第2章 新人類、再び。2026年度 大いなる新人 秋山
遠くで誰かが、拍手をしていた。
ぱちぱち、ぱちぱち。どこか軽やかで、妙に整った拍手の音。
会議で役員が入ってきたときの重たい拍手ではない。表彰式の拍手でもない。もっと若く、もっと前向きで、まだ誰も傷ついていないような音だった。
秋山昭人は、ゆっくりと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの天井ではなかった。
白いステージ、横長のスクリーン、整然と並んだ椅子。前方には「2026年度 入社式」と大きく表示されている。秋山は数秒間、その文字をただ見つめた。
「……入社式?」
声に出したつもりはなかったが、隣の席の青年がちらりとこちらを見た。
黒いスーツに、まだ新品の匂いが残っていそうな革靴。胸元には会社名の入った白いネームカードが下がっている。
そこには大きく「秋山 昭人」と印字されていた。
秋山は反射的に自分の胸元をつかんだ。ネームカードがある。しかも、その下には「新入社員」と書かれている。
夢だ。これは夢に決まっている。
さっきまで深夜のオフィスで企画書を直していた。パソコン画面に妙な警告が出て、再学習プログラムがどうとか、新入社員からやり直せとか、そんな馬鹿げた文字が表示された。そこまでは覚えている。
だが、夢にしては妙に現実感があった。
背筋を伸ばして座る新入社員たちの緊張。マイクを通した司会者の声。空調の弱い風。新品のスーツに包まれた自分の肩のこわばり。何より、手元に置かれた資料の文字が、やけにはっきり読める。
「新入社員代表挨拶、近藤千翔さん、お願いいたします」
司会の声に合わせて、一人の若い社員がすっと立ち上がった。
近藤千翔。名前を聞いても、もちろん知らない。だが、立ち姿に迷いがなかった。紙を読み上げるのではなく、タブレットに目を落としながら、落ち着いた声で話し始める。
「私たちは、変化の速い時代に入社しました。分からないことを一人で抱え込まず、互いに学び合いながら、社会に価値を出せる人材を目指します」
秋山は、思わず眉をひそめた。抱え込まない。学び合う。価値を出す。悪い言葉ではない。むしろ、今の会社が好んで使う言葉だ。
しかし、秋山の頭の中では別の言葉が浮かんでいた。まずは自分でやり切れ。分からないなら調べろ。先輩の背中を見ろ。価値は語るものではなく、数字で示すものだ。
代表挨拶が終わると、会場は再び拍手に包まれた。近藤が席に戻る途中、秋山の方を一瞬見て、軽く会釈した。
秋山は反射的に会釈を返したが、その動作が自分でもぎこちない。課長としての会釈ではなく、新人としての会釈。頭の下げ方一つまで、どこか身体に合っていない。
壇上では、社長が祝辞を述べていた。
挑戦、多様性、心理的安全性、コンプライアンス、生成AI。どれも聞き慣れた言葉だ。だが、管理職研修で聞いていたときとは響き方が違う。あのとき秋山は、部下に伝えるべき言葉として聞いていた。
今は違う。自分が受け取る側にいる。
「本日から皆さんは、社会人としての第一歩を踏み出します。分からないことを恥じる必要はありません。むしろ、分からないことをそのままにせず、周囲に相談できる人であってください」
秋山は心の中で小さく反発した。
社会人になったのなら、まずは自分で考えるべきだろう。相談ばかりしていては、いつまでたっても一人前になれない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。昨夜、黒い画面に表示された言葉がよみがえる。
――あなたの働き方は、周囲の成長機会、心理的安全性、および相談しやすい職場環境を阻害している可能性があります。
相談しやすい職場環境。そんなものは、できる人間が自分で作るものだ。秋山はそう思いかけて、口を閉じた。
今の自分は、新入社員だ。どれだけ課長だった記憶があっても、この場では誰も秋山を課長とは見ていない。
入社式が終わると、新入社員たちは部署ごとの集合場所へ移動するよう案内された。秋山も、人の流れに合わせて立ち上がった。周囲の会話が耳に入る。
「今日このあと、配属先の人と顔合わせあるらしいよ」
「え、緊張する。メンターっていうか教育係もつくんだよね」
「チャットで連絡来るって。携帯見た?」
その一言に、秋山は反射的にポケットへ手を入れた。携帯。
そう、携帯だ。取り出した端末は、見慣れたスマホだった。画面には会社支給のアプリが並び、通知がいくつも表示されている。
秋山は小さく舌打ちした。入社初日から、こんなに通知が来るのか。しかも、メールではなくチャットばかりだ。
「秋山さん、同じグループですよね?」
声をかけてきたのは、さきほど代表挨拶をしていた近藤だった。近くで見ると、落ち着いた印象の中にも、どこか相手を観察するような鋭さがある。
秋山は一瞬、課長として新人に接するときの口調になりかけた。
「ああ、そうみたいだ。よろしく。……近藤さん、だったかな」
「はい、近藤千翔です。よろしくお願いします。秋山さん、落ち着いてますね。緊張してないんですか?」
「まあ、こういう場は何度も経験しているからな」
言ってから、秋山はしまったと思った。入社式を何度も経験している新入社員など、普通はいない。近藤は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「すごいですね。もしかして、前世で社会人やってました?」
冗談のつもりなのだろう。だが、秋山は笑えなかった。前世どころか、つい数時間前まで課長だったのだ。いや、数時間前なのかどうかも分からない。日付も、時間も、自分の年齢すら曖昧だった。
移動先の会議室には、部署名のプレートが置かれていた。秋山が席につくと、前方に一人の男性が立った。
穏やかな表情だが、視線には不思議な落ち着きがある。年齢は秋山と同じくらいに見えた。
「皆さん、本日から配属先で一緒に働くことになります。橋本令司です。まずは、入社おめでとうございます」
橋本。
画面に表示された名前だ。補助観察者、上司、橋本令司。秋山は背筋が冷えるのを感じた。やはり、あれは単なる夢ではなかったのか。
橋本は新入社員たちを見渡し、続けた。
「最初に伝えておきたいのは、早く一人前になろうと焦らなくていい、ということです。分からないことを分からないと言えることも、社会人として大切な力です」
秋山はまた、胸の奥で反発した。分からないことを分からないと言う。確かに聞こえはいい。
だが、そればかりでは仕事が進まない。自分の若いころは、分からないことを先輩に聞く前に、まず資料を読み込み、過去のファイルを漁り、時には取引先の担当者に直接頭を下げてでも情報を取りに行った。そうやって覚えたのだ。
「もちろん、自分で考えることは大事です。ただ、自分で考えることと、一人で抱え込むことは違います」




