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間違いだらけの点字に羽が生えた

 点筆の握り方は、いつの間にか自己流になっていた。文字を覚えるのに必死すぎて、正しい持ち方なんてすっかり適当になってた。


 指の隙間に柄を埋めこんで、拳を握りこむようにして固定する。手近にある尖ったものを掴むときと同じグリップ。狙いを定めて、垂直に最短距離で。これなら紙を刺してるっていう確かな手応えが手に残る。


「……ふ、っ」


 無意識に、喉の奥から息が漏れた。裏側から刺していくから、一箇所でも間違えたら意味が通じない。集中すればするほど、視界から教室のざわつきが消えていく。残るのは、目の前の白い紙と、これから穴を開けるつもりの点の場所だけだ。


「……ぷ、く、り、む。よし、できた」


 書き終えた紙を指先でなぞってみる。紙の端から端まで、俺が知ってる白いものをひたすら詰め込んでやった。


────────────────


くも ⠩⠾


ゆき ⠬⠣


ぎゅうにゅう ⠐⠣⠇⠉⠇⠉⠬


ホイップクリーム ⠮⠃⠭⠩⠓⠃⠽


────────────────


 本と見比べたって、俺の目にはまだ、どれも同じようなデコボコの塊だけど、針を刺した数だけは裏切らねえはずだ。


 紙の端が少しささくれてる。指先に触れるわずかな違和感が、言葉の邪魔になる気がした。気になって、無意識に腰のあたりを探る。指が勝手に、一番取り出しやすい場所に差してあったカッターを選び取ってた。


 ――カチッ。


 親指一本で、薄い鋼を押し出す。スライドの重みや、内部のバネが弾ける振動が血の巡りと重なるみたいに、滑らかにしっくりくる。


 乾いた金属音が教室に響いた瞬間、窓際の席に座ってた奴の肩がビクッと跳ねた。挨拶した時にビビり散らかしてた奴だ。名前は確か……古江(ふるえ)。寝てるところを起こしちまったか。


 机に指を押し当てて、刃を滑らせる。


(笑えねえな)


 俺は、カッターの刃に反射する光をぼんやり見つめた。ここに来た初日に、職員の机から護身用にくすねたブツが、本来の使い道に戻ってる。その事実が、牙を抜かれた家畜に成り下がっていくみたいで苦笑いが漏れた。


 カッターをしまうと、さっきの衝撃で古江の文房具が落ちてるのが見えた。


「おい、落としたぞ」


 声をかけると、古江は椅子をガタンと鳴らして飛び退いた。


「やめて、来ないで。じゃないと僕、芽が鳴って――」


 ただ落とし物を渡そうとしただけなのに。あいつは、自分の喉を掻きむしるように押さえながら何か言いかけて、青い顔で教室から逃げていった。


(流石にビビリすぎだろ)


 古江がいなくなった前の席を見つめる。その隣、古江のペアの密葉(みつば)の席は、飯にでも出かけたのか空席のままだ。主のいない机の周りには、場違いに爽やかなシトラスの香水の匂いが漂ってる。


「シアちゃんの飛び退き方、見た? あれ、オリンピックでてっぺん取れるレベルじゃないっすか」


 教室に、今度は別の声が響き始めた。少し離れた席から、五代の軽い声。あだ名で呼んでるが、確か古江のことだったはずだ。


「あまり古江君をからかってやるな。きっとあの子の脳内で、『後ろから刺される』か『隣から心中される』か『前から剪定される』かの三択が始まっちゃったのさ」


 眞継が軽口で応じている。整ったツラの下は、ヨレヨレのジャージ姿。便所サンダルを履いた足をだらしなく投げ出している。この教室の主らしいが、中身は完全に干物だ。


 俺が必死に点字を打ってた音が、古江にはそんな風に聞こえてたのかよ。


「クソみたいな乙女ゲーっすね。シアちゃん男だけど。てか、俺のは美容鋏っすよ? 全寄生種のコを俺の手で激マブにするために存在してるんすから」


「それと、僕のカップラーメンのタレ袋を切るために存在してるね。五代目、その鋏ちょっと貸して?」


「眞継パイセン、五代目呼び気に入りすぎっしょ。てか俺、パイセンの苗床認定なら七代目じゃん」


 シャキッ、と金属が噛み合う音がした。美容鋏だか知らんが、どう見ても剪定用のデカい鋏だ。あんなのをラーメンの袋を切るのに使う方がどうかしてる。普通に切りにくいだろ。


