第5章 同期 近藤の違和感――だいたい平成初期
小林美咲が近づくよりも先に、秋山は同期たちの輪の中で、すでに少し浮いていた。
本人にその自覚はない。むしろ秋山は、自分なりにかなりうまくやっているつもりだった。
初対面の同期たちに対して、必要以上に偉そうにしないよう気をつけている。
課長時代のように腕を組まない。相手の話を遮らない。まずは名前を覚える。社会人として当然の基本を、丁寧に実践しているつもりだった。
だが、近藤千翔から見ると、秋山は最初から少し不思議だった。
近藤は、初対面の人をすぐに決めつけるタイプではない。むしろ、相手の言葉の端に出る癖や、周囲への目線をしばらく観察してから距離を測る方だった。
だから、秋山に対しても最初は「落ち着いた人だな」くらいに思っていた。
けれど、数分話しただけで、その印象は少し変わった。
落ち着いているというより、慣れすぎている。
緊張していないというより、なぜか初日の流れを上から見ている。新入社員の輪の中にいるのに、どこか新人を見る側の人の空気がある。
「秋山さん、チャット入りました?」
近藤がそう聞くと、秋山はスマホの画面を見たまま眉間にしわを寄せた。
「入ったことは入ったんだけどな。この携帯、朝から通知が多すぎないか。メールならまだしも、チャットでこんなに来ると落ち着かないな」
近藤は一瞬だけ黙った。
携帯。スマホではなく、携帯。もちろん意味は通じる。自分の親世代や少し上の先輩なら、今でもそう呼ぶ人はいる。だが、同じ新入社員の口から自然に出てくると、少しだけ時代がずれる。
「まあ、最初は通知多いですよね。設定である程度まとめられますよ。あと、通信量も会社のWi-Fiならそんなに気にしなくて大丈夫です」
「通信量か。パケットがすぐ上限いくんじゃないかと思ってな」
「パケット……」
近藤は、思わず復唱してしまった。笑ってはいけない。笑うほどのことではない。意味は分かるし、昔はそう呼んでいたのだろう。
けれど、同じ新入社員の口から出てくると、どうしても頭の中に「平成初期」というタグが貼られてしまう。
「今はギガって言う人が多いかもです。でも、言いたいことは分かります」
近藤はできるだけ自然に言った。秋山は少しだけ驚いたように顔を上げた。
「ああ、そうか。ギガか。パケットって言わないのか」
「言わないこともないですけど、ちょっと……懐かしい感じはします」
近藤がそう言うと、早川翔太が横からのぞき込んだ。
「パケットって、親が言ってるやつだ」
井上陽斗が笑った。
「でも分かる。うちの父親もスマホのこと全部“携帯”って言う」
城山純平はまじめにうなずいた。
「地方だと、普通に言う人もいますよ。年上の人とか」
秋山は、同期たちが悪意なく話していることは分かった。だから怒るようなことではない。むしろ、場が和んでいるならいいことだ。
だが、自分の言葉が「親が言ってるやつ」と同じ棚に置かれたことには、少しだけ胸がざらついた。
「まあ、呼び方は何でもいいだろう。大事なのは、通知を見逃さないことだ。仕事の連絡は早く返す。これは基本だと思うぞ」
その瞬間、近藤はまた少し違和感を覚えた。
言っている内容は間違っていない。確かに仕事の連絡を放置するのはよくない。だが、秋山の言い方は、同期同士の会話というより、新人に注意する先輩社員のそれに近かった。
近藤は、相手を傷つけない言い方を探した。
「秋山さんって、なんか説明が上手いですね。新入社員というより、研修担当みたいです」
「研修担当?」
秋山は一瞬、素で聞き返した。褒められたようにも聞こえる。だが、近藤の表情には、ほんの少しだけ困ったような笑みが浮かんでいた。
「悪い意味じゃないです。ただ、同じ新人のはずなのに、言葉の置き方が落ち着きすぎてるというか。だいたい平成初期っぽいというか」
「平成初期……」
秋山はその言葉を、口の中で転がした。
平成初期。嫌な響きではない。むしろ自分にとっては、必死に働き、勢いがあり、何とかなると信じられた時代の匂いがする。
だが、近藤の言い方からすると、それは褒め言葉というより、少し遠いものを見るときの表現だった。
