第12章 電話に出ない同期たち――携帯なら出ると思ったのに
接待とコンプライアンスの研修が終わった翌日、秋山昭人は、早くも別の壁にぶつかっていた。
原因は、たった一本の電話だった。
午前の研修後、小林美咲から新入社員グループに、翌日の資料確認に関する案内が送られてきた。提出期限は明日の正午。内容は簡単な確認シートで、各自が担当箇所を見て、気づいた点をチャットで共有するというものだった。
秋山は資料を開き、すぐにひとつ気になる点を見つけた。近藤が担当するはずの項目に、前回の研修内容と少しずれた表現がある。大きな誤りではないが、放っておくと後で修正が面倒になりそうだった。
秋山は迷わずスマホを手に取った。
チャットで文字を打つより、電話で一言確認した方が早い。相手の反応も分かるし、誤解もすぐ解ける。秋山にとって、電話は最も手早く、最も確実な連絡手段だった。
「携帯なら、出られるだろう」
そうつぶやいて、秋山は近藤千翔の名前をタップした。
呼び出し音が鳴る。
二回、三回、四回。だが、近藤は出なかった。しばらくして、通話は留守番電話に切り替わった。
秋山は眉をひそめた。着信に気づいていないのか。それとも出られないのか。いや、今は研修後の空き時間のはずだ。スマホは手元にあるだろう。携帯なら、出るものではないのか。
数分後、近藤からチャットが届いた。
「すみません、今イヤホン外していて電話出られませんでした。急ぎですか? チャットで内容もらえれば確認します」
秋山はその文面を見て、しばらく画面の前で固まった。
電話に出られなかったことを謝ってはいる。だが、そこに「なぜ電話したのか」という小さな問いが含まれているようにも見えた。
秋山は少し釈然としないまま、チャットに要点を打ち込んだ。
「確認シートの三行目、前回の説明と少し違う気がします。あとで見てもらえますか」
近藤からの返信は早かった。
「ありがとうございます。たしかに表現ずれてますね。修正案を入れておきます」
用件は、それで済んだ。時間にして一分もかからなかった。電話で話せばもっと早かったかもしれないが、チャットでも十分だった。むしろ、文面が残る分、誰が何を確認したのかも分かりやすい。
それでも秋山の中には、まだ小さな違和感が残っていた。急ぎではないかもしれない。
だが、気づいたならすぐ直接伝える。それが相手のためではないのか。電話一本で済む話を、なぜわざわざ文字にするのか。
その直後、秋山は別の確認事項を見つけた。
今度は相原愛奈が作成した一覧表だった。生成AIの利用可否に関する表現が少し曖昧に見える。秋山は、今度こそ電話する前に一瞬だけ迷った。
だが、迷ったのは一瞬だった。やはり早く確認した方がいい。秋山は相原の名前を開き、通話ボタンを押した。
相原も出なかった。今度は呼び出し音すら短く、すぐに通話が切れた。続いてチャットが届く。
「作業中なので電話は出られません。急ぎならチャットに要点を書いてください。緊急であればその旨も入れてください」
秋山は、思わず画面に向かってつぶやいた。
「電話って、そんなに嫌なものなのか」
ちょうどそのとき、後ろから小林美咲の声がした。
「嫌というより、電話は相手の時間をその場で止める連絡手段なんです」
秋山は振り返った。
小林は責めるような表情ではなかったが、秋山のスマホ画面に並ぶ発信履歴を見て、状況を大体理解したらしい。
「相手の時間を止める、ですか」
「はい。電話は便利です。すぐ聞けますし、声のニュアンスも分かります。でも、受ける側は、その瞬間に作業を中断しなければならないことがあります。集中しているとき、会議の前後、移動中、周囲に人がいるときは、電話に出ること自体が負担になる場合もあります」
秋山は言い返そうとして、口を閉じた。
電話は早い。だが、早いのはかける側にとってであって、受ける側にとっても同じとは限らない。自分の都合で、相手の作業を強制的に止めている可能性がある。
