第19章 車を欲しがらない世代――セルシオよりサブスク
推し活の一件から数日後、秋山昭人は昼休みの休憩スペースで、またしても時代の差を思い知らされることになった。
きっかけは、週末の予定を話していた城山純平の一言だった。
「今度、地元から両親が来るんです。レンタカー借りようかと思っていたんですけど、カーシェアでも足りそうで」
秋山は、弁当のふたを閉じる手を止めた。
「車、持っていないのか」
城山は、少し不思議そうに首をかしげた。
「東京だと、なくてもあまり困らないです。駐車場も高いですし、必要なときだけ借りた方が楽かなと思って」
秋山は、思わず言葉を失った。車を持たない。必要なときだけ借りる。理屈としては分かる。
だが、秋山の中で車とは、ただの移動手段ではなかった。
若いころ、車を持つことは少し大人になることだった。
ローンを組み、休日に洗車し、カー用品店で芳香剤やフロアマットを選び、助手席に誰を乗せるかを少しだけ意識する。そういう面倒くささまで含めて、車だった。
「いや、でも、いつかは自分の車を持ちたいとか思わないのか。ほら、昔で言えば、セルシオとか、クラウンとか」
その瞬間、近藤千翔が飲み物を吹き出しそうになり、井上陽斗は箸を止めた。相原愛奈は、表示していたスケジュール画面からゆっくり顔を上げた。
「秋山さん」近藤が、慎重に言葉を選びながら言った。
「まず、セルシオが何かを検索してもいいですか」
「検索から入るのか」
秋山が思わず聞き返すと、井上がスマホをのぞき込みながら言った。
「高級車なんですね。画像見ました。なんか、役員送迎とか、ドラマで悪い人が後部座席に乗っていそうな雰囲気があります」
「悪い人じゃない。成功した大人だ」
秋山が真顔で言うと、近藤はスマホの画面を見ながら、さらに首をかしげた。
「成功した大人の象徴が、車だったんですね」
「だったんですね、じゃない。少なくとも、そういう空気はあった」
秋山は、自分でも少し熱が入っていることに気づいた。今の自分は同期の新入社員である。
しかも、車を買うどころか初任給もまだ出ていない立場だ。それなのに、口から出てくる車の話だけは、なぜか住宅ローン審査を経験した後のような重みを帯びていた。
井上が、楽しそうに言った。
「秋山さん、同期の昼休みの会話だと思って聞いていたら、急に中古車販売店のベテラン店長みたいになってます」
「店長じゃない。新入社員だ」
「そこは分かってます。でも、車の話になると人生経験の走行距離が急に伸びるんです」
近藤の言い方に、相原も小さく笑った。秋山は反論しかけたが、たしかに自分でも否定しきれなかった。セルシオ、クラウン、ローン、洗車、芳香剤。同期の話題としては、やや年季が入りすぎている。
城山が、少し申し訳なさそうに手を挙げた。
「僕、地元だと車はかなり必要でした。駅まで遠いですし、買い物も病院も車がないと不便です。でも、東京に来てからは、毎日使うわけじゃないので、持つより借りる方が現実的かなと思っています」
秋山は、その言葉に少し意表を突かれた。若者が車に興味を失った、という単純な話ではないらしい。必要な地域では必要だし、使う人は使う。
ただ、生活環境や目的に合わない所有を、無理に目指さないだけなのだ。
相原が続けた。
「車を持つと、駐車場代、保険、税金、車検、ガソリン代がかかりますよね。使う頻度が少ないなら、その分を旅行や勉強、趣味に回したい人もいると思います」
「車検か。あれは確かに重い。タイヤも高いし、ちょっとこだわるとホイールまで欲しくなる」
秋山がそう言うと、井上がすぐに反応した。
「ホイールまで行くと、もう移動手段じゃなくて育成ゲームですね」
「育成ゲームではない。愛着だ」
言いながら、秋山は若いころの休日を思い出していた。朝早く起きて洗車場へ行き、泡を流し、ワックスをかけ、ダッシュボードを拭く。車内には少し甘い芳香剤の匂いがして、カセットやCDを選びながらドライブのルートを考える。助手席に地図を置き、渋滞情報をラジオで聞き、目的地に着く前から少しだけ楽しかった。
あの頃、車は移動のためだけの箱ではなかった。自分の部屋を外へ連れ出すようなものだった。お気に入りの音楽、少し背伸びした香り、小銭を入れた灰皿、地図、洗車道具。車内には、自分が大人になっていく途中の気分が詰まっていた。
「なるほど」近藤が、少し真面目な顔になった。
「秋山さんにとって車って、移動手段というより、ちょっとした自分の部屋だったんですね」
「自分の部屋、か」
秋山は少し驚いた。若手に茶化されると思っていたが、近藤の言葉は思いのほか的を射ていた。
車を持つことは、単に便利だからではなく、自分の時間、自分の場所、自分の背伸びを持つことでもあったのだ。
小林美咲が、弁当の箸を置いて言った。
「持つこと自体が悪いわけではないと思います。車が好きな人、必要な地域に住んでいる人、家族の事情で必要な人もいます。ただ、車を持つことが一人前の証とか、成功の条件だと決めつけると、今の価値観とは少しずれるのかもしれません」
「成功の条件……」
秋山は、若いころの自分を思い返した。
いい車に乗ることは、仕事を頑張る理由の一つだった。同期より早く成績を上げ、ボーナスで頭金を用意し、少し無理をしてでも上の車に乗る。エンジン音やシートの質感以上に、その車に乗れる自分になったことがうれしかった。
だが、それは秋山にとっての物語であって、全員にとっての物語ではない。
今の同期たちは、車に乗らないことで怠けているわけではない。節約しているだけでもない。自分の生活に合う形で、移動手段やお金や時間を選んでいる。
