クソみたいな俺を一粒の言葉に刻む
コツ、コツ、と硬い音が廊下に響く。白杖の先が床を叩く一定の音。靭がいる合図だ。
あいつは杖を左右に振りながら、見えない糸を手繰り寄せようとするみたいに、危なっかしい足取りで歩いている。俺は白い廊下を進むあいつの背中を、少し離れたところからただ眺めていた。
「……あ」
小さな声が漏れた。靭が杖を止めて、誰かに向かって手を伸ばす。相手は通りがかった職員だった。職員は無言で身をかわして、足早に去っていく。あいつは、自分が無視されたことさえ分かっていない。
「樫くん?」
白杖を突いた後、何もない空間に手を泳がせながら心細そうに呟いたのを見た瞬間、胸の奥が焼けるみたいに熱くなった。俺が声をかけなきゃ、あいつにとって俺は、ただの避けるべき障害物と同じだ。
――どうすればいい?
難しい理屈なんて、一個も分からない。足りない頭を必死に回して、これまでのクソみたいな人生で見てきたものを思い返した。施設をバックれて目的もなく彷徨ってた街の景色。駅の階段の手すり。エレベーターのボタンの横。そこにあった、ぶつぶつだ。
(アレなら靭は俺を、俺だと分かるんじゃないか?)
一度浮かんだ考えが、毒みたいに全身へ回っていく。印がほしい。あいつの指先が、迷わずに俺を見つけられる、俺だけの印が。
気づけば俺は、図書室の前に立っていた。
ガキのころ、雨の日に仕方なく入り浸った施設の書棚とはワケが違う。天井まで届く書棚の圧に入口で足が止まった。
棚を埋め尽くしているのは、寄生種に関する医学書や、園の管理記録。背表紙を見るだけで反吐が出るような本ばかりだ。場違いなところに迷い込んだ不審者みたいにウロウロしてると、不意に背後から声をかけられた。
「何か探しもの?」
振り返ると、そこにいたのは虫だった。いや、正確には顔の半分以上が複眼みたいな質感で覆われ、頭のてっぺんから触覚のような草が生えてる。確か、隣の席の殻沢。最初に会釈したきり、授業中は一度も口を開かず、黙々とノートを取ってた大人しい奴だ。
「殻沢か?」
「うん。……樫くんだよね。ここ使うの初めて?」
大きな複眼が不思議そうに俺を映す。
「お前、何してんだよ。こんなところで」
「図書委員だから。今日は当番なんだ」
殻沢は手に持った本を棚に差し込みながら答えた。指先はどこか節くれだっていて、人間離れしてる。
「点字の本はあるか。読み方とか、記号の意味が書いてあるやつ」
「点字? あっ、清澄くんのことか。こっちきて」
問いかけると、殻沢は迷いのない足取りで、一つの書棚へ俺を案内した。他の棚の本とは違って、背表紙にボコボコした凹凸のある本が並んでいる。
「ここだよ。この園にはハンディキャップを持った人が多いんだ。寄生種も苗床も。お互いを理解するために、こういう本が一通り揃ってる」
殻沢の声は淡々としてて、どこかこの異常な環境をそういうもんだと諦めて受け入れてるような響きがあった。俺は本棚をしばらく眺め、一冊の本を手に取る。
『点字のきほん』
ページをパラパラとめくる。五十音の法則。濁音の付け方。模様にしか見えないものが、靭には命を繋ぐ言葉なのか。俺は「か」「た」「ぎ」という三つの文字の点の配置を、穴が開くほど見つめて脳みそに叩き込んだ。
(よし、覚えられた)
本を棚に戻そうとすると、殻沢が不思議そうに首を傾げた。
「借りていかなくていいの?」
「学生証を忘れたまま来ちまったからな」
「しょうがないな。ちょっと失礼するよ。君、こういう機会がないとめったに来なさそうだから」
殻沢の手が俺の後ろに回った。不意に襟首を引き下げられて、空気が肌に触れる。
「おい、何しやがる」
「園の生徒は皆、首の後側に学籍番号が刻まれてるんだ。端末に直接打ち込めば貸出処理ができるから」
殻沢の手が、俺のうなじで止まった。ほんの一瞬、そいつの触角がピクリと跳ね、妙に長い沈黙が流れた。複眼が、今まで見たこともないような変な色で俺を映している。
