第3章 上司 橋本との出会い――同情するなら問いをくれ
橋本令司の言葉に、会議室の空気が少しだけやわらいだ。
「自分で考えることと、一人で抱え込むことは違います」
その一言は、秋山の耳に妙に残った。
きれいごとだ、と最初は思った。
若手を甘やかすための言葉だとも思った。
だが、橋本の声には、甘さとも厳しさとも違う、落ち着いた重みがあった。部下に寄り添うための優しい言葉というより、仕事で何度も痛い目を見てきた人間が、ようやくたどり着いた実感のように聞こえた。
秋山は腕を組みそうになって、慌てて手を膝の上に戻した。新入社員が初日の説明会で腕を組むのは、どう考えても態度が悪い。
課長だったときには、そんな新人を見れば「やる気はあるのか」と思っただろう。今の自分が、まさにその新人側にいる。
橋本は資料を一枚も開かず、ホワイトボードの前に立った。そこには部署名と、新入社員の名前がいくつか書かれている。
秋山、近藤、相原、早川、井上、城山。どれも聞き慣れない名前だが、秋山にはなぜか、その全員がこれから自分に何かを突きつけてくるような予感があった。
橋本は、ホワイトボードに書かれた名前の横に、短く一つの言葉を書き加えた。
問い。
「今日、皆さんに最初に渡したいのは、正解ではありません。問いです」
秋山は思わず眉を動かした。
答えではなく問い。
新入社員にまず必要なのは、会社のルール、部署の役割、仕事の進め方、報告のタイミング、そういう具体的な答えではないのか。
問いなど渡されても、仕事は進まない。少なくとも秋山が若いころ、上司から最初に渡されたのは問いではなく、「これをやれ」「この資料を読め」「この人について回れ」という指示だった。
橋本は新入社員たちを見回した。
「皆さんは、これから仕事を覚えていきます。もちろん、覚えるべき知識やルールはたくさんあります。ただし、それを覚えるだけでは、仕事はできるようになりません。大事なのは、自分が何を分かっていて、何を分かっていないのかを言葉にすることです」
近藤が小さくうなずいた。
相原は手元のタブレットに何かをメモしている。
早川はもう社内チャットの設定を確認しているようで、井上は周囲の反応をちらちら見ながら表情を読んでいる。
城山は背筋を伸ばし、まじめに橋本の言葉を聞いていた。
秋山だけが、どこか別の会議に紛れ込んだような気分で座っていた。自分は新入社員の列にいる。
だが、頭の中では課長時代の自分が腕を組み、橋本の話を評価している。いい話ではある。
だが、少し悠長だ。現場はもっと忙しい。問いを持つ前に、まず手を動かすべきだ。
「では、一つ質問です」
橋本が言った。
「仕事で分からないことが出てきたとき、皆さんはまずどうしますか」
少し沈黙があった。新入社員たちが互いに顔を見合わせる。
秋山は、内心で即答していた。自分で調べる。過去資料を見る。分かる人を探す。どうしても無理なら聞く。そんなもの、社会人なら当然だ。
近藤が手を挙げた。
「まず、自分で調べます。でも、時間を決めて、それでも分からなければ相談します」
橋本はうなずいた。
「いいですね。では、その“時間を決める”というのは、なぜ必要だと思いますか」
近藤は少し考えてから答えた。
「自分で考えることは大事だと思います。でも、時間をかけすぎると、周りの人の予定も遅らせてしまうからです。自分だけの問題じゃなくなるというか……」
「そのとおりです」
橋本は穏やかにうなずいた。
「仕事は一人で完結しません。だから、分からないことを抱え込むと、自分だけでなく、周囲の時間も止めてしまうことがあります」
秋山は、そこで思わず口を開いていた。
「でも、最初から人に聞く癖がつくのも問題じゃないですか。多少は自分で苦労しないと、仕事は身につかないと思います」
会議室が一瞬静かになった。
近藤が秋山の横顔を見た。
相原はタブレットに向けていた視線をゆっくり上げた。
早川はチャット画面を閉じ、井上は面白いものを見るように少し身を乗り出した。
城山だけが、まじめな顔でうなずいている。
橋本は、秋山を否定しなかった。
「秋山さんの言うことにも、大事な点があります。自分で考える力は必要です。苦労して覚えたことは、確かに身につきます」
秋山は少しだけ胸を張った。
そうだろう。やはり分かっている人間は分かっている。令和だ何だと言っても、仕事の基本は変わらない。
そう思った直後、橋本は続けた。
「ただ、その苦労が、本当に成長につながっているのか。それとも、ただ不安を一人で抱えているだけなのか。その見極めが大切です」
