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第18章 推し活で帰る同期――見たい、聞きたい、歌いたい

タイパの演習から数日後、秋山昭人は、またしても定時前の会議室で小さな衝撃を受けていた。


その日は、午後から続いていたグループ演習のまとめの日だった。


情報管理、チャット作法、タイパを意識した発表。秋山としては、だいぶ令和の職場にも慣れてきたつもりだった。


少なくとも、何でも電話しない。何でも紙で配らない。何でも長く説明しない。ここ数日の自分は、かなり健闘している。


ところが、終了予定時刻の十分前、近藤千翔が小林美咲に声をかけた。


「すみません。今日、定時で上がっても大丈夫ですか。夜に推しの配信があって、リアタイしたいので」


秋山は、反射的に顔を上げた。


推し。配信。リアタイ。


言葉の意味は、何となく分かる。好きな歌手や俳優、アイドル、キャラクターを応援することだろう。リアタイは、リアルタイムで見ることだ。


だが、それを理由に定時で帰るという感覚が、秋山にはまだすぐには飲み込めなかった。


「推しの配信……それは、今日じゃないとだめなのか」


言った瞬間、近藤だけでなく、相原愛奈と井上陽斗まで同時にこちらを見た。責める目ではない。だが、そこにははっきりと「それを聞くんですね」という空気があった。


近藤は少しだけ笑いながら答えた。


「アーカイブは残るかもしれないですけど、リアタイで見るのが大事なんです。コメント欄の空気とか、その瞬間に一緒に見ている感じとか。あと、今日の発表は終わっていますし、残作業は明日の午前でも間に合います」


秋山は、近藤の最後の一文にかろうじて救われた。残作業は明日で間に合う。


つまり、仕事を放り出しているわけではない。予定と作業を分けたうえで、定時後の時間を自分の大切なものに使おうとしている。


それでも秋山の中には、昔ながらの声が残っていた。


新人なら、少し残ってでも今日中に片づけるべきではないか。配信は録画で見ればいいのではないか。趣味を仕事より優先するのは、まだ早いのではないか。

小林は、その空気を読み取ったように言った。


「近藤さん、今日の担当分は終わっていますね。明日の午前に回してよい作業も確認済みです。であれば、定時で上がって大丈夫です」


「ありがとうございます」


近藤はそう言って、手際よくファイルを閉じた。その迷いのなさに、秋山はまた少し胸の奥をつつかれた。


仕事を終えたから帰る。大切な予定があるから帰る。本人にとっては、その二つは矛盾していないのだ。


井上が軽い調子で言った。


「今日の配信、初出し情報あるかもしれないやつですよね。リアタイ逃すと、あとでタイムラインにネタバレ流れてきますし」


「ネタバレ……仕事よりも怖いのか」


「怖いというより、悔しいです」


近藤は、バッグにノートパソコンをしまいながら言った。


「その瞬間に一緒に盛り上がっていた人たちの温度とか、コメントの流れとか、あとから見ると少し違うんです。録画で見れば内容は分かります。でも、その時間にいた感じは残らないというか」


秋山は、その言葉をすぐには笑えなかった。録画で見れば内容は分かる。でも、その時間にいた感じは残らない。どこかで聞いたような感覚だった。


ふと、秋山の頭の中に、若いころの夜がよみがえった。


テレビの前に正座するほどではないが、番組表に赤丸をつけ、録画予約の時間を何度も確認した夜。


小室ファミリーの新曲が初披露される音楽番組。ランキングの一位が発表される瞬間。翌日、学校や職場で「あれ見た?」と話すために、その時間に見ておくことが大事だった。


ビデオデッキの録画予約は、今思えばちょっとした賭けだった。


開始時刻を一分間違えれば冒頭が切れる。野球中継が延長すれば、肝心なサビのところで録画が終わる。標準で撮るか三倍で撮るかを迷い、上書きしてはいけないテープには、太いマジックでタイトルを書いた。


