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君を咲かせるためなら蝿になれる

 西日が差し込む放課後の教室の窓際、僕は机に突っ伏して奥歯を鳴らしていた。


 昼休みに見かけた転入生。樫くんの気配が呼び水になったんだ。胃の底で、重苦しい腐肉の塊が蠢いている。せり上がってくる熱で、喉元がヒリヒリと焼けついていた。


「ひ、っ……だめだ、出ちゃだめだ……」


 手のひらに走る静脈を見るのが怖かった。今にもそこから赤い糸が這い出して、この教室を、クラスメイト全員をドロドロの苗床に変えてしまう幻覚が、現実に変わってしまいそうで。


「よしよし。お利口さんにしてたな、志新しあら


 背後から腕が伸びてきた。拒絶を許さない強引な力で抱きとめられる。ふわりと、香水の匂いが鼻をくすぐった。年相応の男の子がつける、爽やかで少し背伸びした匂い。僕とは違う、まともな人間の匂い。


 ――和良かずらくんだ。


「怖いんやな。あの転入生クンが、志新をそうさせたんやろ?」


 耳元で、甘い毒のような声が囁く。


「はは、嫉妬してまうわ。あんな殺気、毎日のように浴びせられたら、君の中に眠ってる才能が目覚めてまうのも無理ないな。……僕なんかより、あっちの方がずっとええ土やし」


 昼休みに僕は、樫くんに叫んだ。近づかないで、と。あの転入生が放つ殺気は、僕の中の化け物をこれ以上ないほどに刺激する。あんなに活きのいい苗床が目の前に現れたら、僕は僕でいられなくなる。恐怖で、僕は飲み込まれそうになっていた。


「和良くん……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


「謝らんでええよ、ほんまのことやし。でも、君のペアは僕や。根を張る場所は選べんでも、花を散らす風の向きだけは、自分で決めてええねんで」


 和良くんの瞳には、僕には計り知れないほど、どす黒い情熱が宿っている。

ふと、ジャージのポケットに重みを感じた。彼の手が、何かをねじ込んでいる。


「これ、何……?」


「御守みたいなもんやな」


 和良くんは笑う。中身は教えてくれない。

 けれど、ポケットの中の何かが僕の本能を嫌な感じにざわつかせた。

 身をよじるとジャージの布越しに、尖った感触が肌を刺す。硬い繊維みたいな。それが何かを確かめちゃいけない気がする。


「僕は、誰も傷つけたくない……。ただ、静かに枯れたいんだ」


「こんな美人さんが誰にも見られんと枯れるなんて、勿体ないわ。そんなん、僕が許さへん。君は、この枯れた世界でたった一つの、僕の光恩や」


 和良くんの指先が、ジャージの襟元を強く掴む。ぐい、と顔を寄せられた。僕を狂信的に崇拝する黒い瞳の中に、ただ青ざめることしかできない無力な自分が映っていた。


「君が咲かせる花は、えらい人らが有難がる慈悲の神樹なんかよりずっと、気高くて、切実で……僕らの怒りそのものや。綺麗やろな。赤うて、大きうて」


「……ねえ、和良くん。変な音がする」


 彼のうっとりした声を遮って、僕は呟いた。耳の奥で、嫌な音が響いている。


 ――ミシッ。


 自分の体の中。骨か肉が、内側からむりやり動かされているような音。


「君の本能が目を覚ます音やね」


 和良くんは、怯える僕をさらに強く抱きしめた。


「怖がりぃや。怖がれば怖がるほど、君はますます美しうなって、力強うなるんやから」


 ――ミシッ。……ミシッ。ミシッ。


 音が速くなる。節々が痛い。和良くんの言う命が完成する場所に行けば、僕はもう、僕じゃなくなる。


「もうすぐや。一緒に行こな。全部、塗りつぶしてまおう。君を化物扱いした連中も、僕を不適合者扱いした親も教団も……全部、志新の美しい赤に……」



「なぁ、志新、愛してるよ」



 僕は、和良くんの腕の中で、力なく項垂れる。怖い。愛していると言いながら、この人は僕を地獄に連れて行こうとしている。


 けれど、僕という怪物の手綱を、これほどまでに嬉しそうに握ってくれるのは、世界中で彼だけだった。


 視界が、ぐらりと揺れる。

 和良くんの顔が近づいたと思った瞬間、唇に、逃げ場のない熱が押し当てられた。



 ――っ。



 思考が真っ白に弾ける。何度も深く、むさぼるような口づけ。鼻先をかすめる香水の匂いと、彼の熱い吐息が喉の奥まで流れ込んできて、内側から焼かれるみたいに熱い。


「……か、ず……くん……っ」


 ジャージ越しに回された腕に力がこもるたび、根が和良くんの唇へ伸びて、自分が壊れていくのがわかった。


 でも、不思議と怖くない。もう戻らなくていい。この熱の中に溶けてしまえば、全部終わるんだ。


「和良くんが、僕を理由にしてくれるなら……」


 瞳が熱に浮かされたように濁り始める。愛と呼ぶには暴力的で、信頼と言い切るには孤独な寄生。それでも、これが僕たちの全力。


「僕、なんにでもなるよ。全部、真っ赤な花に変えてあげる」


「その言葉待ってたで。……行こか。僕らの納得を、完成させに。まずは退学届を叩きつけに行かなあかんな」


 和良くんは僕の喉元に優しく指を這わせた。皮膚の下、血管に沿ってうねる寄生糸の微かな動きを愛おしむかのように。


 僕らは誰もいない職員室に忍びこんだ。和良くんが机に叩きつけたのは、ノートの切れ端に殴り書きしただけの、およそ手続きとは呼べない代物だ。


 勿論先生に許可なんて取ってないし、明日誰かがこれを見てどう思うかなんて、もう知ったことじゃない。たぶんこれが、僕たちの人間としての最期だ。


「脱走しよか。もう、誰も僕らを止められへん」


 和良くんの指が楽しげに僕の手に食い込んだ。


 ――あとのことは、よく覚えていない。


 和良くんの手に引かれ、夕闇が迫る街をどうやって歩いたのか。すれ違う人々が、ジャージの袖から覗く僕の異形を指さして悲鳴を上げた気もするけど、和良くんは一度も手を離さなかった。