「学籍番号だよ。間違いない」
声がひどくカサついていた。嘘を吐くとき、人間は喉が鳴る。殻沢の喉が小さく動いたのを俺は逃さなかった。
(嘘つけ。そんなもんじゃねえだろ)
恐らくそこにあるのは、農作物の袋に書いてあるような、『三二八号、特級適合』なんていう、肥料としての品質表示だ。殻沢は俺を傷つけないために、それを学籍番号と言い換えてくれたんだろう。
「先生には内緒だよ」
殻沢は、わざわざ俺が本を持ち帰れるよう手配してくれた。どう見ても殻沢は自分のカードで貸出処理をしている。俺は見ないふりをして、あいつの嘘にありがたく乗ることにした。
「点字器なら、支援室で使わせてもらえるはずだよ」
「色々悪いな。助かる」
慣れない礼を口にしながら、ふと気になって殻沢の首元を見た。
「お前にもあるのか? 学籍番号」
殻沢は少し首を傾け、外骨格に覆われた硬い肌を指先でコツコツと叩いた。
「僕は見ての通り皮膚が硬いから、焼印は難しいんだ。だから、ほら。これだよ」
殻沢が示したのは、身体の一部に直接打ち込まれた金属製のタグだった。どこまで行っても、俺たちはこの学園にとって交換可能な土でしかない。だからこそ俺は、自分で選んだ言葉を刻まなきゃいけないと思った。
◇
「紙を挟んでボツボツ穴を開けるやつ……貸してください」
支援室で点字器を握りしめ、まっさらな厚紙に針を突き立てた。プチッ、と指先に伝わる小さな抵抗。静かで鋭い音が鳴る。
支援室にも点字の本があった。自由に見ていいらしい。殻沢のやつは、親切心で貸出手続をしてくれたけど、ここに来りゃ一発だった。あいつには悪いことしたな。
職員に右から打てだの、鏡文字になってるだの、横から煩く色々言われながら紙と格闘する。一時間たって、ようやくそれらしい言葉が打てた。裏返して盛り上がった点を指でなぞる。
⠡⠕⠐⠣⠀ ⠷⠡⠐⠫ (かたぎ みかげ)
紙の裏側に突き立てた針の跡が、意味を持って盛り上がっていた。漢字で書けば、塗りつぶしたような影がこびりつく俺の名前も、紙の上では、たった6つの丸の羅列になっている。
靭の真似をして目を閉じ、名前をなぞってみた。指の腹を優しく突く凸点の山。
「はは、俺にはただのボツボツにしか思えねえ」
――清澄。お前、すげえな。
目で見ればただの点だけど、指で触れればそこに俺がいる。たとえ俺自身が意味を分かっていなくても。剥き出しの心臓を撫でるような心地で、俺はいつまでもその連なりを追い続けていた。
この点なら嘘をつかない。俺は、確かな手応えを感じ自分の右腕を眺めた。紙とは違う皮膚の感触を確かめる。ここに、あれみたいに浮き上がらせることができれば。
翌日、担任の野蒜が捨てたシケモクを一本くすねた。火をつけて自分の腕に押しつけてみる。
――熱けつく痛み。これだと思った。
だが、じりと肌が焼ける臭いのあと、そこには期待していた鋭い点なんてなかった。あるのは、不格好にひしゃげた赤黒い肉の塊。
「……チッ、デカすぎる」
指先でなぞってみる。ヒリヒリと熱を持って、ぶよぶよ波打つ火傷の痕。点字器で打った整った形とは、大きさも感触も、何もかもが違う。
紙の上であんなに鮮明な音だった自分の名前が、肌の上ではただの無様な傷として居座っていた。
「クソが。もっと硬い石みたいになれよ」
この爛れた肉を、あいつが読み取れる言葉に固定するには、どうしたらいい。
「野蒜先生。相談があるんだけど」
「別にいいけど……その腕、どうしたんだよ」
「先生のシケモクを一本借りた」
野蒜は吸い殻を灰皿に押し付けて、俺の右腕に並ぶ、まだ熱を持った赤黒い火傷を眺めた。
「今どき根性焼きかよ。随分と行儀が悪いな」
「点字、試してみたんだけどダメでした。盛り上がり方がバラバラで。指でなぞっても、何が書いてあるかさっぱり分かんねえ」
「やる前に気づけ、バカかお前は」
「……先生。あんた、元はそっち側なんだろ。この学園のやり方で、俺の皮膚をもっとカチカチに固めて、形を整えられねえか」