秋山は返す言葉を探した。
正しいことを言われた気がする。だが、素直に認めるのは癪だった。自分の若いころの苦労まで、ただの抱え込みだったと言われているようで、胸の奥がざらつく。
橋本はホワイトボードの「問い」の下に、さらに二つの言葉を書いた。
自力。
相談。
「この二つは、反対の言葉ではありません。自力で考えるからこそ、相談の質が上がる。相談するからこそ、自力で考える力も伸びる。どちらか一方ではなく、行き来できることが大切です」
秋山は、思わず自分の部下たちの顔を思い浮かべた。
現世で、何度も「まず自分で考えろ」と言った相手たち。相談に来た部下に、「それで君はどうしたいの」と詰めるように聞いていた自分。あれは問いだったのか。それとも、ただ相手を追い込む確認だったのか。
そのとき、会議室の後方の扉が静かに開いた。
「遅くなりました。新入社員教育担当の小林です」
入ってきたのは、秋山よりずっと若い女性社員だった。
落ち着いたネイビーのジャケットに、首から下げた社員証。表情は明るいが、軽さはない。会議室全体を一度見渡し、橋本に軽く会釈してから、新入社員たちの前に立った。
「小林美咲です。皆さんの教育係として、しばらく一緒に動きます。分からないこと、困ったこと、言いにくいことも含めて、早めに共有してください。もちろん、全部こちらが答えを出すわけではありません。一緒に整理します」
一緒に整理する。
秋山は、その言い方に少し引っかかった。
教えるでも、指示するでも、管理するでもない。整理する。最近の若手は、ずいぶん遠回しな言葉を使うものだと思った。だが、小林の声には不思議な芯があった。柔らかいが、曖昧ではない。
橋本が小林に向き直った。
「小林さん、秋山さんを中心に見てもらえますか」
秋山は思わず顔を上げた。
中心に見る。なぜ自分なのか。新入社員の中で、何か目立つことをしただろうか。
いや、した。さっき口を出した。課長時代の感覚で、つい反論した。その自覚はあった。
小林は秋山を見た。ほんの一瞬、表情が止まったように見えた。新入社員らしからぬ落ち着き。妙に年季の入った言葉選び。人の話を聞きながらも、どこか評価する側に立っている目線。小林はすぐに表情を戻したが、秋山はそのわずかな戸惑いを見逃さなかった。
「はい。承知しました」
小林は言った。
「秋山さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
秋山は丁寧に頭を下げたつもりだった。
だが、心の中では納得していなかった。自分が教育される側。しかも、若手の女性社員に見てもらう側。現世なら、自分が教育係を任命する立場だったはずだ。
橋本はそんな秋山の表情を読んだのか、少しだけ目を細めた。
「秋山さん。分からないことがあれば、小林さんに聞いてください。分かっていると思うことでも、今の職場では違う意味を持つことがあります」
「違う意味、ですか」
「はい。たとえば、熱意は大切です。でも、熱意が強すぎると、相手には圧に見えることがあります。責任感は大切です。でも、責任感で全部抱えると、周囲の成長機会を奪うこともあります」
秋山は何も言えなかった。
昨夜の警告文と同じ言葉が、また出てきたからだ。成長機会。圧。抱え込み。どれも、自分とは関係のない研修用語だと思っていた言葉だった。
橋本は最後に、小林へ向けて言った。
「小林さんも、秋山さんの古いところをただ止めるだけでなく、強みも見てください。昔のやり方が全部正しいわけではありません。でも、全部捨てればいいわけでもありません」
小林は一瞬だけ、難しい宿題を渡されたような顔をした。
それでもすぐに背筋を伸ばし、「分かりました」と答えた。
秋山は、そのやり取りを聞きながら、ようやく理解し始めていた。
自分はただ新入社員に戻されたのではない。自分の働き方を、近くで観察され、問い直され、学び直させられる場所に置かれたのだ。
「問いをくれ、か……」
秋山は心の中でつぶやいた。
本当は答えがほしい。今すぐ正解を示してほしい。だが、目の前の橋本も、小林美咲も、答えを押しつけるつもりはなさそうだった。
その日の研修が終わるころ、小林美咲は秋山の資料ファイルを見ながら、小さく息を吐いた。通知の数、質問の強さ、反応の速さ、そして新入社員らしからぬ落ち着き。どれも、彼女の想定を少しずつ超えていた。
「これ、いきなり無理ゲーでは……」