「使ったらちゃんと拭いてよ?」


「いちいち煩いな、あちっ」


 眞継が無駄にキレのある動きでカップ麺をかき混ぜている。密葉の香水の匂いが、あっけなくジャンクなニンニクと油の匂いに消されていく。


「まあ、樫みたいに一点集中で紙をぶち抜く殺気出してる奴が後ろにいたら、コマンドは『逃げる』一択っしょ」


「はは、名前がカタギなのに堅気じゃないって? 彼は苗床にしては活きがいいからね」


「眞継パイセン、笑いのツボ低すぎない?」


「悪かったな、堅気じゃなくて」


 俺が口を挟むと、五代が椅子を回してニカッと笑った。その横でズズズッ、と麺をすする音がする。眞継は手元のカップ麺に夢中だ。満足げに喉を鳴らしている。


「本職きた。聞いてたんなら、もっと早く絡みにこようよ。水くさいっすね」


「嫌でも聞こえるだろ。殺気なんて出した覚えねぇよ。点字を打ってただけだ」


「いやいや、あの『ドスッ』て音、完全に殺る気スイッチ入ってたじゃん。普通、そんな音出ないっしょ。で、その点字はツボちゃん用?」


 ツボちゃん。靭のことか。五代のあだ名のセンスに内心で呆れながら、俺は手元の紙を見つめたまま答えた。


「お前ら、清澄とつき合い長いのか?」


「全然。この前、顔見たばかりっすよ。でも一度会ったらダチっしょ!このハンコ注射みたいなやつで言葉を伝えるの、なんか神秘的っすね……」


 五代は、俺が打った点字を物珍しそうに眺めている。


「本当にそうだな」


 五代の言葉には、妙に納得できた。ろくに言葉を知らねえ俺が、針で紙を刺して、それが伝わる文字になる。確かに神秘的って言われりゃ、その通りだ。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまで、俺はあいつらのとりとめもない会話を、聞き流しながら点字を打っていた。この刺した紙の感触だけが、今の俺にとって確かな、靭へ繋がる道だ。


 授業が終わり、夕暮れが廊下に伸びる頃。俺は大事に持っていた紙を手に、靭のいる部屋の扉を開けた。


「靭、これ。手土産だ」


────────────────

⠣⠜⠹⠷⠀ ⠎⠀ ⠅⠡⠵

きよすみ の なかま

────────────────


 俺が差し出した紙を靭がそっと掴む。あいつの指が、俺の打った文字をなぞり始めた。


「きよすみ の なかま。……ふふ、くもが僕の仲間なの?」


 途端、靭の肩が微かに震えた。


「ぷ、ふふっ」


「あ?」


「あはは! 樫くん、これっ、なに? 『ぎにうにうゆ』って……それに、ここ」


 靭が笑っている。 俺の書いたデタラメな言葉をなぞりながら、あいつは今までで一番明るい声をあげた。


「んだよ。間違い探しさせてるんじゃねえぞ」


 靭の指が、俺が『うさぎ』と打ったつもりの場所で止まる。


「悪い。うさぎって打とうとしたけど、途中で訳わかんなくなってよ。変な言葉になってんだろ。……間違いだ」


 正直に白状して、紙を取り上げようとしたが、靭は紙を離さないで不思議そうに首を傾げた。


「うそ(⠉⠺)は、白いの?」


「はあ? 嘘に色なんてねえだろ」


 ……いや、色はあるか。たとえ話だろうが。俺が今ついたのは、真っ赤な嘘じゃなくて、無様な白い嘘かもな。自嘲ぎみに鼻を鳴らすと、靭はふふ、と柔らかく笑って、俺の腕をそっと引き寄せた。


