第13章 閑話:酒席での距離感――それが大事、でも近すぎ注意
きっかけは、井上陽斗の一言だった。
「秋山さんって、カラオケで何歌うんですか」
会社近くの居酒屋で、行ける人だけが集まった短い飲み会の終盤だった。
参加していたのは、秋山、小林美咲、近藤千翔、井上陽斗、城山純平の五人。相原愛奈は予定があり、早川翔太はオンラインの勉強会を理由に不参加だった。
秋山は、待ってましたとばかりに背筋を伸ばした。
「俺か。そうだな。やっぱり、最後は大事MANブラザーズだな」
井上が、箸を止めた。
「誰ですか、そのブラザーズ」
近藤が吹き出し、城山は真面目にスマホで検索しようとして、小林に「今は検索しなくて大丈夫です」と止められた。
秋山は信じられないという顔をした。
「知らないのか。『それが一番大事』だぞ。飲み会の締めに全員で歌うやつだろう」
「全員で歌う前提が、もうだいぶ近いです」
近藤のツッコミに、秋山は少しだけ不服そうな顔をした。
「いや、飲み会の流れとしては自然だろう。一軒目で軽く話して、二軒目でカラオケ。そこで一体感が出るんだよ」
井上がスマホを見ながら言った。
「一体感、今はプレイリスト共有くらいで足りますよ。あと、知らない曲を全員で歌うのは、なかなか修行です」
「修行って。名曲だぞ」
秋山が本気で抗議すると、小林が笑いをこらえながら言った。
「名曲かどうかと、全員が歌いたいかどうかは別ですね」
「じゃあ、今の若い人はカラオケに行ったら何を歌うんだ。流行りの曲か。最近の曲は早口すぎて、歌詞カードがあっても追いつかないぞ」
「そもそも歌わない人もいます」
近藤がさらりと言った。
「聞く専の人もいますし、途中で帰る人もいますし、採点されるのが苦手な人もいます。あと、勝手にハモられると困る人もいます」
秋山は、かつて二次会のカラオケで後輩の歌に全力でハモっていた自分を思い出した。良かれと思っていた。盛り上げているつもりだった。
だが、今の近藤の言い方からすると、あれはもしかすると、歌の合いの手ではなく、相手の見せ場への割り込みだったのかもしれない。
「じゃあ採点もだめなのか。点数が出た方が盛り上がるだろう」
「盛り上がる人もいますけど、仕事の人の前で点数化されるのがしんどい人もいます」
井上はそう言いながら、自分のスマホを軽く振った。
「今なら、カラオケ行くより、みんなで好きな動画とか曲を見せ合う方が気楽かもですね。歌うより、共有する感じです」
「共有、か。歌わないカラオケみたいなものか」
「それ、もうカラオケじゃないです」
近藤の即答に、テーブルが笑いに包まれた。秋山もつられて笑った。笑いながらも、どこかで理解し始めていた。自分が楽しいと思う形式が、全員にとって楽しいとは限らない。二次会という言葉には、人によって期待よりも負担の方が先に立つことがある。
それでも秋山の中には、まだ飲み会の終盤にふさわしい儀式が残っていた。
「じゃあ、カラオケがだめなら、締めのラーメンだな」
秋山が言うと、城山が目を丸くした。
「今からですか。もうけっこう食べましたよ」
「締めだから別腹だ。飲んだ後のラーメンは、社会人の句読点みたいなものだ」
「その句読点、胃にはけっこう重いです」
小林が静かに突っ込むと、井上が「深夜に炭水化物を追加する文化、強すぎますね」と笑った。近藤は「明日の朝、顔がむくむので私は遠慮します」と言い、城山は「地元では締めのラーメンありましたけど、次の日が休みのときだけでした」と現実的な補足をした。
秋山は苦笑した。
二次会、カラオケ、締めのラーメン。自分の中では、飲み会を楽しく終えるための自然な流れだった。
だが若手たちにとっては、それぞれ別の予定であり、体力であり、明日のコンディションであり、自分の時間をどう使うかという選択だった。
そのとき井上が、「せっかくなんで写真撮っていいですか」とスマホを構えた。
秋山は反射的にピースをしようとして、途中で手を止めた。
「それ、どこに載せるんだ」
「載せませんよ。自分たちの記念用です。載せるなら全員に確認します」
井上が当然のように答えたことで、秋山は少し安心した。
昔なら、写真はその場の思い出として撮るものだった。
だが今は、一枚の写真がSNSに載り、場所や時間や一緒にいた相手まで伝わってしまうことがある。楽しい記念と、見せる情報は違う。
小林も「撮る前に聞く、載せる前に聞く、ですね」と確認するように言った。
井上は「そこは大事です」とうなずき、近藤は「盛れてない写真を勝手に出されるのも普通に困ります」と付け加えた。
「盛れてるかどうかもコンプライアンスなのか」
秋山が真顔で言うと、近藤は「そこは個人の尊厳です」と真顔で返した。
小林は笑いながらも、たしかにそれも大事だと思った。
本人がどう見られたいかを確認せずに、場のノリだけで公開するのは、酒席の距離感としても、情報発信としても危うい。
会計を終え、店の外に出ると、夜風が頬に当たった。秋山は反射的に全員を見回した。
「じゃあ、家に着いたら……」
言いかけて、秋山は自分で止まった。小林が何も言わずにこちらを見ている。近藤も、井上も、城山も、笑ってはいるが続きを待っている。
「気をつけて帰ってください。返信は不要です」
秋山が言い直すと、井上が「進化してる」と小さくつぶやき、近藤が「返信不要まで付くの、だいぶ令和です」と笑った。城山も「それなら気楽です」とうなずいた。
秋山は、少しだけ照れくさくなった。心配する気持ちは消えていない。誰かが無事に帰ったか気になるのも、たぶん自分の性分だ。
けれど、その心配をそのまま相手に預けると、相手は返事をしなければならなくなる。気遣いのつもりが、最後のタスクになることもある。
「それが一番大事、なんですよね」
小林が、あえて秋山の好きな曲名に寄せて言った。
「でも、近すぎ注意、です」