野蒜は欠けた腕のつけ根を無造作に掻きながら、面倒そうに視線を上げる。俺は食い下がって自分の右腕を指差した。
「俺の名前を打ちたい。難しい理屈は分かんねえけど、あんたらなら、うまいこと皮膚を盛り上げて固めるくらいできるんだろ。ここに、清澄君が触れやすい場所にさ。点字で、突起を作ってくれ」
野蒜の動きが止まった。開いたままの口から溜息が漏れる。
「簡単に言うな、寄生種を何だと思ってんだよ。まさか他の生徒に、手当たり次第に声かけて回ってねえだろうな」
野蒜は椅子を蹴るようにして立ち上がり、俺に詰め寄った。
「成分が合わなきゃ最悪、お前も清澄も両方死ぬぞ。ここに来た時点でお前の体は、お前だけのものじゃない。勝手な真似が許されると思ってんのか」
「だから、あんたに頼んでんだよ」
自分でも、何を言ってるのか分からなかった。つい数週間前まで、俺はこの学園の連中をラリってると蔑んでいたはずだ。自分と他人の境界さえ失くした、化け物の成れ果てだと。
「わざわざ自分の体に文字を彫って、どうするつもりだ」
「あいつが迷ったとき。俺の腕を掴んだときに、俺の名前が粒で置いてあれば……あいつは自分がどこにいるか、迷わなくて済む」
俺は、深く頭を下げた。完全にシラフなのに、自分の身体を誰かのための記号に書き換えようとしている。
「お願いします。……俺を、あいつが掴むための確かな印にしてください。手首を掴んで、そのまま肘に向かってなぞった時に、読める向きで」
「お前、本気かよ」
野蒜の目が、探るように俺の顔を覗き込む。どんな言葉が飛んでくるかと思ったが、聞こえてきたのは乾いた笑いだった。野蒜は欠けた袖を揺らし、窓の外に視線を投げる。
「まあ、苗床側からの歩み寄りってのは、研究所にも都合がいいだろうな。伝手を使って、外科的な処置ができる場所を手配してやる。焼印に近い形でケロイド状に固めることになるが、今の火傷よりはマシだろうよ。……一生消えねえぞ」
「構わねえよ。それに俺、よくわかんねえけど傷の治りだけは早いんだ。下手したら、また頼みに来るかもな」
数週間後。処置を終えた右腕には、整然と並ぶ小さな突起が刻まれていた。あいつが分かりやすいよう作り替えた、俺の名前だ。
カラン、と白杖を壁に立てかける乾いた音がして、靭が手探りで部屋に入ってきた。
「樫くん? ……そこに、いるんでしょ。匂いがする」
俺は何も言わず、靭の正面に立った。靭は杖から手を離し、迷うように指先を伸ばす。俺はその手を掴み、自分の右腕――まだ生々しい突起が並ぶ、その場所へと導いた。
包帯の取れた腕には、細かく規則正しく盛り上がった無数の突起が列をなしている。
『か・た・ぎ・み・か・げ』
手首から肘へ。一文字、また一文字。あいつの指先が、俺の肉に刻まれた「俺」という起伏をなぞっていく。自分の名前が温かい他人の肌の上で、確かな意味を持って存在している。
「樫くんの中に、僕の知ってる文字がある」
「ああ。そこを触れば、そこがお前の場所だって分かるだろ」
靭は嬉しそうに、何度も何度も、俺の皮膚の凹凸をなぞった。自分の名前が、誰かの笑顔にさせるものとなるなんて、生まれて初めて知った。その甘すぎる錯覚に、心ごと囚われてしまいそうだった。
実際には、俺という土はもう肥料として、こいつに飲み込まれる運命にあるんだろう。殻沢が吐いた優しい嘘も、いつか剥がれ落ちるのかもしれない。
だけど、靭がこの粒を俺だと言って笑っている。それだけで、俺が吐いたこの不格好な嘘は、真実になったように思えた。
(忘れるなよ。そこにあるのが、俺だ)
指先を動かし続けるあいつの頭を、空いた方の手で不器用に撫でる。
「なあ、靭。俺に点字、教えてくんねえか。お前の知らない色ってやつを、これで書いてやりたいからさ」
作中の点字は、実際に読めるものとして置いています。深蔭が靭に届ける文字として書きました。