「うそって鳥の色を教えてくれたのかと思った。僕、鳴き声を聴かせてもらったことがある。冬になると、山の方で鳴くんだって」


「 そんな名前の鳥がマジでいるのかよ」


「僕は冬は活動が落ちちゃうから、本物を聴けたことがないんだ。でも、こんな風に鳴くんだって」


 靭が唇を尖らせて、細く長く空気を震わせる。


「フィー……、フィー……」


 寂しくて、どこか透き通ったその音は、確かに誰かが遠くで口笛を吹いてるみたいだった。


 実際、それが合ってるのかどうか俺には分からねえ。でも、あいつの喉が小さく震えるたびに、見えないはずの鳥の羽ばたきが、部屋の中に広がっていく気がした。


「へえ、そんな風に鳴くのか」


 俺は、ただその音を聴いていた。俺が針で突き立てたデタラメな突起が、あいつの口笛でたった今、本物の鳥に変わった。


「なんだ。じゃあ、間違いじゃねえな」


 俺は靭の頭に手を置いて半ば乱暴に撫で回した。


「ここにいたな。真っ白な、うそが」


「僕、ウツボなのに樫くんに鳥にされちゃった」


「いいんだよ、これで正解だ。お前が鳴かせてくれたんだからな」


 俺が笑うと、靭も誇らしげに口笛を繰り返した。俺がついた不格好な嘘は、この瞬間、この部屋だけの真実になった。


「……ねぇ、樫くん。なんだか急に、空気が甘くなった気がしない? 研究所で、お花が病気になって腐っちゃった時みたいな、重たい匂い」


 靭が不安げに鼻を動かす。俺は窓の外に目を向けたが、静まり返った木々が見えるだけだ。


「いや、何も。お前の気のせいじゃねぇか」


「ううん。これだけ匂いが濃いと、……もしかしたら、寄生種の生徒さんかもしれない。抑制剤が効かなくなった時に出る、独特な匂いなんだ。すごく、苦しそうな匂いがする」


 目が視えないあいつは、俺が気づかないほど遠くで、誰かの命が腐っていく予兆を鋭い嗅覚で捉えてるのだろう。靭の言葉に、俺は無意識に立ち上がっていた。ガタンと椅子が鳴り、膝に置いていた点字の練習用紙が扇状に散らばって床に落ちる。


「もしかして前の席のチキン野郎か? そう言えばあいつ、昼休みから様子がおかしかった。心配なら、俺がちょっと様子を見に行ってきてやるよ。場所はわかんねえが、誰かに聞けば――」


「ダメ。樫くん、行っちゃダメだよ。それは、剪定師の先生がやるべきこと。僕たち生徒は、絶対に部屋を出ちゃいけない」


 毅然とした、迷いのない口調で引き留められる。靭の、光の宿らない瞳が真っ直ぐに俺を捉えている気がした。


「寄生種が匂いを出すほど不安定な時、苗床の人間が近づくのは自殺行為だよ。彼らは本能で、器を探してるんだ」


「……お前、そんな声出せたんだな」


 俺は毒気を抜かれて、ゆっくりと腰を下ろした。下手な看守の怒鳴り声より、ずっと有無を言わせない響きがある。


「詳しい奴の注意は聞かなきゃな」


 俺は、あいつを安心させるように、左腕に刻んだ点字の突起をそっとなぞらせた。


「野蒜にメッセージだけは入れとくか。あいつなら、その剪定師だか何だかを手配できるだろ。あとは先公に任せる」


 支給のスマホを取り出し、簡潔に『教室の空気がおかしい。生徒が暴走しているかもしれないと清澄が言っていた』とだけ打って送信ボタンを押した。画面から放たれる青白い光が、靭の白い肌を照らす。


「もう寝ろ。明日の朝ごはん、また俺に教えさせるんだろ」


 俺は床に散らばった点字の紙を一枚ずつ拾い集めて、机の端に整えた。靭はまだ、遠くの匂いを探るようにしていたが、俺がもう一度頭を撫でると、安心したように小さく頷いた。


「おやすみなさい、樫くん」


 二人であてがわれたベッドに潜り込むと、靭の規則正しい寝息がすぐに聞こえてきた。あいつが掴んでいた俺のシャツの力が、ゆっくりと抜けていく。


 俺が送った一通のメッセージは、数分もしないうちに既読になった。窓の外、遠くの闇を眺める。靭が言った甘い匂いの正体は、ここからは分からない。


 その剪定とやらがどのくらい大変なものなのか、まるで想像がつかなかった。ただ、明日になればあの騒がしい教室の、誰かの席が空になる。そんな予感が俺の脳をかすめ、胸底へ静かに沈んでいった。

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