第11章 接待の常識が通じない――その常識、チョベリバです
翌週、秋山昭人は研修用の会議室で、妙に懐かしい言葉を耳にした。
「来月、取引先との顔合わせを想定したロールプレイを行います。テーマは、接待・贈答・会食時の距離感です」
小林美咲がそう説明した瞬間、秋山の背筋が少しだけ伸びた。
接待。贈答。会食。営業畑を歩いてきた秋山にとって、それは苦手分野ではない。むしろ、自分の強みが発揮できる場面だと感じた。
かつて秋山は、取引先との距離を詰めるのがうまい営業だった。
相手の好みの店を調べ、移動しやすい場所を選び、季節の手土産を用意し、会食では相手が話しやすい話題を振る。仕事の話だけでは見えない本音を引き出し、次の提案につなげる。それが営業の腕だと信じていた。
「接待なら、多少は分かるぞ」
秋山が小さくつぶやくと、隣の近藤千翔がこちらを見た。
「秋山さん、顔が急に営業部長みたいになってます」
「営業部長じゃない。新入社員だ」
近藤が笑うと、周囲の同期たちも少しだけ表情を緩めた。秋山は肩をすくめながらも、内心では久しぶりに得意分野が来たと思っていた。
小林は研修資料を画面に映した。
そこには「取引先との関係構築」と大きく書かれている。その下に、会食、贈答、情報共有、便宜供与、割り勘、記録という言葉が並んでいた。
「まず皆さんに考えてほしいのは、関係を深めることと、距離を詰めすぎることは同じではない、という点です」
小林がそう言うと、秋山は思わず手を挙げた。
「でも、距離を詰めないと本音は聞けないんじゃないですか。取引先だって、会議室で建前ばかり話していては、困りごとまでは見えてこないでしょう」
言いながら、秋山の頭には営業時代の光景が浮かんでいた。
先方の担当者が好きだと言っていた小料理屋を覚えておき、次の訪問時にさりげなく予約する。異動の挨拶には、相手の出身地にちなんだ菓子折りを持っていく。会食の最後にはタクシーを手配し、翌朝には礼状を送る。
そうした積み重ねが、競合には聞けない情報や、次の提案のヒントにつながっていた。
そのとき、会議室の後方から落ち着いた声がした。
「本音を聞くことと、相手に借りを作ることは、分けて考えた方がよいですね」
振り返ると、入口に一人の女性社員が立っていた。
濃いグレーのジャケットに、すっきりとまとめた髪。表情は穏やかだが、会議室の空気が少し引き締まるような存在感があった。
「コンプライアンス担当の江藤倫子です。今日は、皆さんのロールプレイに少しだけ同席します」
江藤の声は冷たくはなかった。だが、言葉の一つひとつに逃げ道のない正確さがあった。
秋山は、現世で何度かコンプライアンス部門とやり取りした記憶を思い出し、反射的に背筋を伸ばした。
江藤は資料を一枚めくり、秋山の方を見た。
「秋山さんの言うように、相手の困りごとを知ろうとする姿勢は大切です。ただし、会食、贈答、送迎、支払い、個人的な便宜によって、その情報を引き出そうとすると、相手との関係が不透明になります」
「不透明、ですか」
「はい。たとえば、先方が本当に当社の提案を評価してくれたのか。それとも、何度もごちそうになっているから断りづらくなったのか。こちらが良い関係だと思っていても、外から見ると、判断がゆがんだように見えることがあります」
秋山は言葉に詰まった。自分がしてきたことは、相手を喜ばせるための気遣いだった。
だが、気遣いが積み重なるほど、相手は自由に判断できなくなることもある。自分が信頼だと思っていたものが、誰かには貸し借りに見えていた可能性がある。
江藤は、ホワイトボードに三つの言葉を書いた。
透明性。公平性。説明可能性。
「接待や贈答の問題は、単に金額が高いか安いかだけではありません。あとから見たときに、その関係や判断をきちんと説明できるかどうかが重要です」
近藤が手を挙げた。
「割り勘なら大丈夫なんですか」
「割り勘でも、目的や相手、時期によります。たとえば重要な選定や契約の直前に、特定の相手とだけ何度も会食をしていれば、たとえ割り勘でも、公平性を疑われることがあります」
早川が「じゃあ、何もできないじゃないですか」と苦笑すると、江藤は首を横に振った。
「何もするな、という話ではありません。仕事上必要なコミュニケーションはあります。ただし、目的、場所、相手、費用負担、共有範囲を明確にすること。そして、必要に応じて事前に確認し、記録を残すことです」
小林が補足した。
