いただきますは嘘じゃない
実習室の扉を閉め、再び廊下に出る。
今の俺にできるのは、お使いを一つずつこなして、あいつと俺の正解を拾い集めることだけだ。ただ靭が、笑って飯を食えるように。
四十八願に教えられた名前を、頭の中で何度も呟く。そこに行けば、土として生きるための本当の手触りがわかるかもしれない。俺は迷いのない足取りで、別棟の温室へ向かった。
中に入ると蒸せ返るような緑の中に、一人の男子生徒がベンチに腰かけていた。こいつが、全潜り型を飼い慣らしているという、苗床側の生き残りらしい。
「四十八願から話を聞いた。お前、全潜りの経験者なんだろ」
俺の言葉に、そいつはゆっくりと顔を上げた。……様子がおかしい。目が合っているはずなのに視線が俺の顔を通り越して、眼球の奥の血管の走り方でも確認しているみたいに彷徨ってる。
「君が特級の樫くんだね」
声を聞いた瞬間、背筋に氷を突っ込まれたような悪寒が走った。学生服を着たガワから発せられる粘つくような大人の声音。
そいつが立ち上がると、首筋の皮膚がピクリと不自然に波打った。皮の下で太い紐みたいな何かがズルズル這い回ってる。
「おかげで手間が省けたよ。今の宿主は、少し型が古くて飽きていたところだったんだ」
「お前……真田か」
「いかにも。今の私は君が探している『正解』そのものだよ。……おいで、樫くん。君のどの隙間に潜り込めば一番気持ちよく感染できるか。僕が直接、再構築してあげよう」
真田が、糸を引くような笑みを浮かべて一歩踏み出す。服の奥、皮の下で何かが蠢くベチャッとした音が温室に響いた。
「何が正解だ。苗床が意識飛ばして乗っ取られてんじゃ意味ねぇだろ。話になんねぇ」
「帰るのかい? 構わないけれど……全潜りは、一歩間違えれば君の心臓を物理的に握りつぶして終わるよ。再構築の理論を知らないまま始めれば、パートナーは苗床の肉の隙間で窒息し、犬死にすることになる」
俺は吐き捨てて踵を返したが、その言葉に、ドアノブにかけた手が止まった。
――靭が、死ぬ?
「僕なら、君の血管の一本一本を道に組み替えてあげられる。君が最高の棺桶になれるようにね。僕の手解きがあれば――」
振り向くと、真田は操り人形みたいなぎこちない足取りで近づいてきた。獲物を見定めたヘビのような、嫌に勝ち誇った顔。俺はその顔を正面から見据え、一歩、ドカッと踏み込み返した。
塀の中にいた頃、ナメてかかってくる相手の鼻先を潰す時に身体が覚えた、最短の距離。そろそろ夕食の時間だ。俺はただ、早く話を進めたかっただけだ。
「……ッ」
「さっきからグダグダうるせぇな。俺は苗床に話を聞きに来たんだよ。そいつの代わりに説明してくれんのか? なら、御託はいいから結論から言え」
距離を詰めた瞬間、真田の瞳孔が限界まで開いた。さっきまで獲物を食う気満々だったはずの中身が、俺の胸ぐらを掴める距離に入った途端、引き攣った音を立てて喉を鳴らしている。
「何だよ」
「い、いや……その……」
真田の額から、じっとりと脂汗が噴き出している。顔面は白を通り越して土気色になり、唇がガチガチと小刻みに震え出した。
返答を待ったが、身体を寄せるたびに、あいつは引きつった呼吸を繰り返している。
「悪ぃ。急かしすぎたか?」
少しだけ姿勢を崩し、肩の力を抜いてやった。それでも真田の震えは止まらない。
……なんだ、こいつ。今までに見てきたビビリの連中でも、もっとマシな反応を返してきたぞ。
高等な寄生種だか何だか知らねぇが。こいつの本能とかいうやつは、理屈より先に、俺という存在をマズい食い物だと判断したらしい。
「別に怖がらせる気はねぇよ。さっさと言え。お前だって、そのガワを長持ちさせたいんだろ?」
「……ヒッ、ひっ……わ、分かった。言えばいいんだろ。僕を殴って得するものなんて何もないはずだ。……君にとってもね」
震える手で、真田がスマホを差し出してくる。……こんなんで、よく今まで先公なんてやれてるな。
「これさえあれば、靭の負担は減るんだな?」
俺がスマホを受け取ると、真田は安心したのか、椅子から滑り落ちるようにして床にへたり込んだ。
差し出された画面の数字とグラフを見つめ、眉間に深い皺を刻む。何度見直しても、どう俺の身体の変化に繋がるのか、さっぱりわからねぇ。
「俺が見ても意味ねぇな。専門用語ばっかで、どうすりゃいいのか一つも分からねぇ。もっと簡単なのねぇのか。先生なんだろ。生徒がわかるように説明しろよ」
画面を突き返すと、真田は引きつった笑いを浮かべ、震える声で答えた。
「で、では……そ、そのスマホを持って、パートナーに見せればいい。彼なら、そのデータから身体の構造を解析できるだろう……」
「あいつ、これ視えねぇだろ。データ渡してどうすんだよ」
「読み上げてやればいいだろうが! ……とにかく、その内容を彼に伝えろ」