「でも、急ぎの場合は電話の方がいいですよね」
秋山が言うと、小林はうなずいた。
「もちろんです。緊急性が高いもの、事故やトラブルの一次対応、すぐ判断が必要なものは電話が向いています。ただ、急ぎかどうかが相手に分からない電話は、受ける側を不安にさせることもあります」
小林は、秋山の画面を指ささずに続けた。
「たとえば、最初にチャットで『確認したい点があります。急ぎではありません。都合のよいときに五分だけ話せますか』と送る。あるいは、『今日中に判断が必要なので、電話してもよいですか』と聞く。それだけで、受ける側は準備できます」
「電話してもよいですか、と聞いてから電話するんですか」
秋山は本気で驚いた。
電話とは、かけるものだと思っていた。許可を取ってからかけるという発想は、どこかまどろっこしく感じる。だが、小林は笑わなかった。
「毎回ではありません。でも、急ぎではない相談や、相手の作業を止める可能性がある内容なら、先に要点を共有した方が親切です。電話が悪いのではなく、電話を使う前提をそろえることが大事なんです」
そこへ早川翔太が通りかかった。秋山のスマホ画面をちらりと見て、事情を察したように笑う。
「電話って、相手の画面に突然割り込む感じなんですよね。チャットなら、自分のタイミングで見られるので助かります」
「でも、チャットだと細かいニュアンスが伝わらないこともあるだろう」
「あります。だから、チャットで要点を共有して、必要なら短く通話、がいいんじゃないですか。全部電話か、全部チャットかじゃなくて、使い分けです」
使い分け。
秋山はその言葉を胸の中で繰り返した。
電話は早い。だが、早さだけで選ぶものではない。相手の状況、緊急度、記録の必要性、関係者への共有範囲。連絡手段にも、目的に応じた選び方がある。
秋山は、近藤と相原にそれぞれ短くメッセージを送った。
「先ほどは急ぎでない内容を電話してすみません。今後は、まず要点と緊急度をチャットで送ります。必要な場合だけ通話相談させてください」
近藤からはすぐに「全然大丈夫です。内容先にもらえると助かります」と返ってきた。
相原からも「その形だと対応しやすいです」と短く返信があった。
秋山はスマホを置き、少しだけ椅子にもたれた。携帯なら出る。電話なら早い。そう思っていた。
だが、令和の職場では、相手の手元に端末があることと、今すぐ応答できることは同じではない。
電話は、相手の時間に直接入り込む道具である。だからこそ、緊急時には強い。声で確認した方がよい場面もある。けれど、その強さをいつも使えば、相手の集中や段取りを奪うことになる。
現世の課長だったころ、秋山は部下によく電話をしていた。メールを打つより早い。聞けば済む。そう思っていた。
だが、そのたびに部下は作業を止め、考えていた内容を中断し、急ぎかどうか分からないまま出ていたのかもしれない。
小林が、少しだけいたずらっぽく言った。
「秋山さん、ちなみにスマホです。携帯でも通じますけど」
秋山は苦笑した。
「そこもアップデート対象か」
「はい。でも、呼び方より大事なのは、相手の状態を想像してから連絡することです」
秋山はうなずき、確認シートの修正欄に目を戻した。次に気になる点を見つけたら、まずは要点を書く。急ぎかどうかを書く。必要なら、相手に時間をもらって電話する。
それは、昔の秋山にとっては遠回りに見える手順だった。だが、相手の集中を守り、記録を残し、必要なときだけ声で確認するための手順でもある。
秋山は、電話帳の画面を閉じた。
携帯なら出ると思っていた。
けれど、人は端末に縛られているわけではない。連絡は、相手を捕まえるためではなく、相手と仕事を進めるためにある。
秋山は、その違いをようやく少しだけ理解し始めていた。