「もうすぐや。もうすぐ、全部終わるからな」


 和良くんの優しい声だけが、濁流のような意識の中で唯一のともしびだった。気づけば、僕たちは山裾にある、彼が疎んじる教団施設の門前に立っていた。


 和良くんが扉を蹴り破った衝撃で、錆びた鉄と、それから……嗅ぎ覚えのある腐肉の臭いが肺の奥までなだれ込んできた。


 視界が真っ赤に明滅する。ジャージの袖を突き破って、血管のような蔦が僕の腕を這い回り、芽吹こうとのたうち回っている。


「あははは……っ! 元、神童の帰還やで。おのれら、目ぇひん剥いて見ぃや。特大の光恩、授けたるわ」


 隣で和良くんが叫んでいるけれど、僕にはもう、それが彼の喉から出た声なのかさえ分からない。喉から溢れた赤黒い糸が聖堂を埋め尽くしていく。和良くんは膝をつき、壊れゆく脳で恍惚と笑った。


「おかげさまの光恩は、熨斗つけて返したげなあかんねん。クソ教祖も平伏して、ぶっ壊れながら有難がるはずや」

 

 和良くんの手が、僕の頬を滑り、せり上がってきた巨大な赤に触れた。肉厚で、湿っていて、ドクドクと僕の命を吸い上げている五枚の花弁。 


「……ああ、すごいわ、志新。ほんまに、綺麗や……」


 うっとりと熱を帯びた指先が、花弁の表面を、まるで宝物を扱うような手つきでなぞる。指が触れるたび、脳の芯を直接かき回されるような、ヤバい快感が走った。自分の神経が、自分じゃない花にまで伸びて、和良くんの熱をそのまま受け取っちゃうんだ。


「こんなに身体熱うして。……僕を食べるために咲いてくれたんやな」


 和良くんが僕の首筋に顔を埋める。その瞬間、彼の背中からも、服を引き裂く不吉な音が響いた。


 ……ミシッ。


 僕と同じ、赤黒い蔦が彼の肌を突き破って、僕の根っこと絡みついてくる。和良くんは血を吐きながら、嬉しそうに目を細めた。


「あかんわ。もう、僕が蝿やる体力も残ってへん……志新に、全部持っていかれてまうな。一緒や……全部ここで一つに混……完成させ……」


 彼の胸元からも、重い花弁がドロリと広がっていく。僕の香りと混ざり合って、空気はむせ返るような死の臭いでいっぱいになった。


 視界が、真っ赤に塗りつぶされる。

 和良くんの命が僕に吸い込まれていくたび、冷たくなっていく彼の重みを感じる。血管と蔦が縫い合わされて、彼は僕を生かすための苗床へと変わっていく。


「……っ」


 声を出す前に、喉の奥まで花弁に塞がれた。苦しくて死にそうなのに、和良くんの指先がずっと僕の核を優しく触り続けているから、怖くなかった。


 和良くんの瞳から光が消えて、身体が僕の蔦の中にゆっくり沈んでいく。息絶えるまで、彼は満足そうに笑っていた。


 僕という怪物の手綱を握ったまま、彼は自分の命まで、僕の赤に全部捧げきったんだ。その瞬間、脳がドロドロに溶けるような快感が襲ってきた。


 目の前で、和良くんが教祖と呼んでいた男が口を押さえてのけぞっている。男の指の間から、肉厚でグロテスクな花弁が、瑞々しい音を立てて溢れ出した。断末魔さえ、喉の奥で開花する僕の一部に押しつぶされていく。


(これが和良くんの言ってた納得なんだ)


 それからの数日間は、あんまり覚えていない。指先から放たれた寄生糸が、信徒たちの傷口に吸い込まれていく光景だけが、スローモーションで見えた。


 誰も悲鳴を上げない。みんな、恍惚とした顔で、中身を丁寧に食いつぶされるのを受け入れていた。


 ある朝、誰かの背中がドロリと裂けて、五枚の花弁が咲いた。聖堂も人も、この村の全部が、僕の一部に書き換えられていく。


「和良くん。君の願った通り、全部真っ赤になって壊れたよ。 でも、君がいなくなったら、僕は誰の言うことを聞いて震えればいいの?」


 気づけば僕の足はもう、地面と一体化して動かなくなっていた。植物の本能が、遠くから近づいてくる熱を察知して激しくのたうち回る。


 オレンジ色の光が揺れた。大人たちが持つ火炎放射器が僕を、和良くんを、この地獄を全部消しに来てくれる。


(これでいいんだ。全部灰になれば、和良くんも僕も)


 誰が誰を殺したのかなんて、もう誰にも分からない。炎の熱を頬に感じながら、僕は和良くんの亡骸を抱きしめながら、初めて震えるのをやめた。

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