「関係を作る手段を、会食や贈り物だけに寄せないことも大切です。議事録を丁寧に残す、質問の背景を確認する、相手の課題を社内で共有する。そういう積み重ねでも信頼は作れます」
秋山は、少しだけむずがゆい気持ちになった。
信頼という言葉が、酒席や手土産から、記録や共有へ移っていく。昔の自分なら、そんなものは味気ないと思っただろう。だが、考えてみれば、誰にも説明できない信頼は、本人同士にしか通じない。組織の仕事としては、弱いのかもしれない。
ロールプレイは、秋山が営業担当、近藤が取引先担当者、小林が同席者、江藤が観察者という形で始まった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。近藤さん、以前お酒がお好きと伺ったので、次回はぜひ良いお店でゆっくり……」
秋山がそこまで言ったところで、江藤が静かに手を上げた。
「止めます。今の発言は、相手の個人的な嗜好に寄せすぎています。業務上の必要性がない会食の誘いに聞こえるうえ、相手が断りづらい立場なら、負担になります」
「いや、でも会話の糸口としては普通じゃないですか」
秋山は思わず反論した。江藤はうなずきながらも、声の温度を変えなかった。
「普通だった時代はあると思います。ただ、今はその普通が、相手の自由な判断を妨げる可能性まで見ます。関係を深めたいなら、まずは業務上の課題を丁寧に聞くことです」
秋山は息を吸い直し、言い換えた。
「失礼しました。では、現在の業務で困っている点や、改善したい点を教えていただけますか。内容は持ち帰って、社内で確認したうえで正式に回答します」
近藤は取引先役のまま、少し大げさにうなずいた。
「その聞き方なら答えやすいです。ごちそうになる前提じゃないので、変に身構えなくて済みます」
会議室に小さな笑いが起きた。
秋山は苦笑しながらも、内心では少しだけ納得していた。自分が得意だと思っていた「懐に入る力」は、使い方を間違えると、相手の懐を無理に開けさせる力にもなる。
次のケースは、手土産だった。
秋山は「季節のご挨拶として、先方の好みに合わせた菓子折りを持参する」と答えた。
江藤は、すぐには否定しなかった。
「まず確認するのは、会社のルール、相手先のルール、金額、時期、目的です。相手先が受け取れないルールを持っている場合もありますし、選定や契約に近い時期であれば、たとえ少額でも避けるべき場合があります」
「気持ちだけでも、ですか」
「気持ちだからこそ、扱いが難しいのです。受け取った側が困ることもあります。気遣いは、相手に持ち帰る負担を増やさない形で示すこともできます」
秋山は、かつて取引先の受付で菓子折りを渡し、相手が一瞬だけ困ったような顔をしたことを思い出した。
そのときは遠慮しているのだと思った。だが、本当は社内ルール上、受け取ってよいか判断に迷っていたのかもしれない。
研修の終盤、江藤は最後にこう言った。
「コンプライアンスは、人と人との関係を冷たくするためのものではありません。むしろ、相手が安心して判断できる関係を守るためのものです」
秋山は、その言葉に少し驚いた。
ルールは営業の邪魔をするものだと、どこかで思っていた。せっかく築いた関係に水を差し、現場の工夫を縛るものだと感じていた。
だが、江藤の言葉は違った。ルールは、相手が断れる余白を守り、自分たちの提案が正当に評価される土台を守るものでもある。
「接待って、相手に近づく技術だと思っていました」
秋山がそう言うと、江藤は少しだけ表情をやわらげた。
「近づくこと自体が悪いわけではありません。ただ、近づき方には、相手が自由に離れられる余白が必要です」
小林が、横で小さくうなずいた。
「この前の飲み会で秋山さんが気づいた距離感と似ています。入口だけでなく、関係が始まった後も、相手が断れること、離れられること、説明できることが大事なんだと思います」
秋山は深く息を吐いた。
チョベリバ。昔なら、最悪だ、やりにくい、と笑って言ったかもしれない。
だが今、その言葉は少し違って聞こえた。自分の常識がそのまま通じないことは、たしかに面倒だ。けれど、その面倒さの中に、相手を守り、自分たちの仕事を守る意味がある。
研修後、秋山は自分のメモに短く書いた。
信頼は、貸し借りではなく、説明できる関係でつくる。
営業として相手を知ろうとする力は、秋山の強みである。ただし、その力を酒席や贈り物で相手を囲い込むために使うのではなく、相手が安心して課題を話せる場をつくるために使う必要がある。
秋山は、少しだけそれを理解し始めていた。