小林美咲は、少し離れたところからそのやり取りを見ていた。
近藤はうまい。真正面から否定せず、笑いに変えすぎず、でも違和感はきちんと言葉にしている。
小林が同じことを言えば、指導になってしまう。同期である近藤が言うから、秋山も受け止める余地がある。
一方で、小林は秋山の表情も見逃さなかった。
秋山は笑っているが、少しだけ傷ついている。自分が同期から“少し上の世代”として見られたことに、戸惑っているのだろう。
それでも、秋山は言い返さなかった。そこには、橋本の言葉を受けて、何かを飲み込もうとしている気配があった。
「平成初期っぽい、か。まあ、そう見えるなら仕方ないな」
秋山は苦笑した。
「でも、仕事の連絡を大事にするのは、時代が変わっても同じだろう」
「それはそうです」
近藤はすぐにうなずいた。
「ただ、今は“いつでも即レス”が正解じゃない場面もあります。集中して作業する時間もあるし、時間外なら急ぎかどうか分けた方がいいですし」
秋山の眉がまた動いた。
即レスが正解ではない。そんな考え方は、秋山の中にはあまりなかった。連絡が来たらすぐ返す。急ぎかどうかは、相手が決めることではなく、受けた側が先回りして判断する。そう思ってきた。
「時間外って言っても、必要なら返すだろう。仕事なんだから」
秋山がそう言うと、近藤だけでなく、早川と井上も少しだけ顔を見合わせた。
城山は何か言いかけて、口を閉じた。相原は画面から目を上げ、感情を出しすぎない声で言った。
「緊急なら返します。でも、緊急じゃないなら、翌営業日でいいと思います。そういう線引きがないと、ずっと仕事している感じになりませんか」
秋山は言葉を失った。
ずっと仕事している感じ。それは、秋山にとってはむしろ誇らしい状態だった。いつでも対応できる。誰よりも早く動ける。そういう人間が信頼されるのだと思っていた。
だが、同期たちの表情を見ると、それは共有された価値観ではなさそうだった。少なくとも、この場にいる若手たちは、仕事への責任と、自分の時間を守ることを対立するものとは考えていない。
秋山には、それがまだうまく飲み込めなかった。
「なるほどな。じゃあ、今日の研修が終わったら、みんな帰るのか」
秋山としては、何気なく聞いただけだった。入社初日なら、終わったあとに資料を読み返したり、明日の準備をしたり、同期で軽く情報交換をしたりするものだと思っていた。少なくとも、自分ならそうする。
近藤は少し首をかしげた。
「今日の予定はここまでですよね。私は帰ります。明日からまたちゃんとやります」
早川も「自分も帰ります。夜に予定あるので」と言い、井上は「初日から詰め込みすぎても続かないですよ」と笑った。城山も申し訳なさそうに、「復習はしますけど、会社には残らないと思います」と答えた。
秋山は、またしても言葉を失った。
新入社員なのに、帰る。入社初日なのに、帰る。いや、予定が終わったなら帰るのは当たり前なのかもしれない。
頭ではそう考えようとしたが、身体の奥に染みついた何かが、それを簡単には受け入れなかった。
小林は、秋山の表情を見ていた。
怒っているわけではない。けれど、明らかに衝撃を受けている。近藤の違和感は、秋山の言葉遣いだけではなかった。仕事に対する前提そのものが、少しずつずれている。
近藤は最後に、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「秋山さん、なんか面白いです。たぶん悪い人じゃないんですけど、言葉も考え方も、だいたい平成初期なんですよね」
悪い人じゃない。だいたい平成初期。
秋山はその二つの言葉を胸の中で反芻した。褒められたのか、注意されたのか分からない。
ただ一つ分かったのは、自分が思っている以上に、この時代では少しずれているということだった。
そして、そのずれは、まだ始まったばかりだった。
研修終了の時刻が近づくにつれ、秋山はさらに大きな衝撃を受けることになる。
同期たちは、本当に、何のためらいもなく帰るつもりだった。




