第6章 定時退社の衝撃――残業代よりタイパが大事
研修終了を知らせるチャイムが鳴った瞬間、会議室の空気がふっと軽くなった。
秋山は、その空気の変わり方にまず驚いた。
誰かが号令をかけたわけではない。橋本が「今日はここまでです」と告げただけで、同期たちは一斉に資料を閉じ、端末をしまい、椅子を静かに戻し始めた。
まるで、それが当然の動きであるかのようだった。
秋山だけが、少し遅れて資料に目を落とした。
まだ読み切れていないページがある。社内ポータルの説明、チャット利用ルール、コンプライアンス確認、研修後アンケート。
ざっと見ただけでも、今日中に確認しておくべきことはいくつもあるように思えた。
「これ、残って読んでいかないのか」
秋山の独り言に、近藤が振り返った。
「必要なものはあとで見られますよ。今日中に全部頭に入れなくても大丈夫だと思います」
「あとで、か」
秋山は、その言葉をうまく飲み込めなかった。
あとで見られる。
確かに、資料はクラウドに上がっている。社内ポータルにもリンクがある。紙の束を抱えて持ち帰らなくても、必要なときに開けばいい。
それは理屈としては分かる。
だが、初日に渡された資料をその日のうちに読み込まないという感覚が、秋山にはどうにも落ち着かなかった。
近藤は、手際よくノートパソコンを閉じ、椅子を机の下にしまった。その動きに迷いはない。資料を後で見直すことに、何の後ろめたさも感じていないようだった。
「近藤さんは、このあと何か予定があるのか」
「今日は帰って、入社初日のメモだけ整理します。あとは早めに寝ます。初日って、思ったより疲れますし」
早めに寝る。
秋山の中では、それは入社初日に出てくる言葉ではなかった。
新入社員なら、少しでも早く会社に慣れるために、同期より一歩先に進もうとする。
配属資料を読み込み、明日の質問を準備し、できれば上司や先輩に顔を覚えてもらう。
そういう積み重ねが、後々の差になる。少なくとも、秋山はそう思ってきた。
相原愛奈も端末をしまいながら言った。
「私は帰って、今日の内容をAIで要点整理してから確認します。会社のルールに触れない範囲で、自分用のメモにするだけですけど」
秋山は思わず顔を上げた。
「AIにまとめさせるのか。自分で整理しないと、頭に入らないんじゃないか」
相原は少しだけ首をかしげた。
「自分で考えないわけではないです。要点を出してもらって、自分が分かっていないところを確認する感じです。全部手作業でやることに時間を使うより、理解に時間を使いたいので」
「理解に時間を使う、か」
秋山は、相原の言葉を繰り返した。要領がいい、と言えばそれまでだ。だが、どこか引っかかる。
手を動かし、時間をかけ、苦労して覚えることにも意味があるはずだ。効率化ばかり考えていて、本当に仕事の土台が身につくのだろうか。
そう思いかけたとき、早川翔太が軽い調子で言った。
「自分はこのあと、オンラインの勉強会があるんで帰ります。会社の研修とは別で、興味ある分野のやつですけど」
「入社初日に、別の勉強会?」
秋山は思わず聞き返した。会社の研修が終わった直後に、さらに別の勉強会。帰るというから休むのかと思えば、そうでもないらしい。
早川は肩をすくめた。
「会社に残る必要はないかなって。家で受けられるし、録画もあるし。場所より、何を学ぶかの方が大事だと思うんですよね」
井上陽斗はスマホを見ながら笑った。
「自分は今日は何もしません。入社式の写真を家族に送って、ご飯食べて寝ます。初日から頑張りすぎても、明日顔が死ぬので」
城山純平は、少し申し訳なさそうに資料をしまいながら言った。
「僕は寮に戻って、今日聞いたことを少しだけ整理します。でも、会社に残るつもりはないです。明日ちゃんと聞ける状態で来る方がいいと思うので」
秋山は、同期たちの言葉を一つずつ聞きながら、胸の内で何度も首をかしげていた。
帰る理由が、誰もふざけていない。やる気がないわけでもない。むしろ、それぞれが自分なりに考えている。
近藤は休息とメモ整理、相原は効率的な復習、早川は社外の勉強、井上は家族への報告、城山は明日に備えること。どれも、聞けば一応筋は通っていた。
だが、筋が通っているからこそ、秋山は余計に落ち着かなかった。