若いころの秋山にとって、それはただの娯楽ではなかった。次の日の会話に参加するための、ほとんど社会的インフラだった。


「……そうか。俺たちで言えば、テレビ初披露を見逃すようなものか」


秋山がそう言った瞬間、近藤、井上、相原の三人が、ほぼ同時に止まった。


「秋山さん」近藤が、笑いをこらえながら言った。


「まず確認なんですけど、その“俺たち”って、誰と誰のことですか」


「え」


秋山はそこで初めて、自分が完全に同期目線を飛び越えていたことに気づいた。


今の自分は、2026年度の新入社員である。


同期たちと同じ席に座り、同じ研修を受け、同じ課題に取り組んでいる。にもかかわらず、口から出た「俺たち」は、どう考えても新入社員の世代ではなかった。


井上が、少し楽しそうに手を挙げた。


「すみません。同期の会話だと思って聞いてたら、急にうちの親世代の回想録が始まりました」


相原も、画面から目を上げて真顔で続けた。


「テレビ初披露という言葉は分かります。でも、それを“俺たち”と言われると、秋山さんの中に何人分の社会人経験が入っているのか、少し不安になります」


「いや、そこは……一般論としてだな」


秋山は慌てて言い繕った。


だが、言い繕えば言い繕うほど、新入社員らしさから遠ざかっていく気がした。入社一年目のはずの同期が、録画予約の失敗やテレビ初披露を実感たっぷりに語る。冷静に考えれば、かなり不自然である。


近藤は、助け舟を出すように笑った。


「でも、言いたいことはたぶん近いです。今で言えば、配信の初回発表とか、ライブの同時視聴とか、タイムラインでみんなが一斉に反応している瞬間を逃す感じです。後から内容は見られても、その場の空気には戻れないというか」


井上がさらに付け加えた。


「テレビ初披露は、秋山さんの中の謎のベテラン新人が出てきた感じでしたけど、たぶん“その瞬間に立ち会いたい”って意味では合ってます」


相原も静かにうなずいた。


「推し活って、単に好きなものを見るだけではないんです。仕事や学校とは別の場所で、自分の気持ちを整えたり、同じものが好きな人とつながったりする時間でもあります。もちろん、仕事を放り出していいわけではないですけど」


秋山は、近藤の机の上を見た。


資料は閉じられ、共有ファイルの担当欄には完了のチェックが入っている。明日に回す作業も、メモとして残されている。今日の仕事を途中で投げ出しているわけではない。むしろ、帰るために段取りを整えている。


秋山は、自分が課長だったころの部下を思い出した。


定時前に「今日は予定がありまして」と言った若手に、どこかで「大した予定ではないのだろう」と思っていたかもしれない。


飲み会、ライブ、家族との食事、趣味のイベント。自分にとって重要度が分からないものを、仕事より軽いものとして見ていた可能性がある。


だが、人の大切なものは、外から見ても重さが分からない。


昔の秋山にとって、小室ファミリーの新曲や月曜夜のドラマは、ただの娯楽ではなかった。翌日の会話、気分転換、自分の青春の一部だった。


ならば、近藤にとっての推し活も、単に「あとで見ればいいもの」ではないのかもしれない。


小林美咲が、秋山の表情を見て言った。


「大事なのは、仕事の責任を果たしたうえで、自分の時間も大切にすることだと思います。近藤さんは今日の担当分を終えて、明日に回すことも共有しています。だから、予定を理由に帰ること自体は問題ではありません」


「逆に、予定があると言い出せない空気になる方が危ないです。誰かが言い出せない職場は、結局、みんなが無理を隠す職場になってしまいます」


秋山は、その言葉に小さくうなずいた。予定があると言えること。帰りたいと言えること。今日はここまでと区切れること。それは、仕事に不真面目だからではなく、明日もちゃんと働くための準備でもある。


近藤は、少し照れくさそうに笑った。


「もちろん、仕事が終わっていないのに毎回帰ります、は違うと思います。でも、ちゃんと終わらせて、明日に回すことも共有して、それで自分の予定に行くのは、悪いことじゃないと思っています」


「悪いことではない、か」


秋山は、昔の自分なら口にしていたであろう言葉を思い浮かべた。


新人のうちは仕事優先だ。趣味は慣れてからでいい。若いうちは多少無理をしてでも会社に合わせるべきだ。どれも、自分の中では常識だった。


だが、その常識は、誰かの大切なものを軽く扱う言葉にもなり得る。


そのとき、城山純平が少し遠慮がちに口を開いた。


「僕も、地元の祭りの日は早く帰りたいです。年に一度しかないので。都会の人から見たら普通の地域行事かもしれませんけど、自分にとっては家族や友人とつながる大事な日です」