早川翔太が、横から少し身を乗り出した。
「自分は、車を買うなら、そのお金で別の経験に使いたいです。旅行でもいいし、資格の勉強でもいいし、ガジェットでもいい。所有するより、選択肢を増やしたい感じです」
「選択肢を増やす、か。昔は、所有することで選択肢が増えると思っていたんだけどな」
「今は、持たないことで身軽になる選択肢もあります」
相原の言葉に、秋山はゆっくりうなずいた。所有すれば自由になる。そう信じていた時代があった。だが、所有には維持が伴う。駐車場、保険、点検、税金。車だけではない。大きなものを持つほど、自由になる面もあれば、縛られる面もある。
井上が、検索結果を見ながらふと思いついたように言った。
「セルシオって、今で言うと何なんですかね。高スペックなスマホを毎年買うとか、ゲーミングPCを組むとか、そういう感じですか」
「たぶん、近いようで違う。あれは、持っているだけで少し背筋が伸びるものだった」
「じゃあ、秋山さんにとっては、車がプロフィール画像みたいなものだったんですね。外から見える自己紹介というか」
井上の現代語訳に、秋山は思わず黙った。
プロフィール画像。たしかに、見せたい自分を映すもの、という意味では近いのかもしれない。だが、愛車をプロフィール画像と言われると、少しだけ軽くなりすぎる気もした。
「軽い言い方だが、まあ、外から見える自己紹介という意味では合っているかもしれない」
小林は、秋山と同期たちのやり取りを見ながら、静かにまとめた。
「大事なのは、車を持つ人と持たない人のどちらが正しいかではなく、その人の生活や価値観に合っているかだと思います。車が必要な人もいるし、車が好きな人もいる。逆に、必要なときだけ借りる方が自然な人もいます」
「車だけではないです。家、服、時計、飲み会、働き方も同じかもしれません。昔は、持つことや参加することが一人前の形に見えたものでも、今は人によって選び方が違います」
秋山は、小林の言葉を聞きながら、自分の中に残っていた「一人前」の形を思い浮かべた。
いい車に乗る。いい店を知っている。後輩におごる。遅くまで働ける。休日も仕事のことを考える。どれも、自分にとっては努力の証だった。
だが、それを他人にも求めた瞬間、努力の証は、誰かにとっての重荷になる。
「俺は、車を欲しがらないことを、少し寂しいと思っていたのかもしれない」
秋山がそう言うと、城山は少し笑った。
「車に憧れる人もいると思いますよ。僕も、地元に戻るなら欲しいです。ただ、東京で持つなら、今はまだ優先順位が低いです」
「優先順位、か。昔は、欲しいものに生活を合わせる感じだった。今は、生活に合わせて欲しいものを選ぶんだな」
「それ、かなり近いと思います」
近藤がうなずいた。秋山は、弁当の残りを口に運びながら、自分が少しずつ古い価値観を捨てているのではなく、別の見方を増やしているのだと感じた。
車への憧れは消えない。洗車場の水しぶきも、カセットから流れる曲も、夜の首都高に乗る前の高揚感も、自分にとっては大切な記憶だ。
けれど、その記憶を、若手の正解にする必要はない。城山には城山の生活があり、近藤には近藤の時間の使い方があり、相原には相原の合理性がある。井上には、きっと車より先に更新したいプロフィール画像があるのだろう。
「でも、いつか機会があったら、車で遠出する良さも知ってほしいな」
秋山がそう言うと、近藤がすぐに指を立てた。
「それはいいです。ただし、集合時間が朝五時で、行き先が“任せろ”だけだったら、たぶん参加率は低いです」
「昔は、朝早く出るからこそ道が空いていてだな」
「ほら、またベテラン新人が出ました」
井上のツッコミに、昼休みのテーブルが笑いに包まれた。秋山も、今度は素直に笑えた。自分の懐かしさが相手に通じないことは、少し寂しい。だが、通じないからこそ、説明し直す面白さもある。
その日の研修後、秋山は自分のメモに短く書いた。
持つことが大人の証だった時代もある。持たないことが自分らしさを守る選択になる時代もある。
その一文を書いてから、秋山は少しだけ目を細めた。セルシオも、クラウンも、洗車場のワックスの匂いも、自分にとっては眩しい記憶だ。
だが、今の若手にとっての眩しさは、別の場所にある。推しの配信かもしれない。学び直しの講座かもしれない。身軽に移動できるカーシェアかもしれない。
車を持つことを否定する必要はない。
だが、車を持たない選択を、向上心がないとか、夢がないとか決めつける必要もない。大切なのは、その人の暮らしと価値観に合っているかどうかだ。
秋山はスマホで、近くのカーシェアのステーションを検索してみた。
思ったよりも数が多い。料金も時間単位で、予約も簡単そうだった。昔なら、車とはキーをポケットに入れて初めて自分のものだった。今は、必要なときに必要な分だけ使う自由もある。
秋山は画面を閉じ、少しだけ笑った。セルシオよりサブスク。
最初はずいぶん味気ない言葉に聞こえた。けれど、その中には、所有に縛られず、自分に必要なものを選び取る自由があるのかもしれない。
秋山はまだ、いつか自分の手でハンドルを握り、好きな音楽を流しながら遠くへ走る気持ちよさを忘れてはいない。けれど、その気持ちを若手に押しつける必要はない。車も、働き方も、人生の選び方も、所有することだけが正解ではない。
必要なときに、必要な形で、自分らしく使う。
そんな価値観もまた、令和の職場で学ぶべき新しい地図なのだと思った。