入社初日。新人。配属初日。覚えることは山ほどある。なのに、誰も「残ってやります」と言わない。誰も「先輩に顔を出しておきます」と言わない。誰も「今日は帰っていいんですか」と不安そうに聞かない。
それどころか、帰ることにためらいがない。帰ることが、予定どおりの行動なのだ。
「秋山さん」
声をかけてきたのは、小林美咲だった。
秋山がまだ資料を開いたまま座っているのを見て、そっと近づいてきたらしい。
「今日はここまでで大丈夫です。残って確認したいことがあるなら止めませんが、会社に残らないと評価が下がる、みたいなことはありません」
「評価が下がるかどうかの話じゃないんです」
秋山は反射的にそう言っていた。
評価のために残りたいわけではない。少なくとも、自分ではそう思っている。
資料を読み込む。明日の準備をする。分からないことを減らす。それは、社会人として当然の姿勢だ。評価されるためではなく、仕事をちゃんとするために必要なことだ。
小林は、秋山の言葉をすぐには否定しなかった。少しだけ考える間を置いてから、静かにうなずいた。
「その気持ちは大事だと思います。ちゃんと準備したい、分からないままにしたくない、ということですよね」
秋山は少しだけ表情を緩めた。
小林が自分の考えを否定しなかったからだ。だが、続く言葉は、秋山の期待とは少し違っていた。
「ただ、残ることと、成長することは同じではありません。会社にいる時間が長いほど覚えられるわけでもありませんし、疲れた状態で資料を読んでも、明日ちゃんと質問できないかもしれません」
「でも、新人なら最初くらい多少無理してでも……」
言いかけて、秋山は口を閉じた。
自分がいま言おうとした言葉は、まさに昔の自分が部下に向けていた言葉だった。最初くらい無理しろ。若いうちは苦労しろ。多少きついくらいが成長する。
そう言ってきた記憶が、胸の奥から浮かび上がる。
小林は、その沈黙を責めなかった。
「無理をする経験が全部悪いとは思いません。でも、無理を前提にしないことも大事です。今日の同期たちは、遊びたいから帰るというより、明日もちゃんと動けるように、それぞれのやり方で整えようとしているんだと思います」
秋山は、会議室を見回した。
近藤はすでにバッグを肩にかけ、相原は端末の通知を確認している。早川はイヤホンを取り出し、井上は家族に送る写真を選んでいた。城山は机の上をきれいに整え、最後に深く一礼してから席を離れようとしている。
誰も、後ろめたそうではなかった。誰も、やる気がないようには見えなかった。ただ、それぞれが自分の一日を終える準備をしているだけだった。
秋山は、資料を閉じた。
完全に納得したわけではない。むしろ、胸の奥にはまだ反発が残っている。だが、この場で一人だけ残り続けることが、何かを証明するわけではないことだけは、うっすら分かった。
「分かりました。今日は帰ります」
小林は少しだけ安心したように笑った。
「はい。明日、分からなかったところを一緒に確認しましょう」
その言い方が、秋山にはまだ少し不思議だった。
一緒に確認する。自分で全部片づけるのでも、分からないことを丸投げするのでもない。橋本が言っていた「自力」と「相談」の間にある行動なのだろうか。
会社を出るころには、外はまだ明るかった。
秋山はビルの出口で立ち止まり、思わず腕時計を見た。定時を少し過ぎた程度。
こんな時間に会社を出る自分に、少し罪悪感のようなものがあった。
だが、同期たちはそれぞれ自然に駅へ向かい、家路につき、次の予定へ移っていく。
秋山だけが、まるで何か大事なものを置き忘れたような気持ちでビルを振り返った。
その夜、秋山は支給されたスマホを机に置き、自宅で資料を開いた。
今日中に全部確認しなくてもいい。そう言われたはずなのに、気づけばチャットの通知を一つずつ開き、資料のリンクを保存し、明日の予定を何度も確認していた。
通知が来るたびに、秋山の指は反射的に画面へ伸びる。
返さなくてもいい時間帯だと分かっていても、既読にしたなら何か返すべきではないかと思ってしまう。
気がつくと、研修メモの確認だけでなく、同期の投稿や小林からの案内にも、必要以上に早く反応していた。
翌朝、小林美咲がチャットの履歴を開いたとき、夜の間に並んだ秋山の反応の速さと量を見て、思わず目を細めることになる。
定時で帰ったはずの秋山の熱量は、会社の外でも、まだ止まっていなかった。