秋山は、城山の言葉にもはっとした。


推し活、地元の祭り、家族との時間、勉強会、休息。仕事以外の予定といっても、その中身は人によってまったく違う。そして、どれが尊くてどれが軽いかを、上司や先輩が勝手に決めることはできない。


「そう考えると、推し活も祭りも、俺の時代のテレビ初披露も、形が違うだけで同じなのかもしれないな」


秋山がそう言うと、近藤が笑った。


「秋山さんの小室ファミリーと私の推しが同じ箱に入るの、ちょっと面白いです」


「箱に入れるなら、せめてCDケースにしてくれ」


「CDケースって、今はグッズ収納に使う人も少ないかもしれないです」


井上の何気ない一言に、秋山はまた少し遠い目をした。


CDケースすら懐かしアイテムになっている。ジャケットを開き、歌詞カードを眺め、帯を捨てるか取っておくかで迷った時間も、若手にはほとんど伝わらないのかもしれない。


それでも、伝わらないからこそ面白い。秋山のCDケースも、近藤の配信コメント欄も、城山の地元の祭りも、相原の静かな一人時間も、それぞれの人を支える大切なものなのだ。


定時になると、近藤は立ち上がった。


「では、お先に失礼します。明日の午前に、残りの確認を入れます」


秋山は、今度は「本当に帰るのか」とは言わなかった。


「お疲れさま。リアタイ、楽しんでください」


言ってから、秋山は少しだけ照れくさくなった。自分が推し活という言葉を自然に口にする日が来るとは思わなかった。だが、近藤はうれしそうに笑った。


「ありがとうございます。ネタバレ踏まないように全力で帰ります」


「全力で帰るのはいいが、駅では走るなよ」


「そこは学校の先生みたいな心配ですね。でも助かります」


近藤が会議室を出ると、秋山はその背中を見送った。


以前なら、定時で帰る新人の背中に、少し物足りなさを感じただろう。


だが今は、違っていた。


今日やるべきことを終え、明日の段取りを共有し、自分の大切な時間へ向かう。その背中は、仕事に不真面目な人の背中ではなかった。


小林が、秋山の横で資料を閉じた。


「秋山さん、今の声かけ、よかったと思います」


「そうですか。正直、まだ少し不思議ではあります。推しの配信で帰る、というのは」


「不思議だと思っても、軽く扱わないことが大事なんだと思います。自分には分からない大切なものが、相手にはあるかもしれない。そこを想像できるだけで、言い方は変わります」


秋山は、ゆっくりとうなずいた。


相手の予定をすべて理解する必要はない。推しの名前を覚え、配信の仕組みを熟知し、タイムラインの空気まで分かる必要もない。


ただ、それが相手にとって大切かもしれないと想像し、仕事の責任が果たされているなら尊重する。それだけで、職場の空気は少し変わる。


その夜、秋山は自宅で何となく音楽番組の動画を探し、小室ファミリーの懐かしい曲名を眺めた。


イントロを聞いただけで、当時の空気がよみがえる。友人との会話、カラオケ、CDショップの棚、歌詞カードの匂い。


仕事とは関係ないはずのものが、確かに自分を支えていた。


秋山は、ノートの端に短く書いた。


仕事以外に大切なものがある人は、仕事に不真面目な人ではない。


その一文を書いてから、秋山は少し苦笑した。小室ファミリーより推しが大事。最初に聞いたときは、ずいぶん軽い言葉に思えた。


だが、今は少し違う。人は誰でも、自分の時間の中に、自分を戻す場所を持っている。そこを守れるからこそ、また仕事にも戻ってこられる。


秋山はスマホを伏せ、明日の予定を確認した。


近藤はきっと、今ごろ配信を見ている。コメント欄の流れに笑い、ネタバレを避け、誰かと同じ瞬間を共有しているのだろう。


秋山にはまだ、その熱量の全部は分からない。けれど、自分にもかつて、録画予約に命をかけた夜があった。


分からないから否定するのではなく、分からないまま尊重する。


秋山は、令和の職場でまた一つ、新しい距離感を覚え始めていた。


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