第4章 閑話:小林美咲の初任務――教育係、無理ゲー
小林美咲は、研修用の会議室を出たあとも、しばらく資料ファイルを閉じられずにいた。
画面には、今日配属された新入社員たちの名前が並んでいる。
近藤千翔、相原愛奈、早川翔太、井上陽斗、城山純平。そして、秋山昭人。
どの名前にも、入社前の面談メモや適性検査の簡単な所見が添えられている。だが、秋山の欄だけは、見れば見るほど違和感があった。
「落ち着いている」「受け答えが早い」「全体を見ている」。それだけなら、優秀な新入社員の特徴として説明できる。
けれど、今日の秋山は、それだけでは片づけられなかった。質問への反応が早いというより、最初から会議の構造を見ている。
話を聞いているというより、発言者を評価している。新人らしい緊張よりも、どこか管理職側の空気をまとっている。
小林は、思わず小さく息を吐いた。
「新入社員らしくない、というより……新入社員のふりをしている上司みたい」
口に出してから、小林は自分で苦笑した。そんな表現は、適性検査のコメント欄には書けない。
だが、正直な感想としてはそれが一番近かった。
秋山は新人として座っていた。けれど、目線だけはどこか上からだった。橋本の説明を聞きながら、ただ受け取るのではなく、頭の中で評価し、比較し、自分なりの正解を持とうとしていた。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。仕事を覚えるうえで、自分なりに考えることは大切だ。
小林自身も、新入社員のころは「何でも聞く前に一度は整理してから持ってきて」と何度も言われた。
入社七年目になった今なら、その意味も分かる。丸投げの質問は相手の時間を奪うし、自分の成長にもつながらない。
けれど、秋山の場合は少し違う。
分からないことを整理しているというより、分かったつもりで周囲を見ている。自分の中にある過去の正解を、今の職場にそのまま当てはめようとしている。
小林には、そう見えた。
「小林さん」
声をかけられて振り返ると、橋本令司が会議室の入口に立っていた。
片手には紙の資料ではなく、薄いタブレット端末。相変わらず、急がせるでもなく、待たせるでもない絶妙な間合いでそこにいる。
「秋山さんのこと、見てくれていましたね」
「見ていたというか……見ざるを得なかったというか」
小林は言葉を選んだ。
教育係として初日から特定の新入社員を問題視するのは避けたい。けれど、橋本も秋山に違和感を持っていることは明らかだった。何より、橋本は小林に「秋山さんを中心に見てほしい」と言った。偶然ではない。
「率直に言うと、普通の新入社員とは少し違います。落ち着いているのはいいことなんですが、落ち着き方が……何というか、上司っぽいです」
橋本は小さく笑った。「上司っぽい。いい表現ですね」
「冗談ではなくて、少し危ういと思いました。発言に悪気はないんです。でも、強い。自分の考えが先にあって、それを相手にぶつける感じがします。同期相手ならまだいいかもしれませんが、後輩や部下相手だと……相談しづらい空気になるかもしれません」
言ってから、小林ははっとした。
今の自分は秋山の教育係だ。だが、まるで管理職研修の振り返りコメントをしているような気分だった。相手は新入社員のはずなのに、評価軸が新人向けでは足りない。
橋本は否定も肯定もせず、静かにうなずいた。
「危うさはあります。ただ、強みもあります」
「強み、ですか」
「反応が早い。人の話の構造をつかむのも早い。責任感も強い。おそらく、困っている人がいたら放っておけないタイプです。あの強さは、向ける先を間違えると圧になります。でも、向け方を変えれば、周囲を支える力にもなります」
小林は黙って聞いた。
橋本の言葉は、秋山だけでなく、自分にも向けられているように感じた。
令和の職場では、強い言葉や長時間労働や根性論は、まず警戒される。小林自身もそうだ。古いと感じたものには、距離を置く。しんどそうな熱量は、無理に受け止めず、ミュートしたくなる。
けれど、橋本は「全部捨てればいいわけではない」と言った。
秋山の古さの中に、残すべきものがある。
そう言われても、小林にはまだ、それが何なのかはっきりとは見えない。
ただ、今日の秋山が、近藤の発言にも橋本の問いにも、真正面から反応していたことは覚えている。誤解も反発もあったが、逃げてはいなかった。
「私、正直ちょっと怖いです」
小林は、そう言ってから苦笑した。
「入社七年目で、教育係も初めてではありません。でも、秋山さんは……普通に教えれば済む相手じゃなさそうです。間違っているところを直すだけでは、多分うまくいかない気がします」
「だから、小林さんにお願いしました」
橋本の言葉に、小林は顔を上げた。
「小林さんは、今の若手の感覚を持っています。無理なものは無理だと言えるし、距離感も大切にできる。一方で、人を切り捨てるタイプではありません。秋山さんのような人を、ただ古いと片づけずに見られる可能性があると思っています」
期待されている。そう感じた瞬間、小林の肩に少し重さが乗った。
教育係という役割は、相手に仕事を教えるだけではない。相手がつまずく前に気づき、必要なら止め、時には本人が気づくまで待つ。しかも今回は、秋山という“妙に年季の入った新人”が相手だ。
「でも、私が秋山さんに振り回される可能性もありますよ」
「そのときは、私に相談してください」
橋本はさらりと言った。
「教育係が一人で抱え込む必要はありません」
小林は少し笑ってしまった。
さっき新入社員に話していたことを、そのまま自分に返された気がした。
自分で考えることと、一人で抱え込むことは違う。橋本の言葉は、新入社員だけでなく、教育係にも当てはまる。
会議室の外では、新入社員たちの声が聞こえ始めていた。
近藤が誰かに声をかけ、相原がチャットのグループを作り、早川がさっそく社内ポータルの便利機能を見つけたらしい。
井上は「これ、投稿したら怒られるかな」と笑い、城山は配布資料を丁寧にファイルへしまっている。
その輪の少し外側で、秋山はスマホを手にして眉をひそめていた。
画面を見ながら、隣の近藤に何かを尋ねている。小林には聞こえなかったが、口の動きだけで何となく分かった。
――この携帯、通知が多すぎないか。
小林は思わず天井を見上げた。
スマホを携帯と呼ぶところから始まるのか。
しかも、通知に対する反応がすでに少し強い。これは確かに、いきなり無理ゲーかもしれない。
それでも、小林は資料ファイルを閉じた。
逃げるつもりはなかった。
古さに戸惑い、圧に身構えながらも、その中にある強みを見つける。それが自分に与えられた初任務なのだと、ようやく腹が決まった。
「まずは、近藤さんたちと普通に話せるかどうか。そこからですね」
小林はそうつぶやき、秋山のいる輪へ歩き出した。
秋山が令和の新入社員として初めて同期たちと向き合う時間が、いよいよ始まろうとしていた。