真田は、なんだか言葉が通じない相手を前にして、どうしようもなく疲れ果てているように見えた。
「そうか、その手があったな」
納得して拳を手のひらに打ち付けると、真田の端末をポケットにねじ込んだ。奴はまだ肩をガチガチに強張らせている。悪いことしたな、と思って俺は肩をポンポンと叩いた。ついでに、なんとなくその頭もくしゃりと撫でてやる。
「悪いな、先生。助かったよ」
「行け。早くここから出てってくれ……」
俺は一礼して温室を後にした。振り返ると、真田は膝から崩れ落ち、震える手で自分の頭を抑えていた。ただの苗床に、なんであんなにビビってたのか、俺が知る由もなかった。
搬入口の横を通り過ぎる時、鼻をつく独特の臭いがした。外の工場から運び込まれてきたばかりの、合成肥料の山。街灯の薄暗い光の下で肥料袋に印された字を見つめる。首筋には、あれと似たような番号が焼印として居座っている。
以前の俺なら、あの袋の中身と入れ替わって、さっさと工場のラインに逆戻りしたかったはずだ。ただの番号として消費されて消えるのが、一番マシな終わり方だと信じていたから。
だけど、今の俺の手には、家畜には必要ないスマホなんて代物がある。苗床の分際で、中身を読もうなんて笑っちまうな。
「死に損なったんだ。なら、勝手にさせてもらう」
専門用語だらけの画面をただスクロールした。土なりに靭に渡す正解を、一つでも多くこの手で毟り取る。
「あいつに読み聞かせるために、まずは俺が読めるようにならなきゃな」
真田からぶんどったスマホの中身に、全部ふりがなを振っちまえばいい。その単純な答えにたどり着いたとき、ようやく俺は、自分のやるべきことを一つ見つけた手応えを感じていた。
俺は宿舎のドアに手をかけた。その向こう側では、靭がいつものように、俺の運んでくる食事を待っているはずだ。
「樫くん? どうしたの、急に」
声のする方へ、靭がパッと顔を向けた。
本当は、俺がどんな顔をして立っているかなんて見えていないくせに。音の出どころから俺の居場所に当たりをつけて、目が合っているフリをして機嫌を伺っている。
キョトンと見つめてくるその瞳は、今日まで見てきた「おいしい」と笑う顔と何一つ変わらない。寄生種なりにあいつは、俺を安心させるために、普通の人間のフリをずっと絶やさずに続けているのだろう。
「いや。お前も大概、嘘つきな奴だなと思ってよ」
俺は少しだけ力を込めて、靭の頭を撫でた。あいつは俺の鼻先あたりをじっと見つめたまま、唇を小さく尖らせた。
「フィー……、フィー……」
細く、長く、空気を震わせる透き通った音。いつか俺が点字を打ち間違えた時にあいつが教えた、鳥の鳴き声だ。
「んだよ。お前、まだそれ引っ張ってんのかよ」
思わず口角が上がるのを喉の奥で押し殺した。靭は悪戯がバレた子供みたいに、柔らかく笑う。
「だって、樫くんが僕にくれたものだよ。嘘つきな僕には、ちょうどいいでしょ?」
「飯のときに口笛吹くなよ。行儀悪ぃだろ」
謎の説教を垂れながら、強引に靭を椅子に座らせた。視線が見えていないのをいいことに、自分の顔が無様に緩んでいるのを放置したまま。
「ほら、手元。左にアスパラと玉ねぎの炒めもの、右は竜田揚げだとよ。焦げた土みてぇな色してる。味噌汁はいつも通り奥に置いたぞ」
箸で、皿の端にある太いアスパラを一本持ち上げた。艶のある緑色。
「このアスパラすげえぞ。お前から生える根っこより、よっぽど立派なんじゃねぇか?」
わざと意地悪く笑ってやると、靭は心外だと言わんばかりに唇を尖らせた。
「これより立派になる予定だもん。あと、アスパラは根っこじゃなくて茎だよ」
「そうかよ。これ食って、せいぜいひょろひょろの根っこでも太くしとけ」
あいつの体温がゆっくりと俺の腕を伝って、心臓に溜まっていく気がした。喉の奥が熱い。この胸のあたりをじりじり焼くような、不快な重みが何なのか、俺には分からない。
ただ、あいつがくだらねぇ嘘をついて笑ってる、この馬鹿げた一瞬だけは。たとえ何が作り物だとしても、俺だけは本物として扱ってやらなきゃいけない気がした。
今のところ、靭の本当の栄養は、俺の知らないところで食ってる合成肥料だ。俺の同類だったはずの、名前も知らねぇ奴らの死骸や、不適合者の成れ果て。俺だって適性が低ければ、今頃はこの園にいる誰かの胃に収まる肥料になってたはずだ。
(悪ぃな、お前ら)
せめて、こいつの血肉になってやってくれ。俺は心の中で、かつての同類だったはずの肥料に、ぶっきらぼうに詫びを入れる。これが俺なりの、このクソみたいな世界での食事の作法だ。
「いただきます」
「えっ、もう食べてるのに?」
「別にいいだろ。黙って食え」
いつか俺自身の血液が、本当の意味であいつの食事になるその日まで。せめて、食卓に並ぶ奴らの死を無下にはしたくなかった。




