。そうすれば若手も喜ぶ。
だが、それが相手に借りを感じさせたり、次の誘いを断りづらくしたりすることもある。支払い方にも、人との距離感が出るのだ。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
駅前で別れるとき、秋山はまた「家に着いたら連絡して」と言いかけた。
だが、それも途中で止めた。心配する気持ちは悪くない。けれど、必要以上の確認は、相手に見張られているような感覚を与えることがある。
「今日はありがとう。気をつけて帰ってください。また、こういう機会があれば」
秋山がそう言うと、近藤は「楽しかったです」と笑い、城山は「一時間って決まっていたので来やすかったです」と言った。その一言が、秋山には今日一番の学びだった。
飲み会では、人間性が出る。
秋山は昔からそう思っていた。酔ったときの態度、店員への接し方、支払い方、帰り際の一言。たしかに、そういう場面には、その人の価値観がにじむ。
だが、今日見えたのは、相手の人間性だけではなかった。自分の人間性もまた、そこに出るのだ。
相手に飲ませようとするか。話題を選べるか。沈黙を待てるか。約束した時間で終われるか。善意のつもりで、相手の自由を狭めていないか。
飲みにケーションには、たしかに光がある。仕事中には見えない表情を知り、距離が少し近くなることもある。
けれど、その光は、相手が安心してそこにいられるときだけ灯る。
断れない飲み会、帰れない二次会、踏み込みすぎる質問、理由を求める誘い。その影を見ないまま光だけを信じれば、飲み会は関係づくりではなく、関係をすり減らす場になる。
駅へ向かう道で、小林が隣に並んだ。
「秋山さん、今日はだいぶ止まっていましたね」
「止まっていた、ですか」
「はい。言いかけて、考えて、やめていた場面が何回かありました。それって、すごく大事だと思います」
秋山は苦笑した。
言わないことが評価される日が来るとは思わなかった。だが、たしかに今日、自分は何度も止まった。とりあえずビール。最初の一杯くらい。俺の若いころは。もう一軒。ここは俺が出す。家に着いたら連絡して。どれも昔なら善意や気遣いの言葉だった。けれど今は、その一つひとつに、相手が断れる余白を削る力がある。
「飲み会って、難しいですね」
秋山がそう言うと、小林は少し笑った。
「難しいです。でも、だからこそ、その人が出るんだと思います」
秋山は夜の駅前で、さっきまでいた店の灯りを振り返った。
飲み会は、もう昔のように全員を巻き込む儀式ではない。けれど、人を知ろうとする気持ちまで失う必要はない。ただし、その気持ちは、相手が自由に近づき、自由に離れられる距離に置く必要がある。
秋山は小さくうなずき、駅の改札へ向かった。
飲みにケーションの光と影。その両方を知ることが、令和の職場で人と関わるための、最初の一歩なのかもしれなかった。




