ホラホラ、これが僕の骨や
昼過ぎ、温室の扉が控えめな音を立てて開いた。
「古江君、テスト範囲のプリント持ってきたよ。分からないことがあったら、いつでもメッセージ投げて」
与謝野は数冊のノートを手渡した。志新は苦虫を噛み潰した顔で礼を言いながら、表紙を見た。
「……これ本当に全部やらないとダメ?」
「成程、ポスト五代君の座を狙ってるんですね」
「留年は全力で避けたいからやる」
ノートの束の間から、現代文の教科書が滑り落ちかけている。ページの間には付箋が何枚も挟まっていた。
「ねえ、嫌な予感しかしないんだけど」
「うちのクラスの画伯達が、どうしても古江君に見せたいって言うから仕方なく……気が向いたら見てあげて」
与謝野が帰ったあと、志新は寝椅子へ身体を預けながら現代文の教科書を開いた。
「与謝野くん、本当に律儀だな……」
付箋の挟まった箇所は著者紹介のページだ。絶対に開いてはいけない。以前、歴史の教科書を差し出されたときは、偉人の成れ果ての姿に笑いすぎて体勢を崩し、治りかけの肋骨にヒビが入った。
志新は慎重に履修ページを開く。
骨。
どこかで聞いたことのある題名だと思いながら、短い詩を追う。最後の一行まで読み終えた瞬間、不意に言葉が引っかかった。
『恰度立札ほどの高さに、骨はしらじらととんがつてゐる』
志新はしばらくその行を見つめ、おもむろにズボンのポケットに手を伸ばした。指先に触れるトゲトゲとした小さな骨。
ふと、耳の奥で声がした気がした。
――ホラホラ、これが僕の骨や。
「ふふっ……和良くん。もう、人が真面目に読んでいるのに……んふっ」
妙に得意げな密葉の声が、志新の脳内で再生された。おかしくて、腹が立って。笑った拍子に視界が滲んだ。
ぽたりと雫が文庫本のページへ落ちる。
「あれ……?」
何で泣いているのか自分でも分からない。ただ、ポケットで硬い感触を握る指の力を強めていた。
背後で温室の扉が開く。志新は慌てて目元を擦った。
「取り込み中か?」
「いえ。野蒜先生、大丈夫です」
「そうか」
志新は開いたままのページへ視線を落とした。ポケットの骨は相変わらず冷たいままだった。彼は、関係を築ききれないまま自分を抱きしめて死んだ少年の骨を、肌身離さず持ち歩いていた。
野蒜は温室の奥へ歩き出した。強化ガラスに囲まれた温室は何もかもが心地よく管理され、外界の風ひとつ入らない。照明の光を浴びた葉脈は人工的な艶を帯びていて、ここが生き物のための場所なのか、保存庫なのか志新にはよく分からなかった。
「古江、お前の処遇が決まった」
志新は喉を鳴らして、書類を受け取った。相手が公安監視対象だったとしても、自分たちが集落で引き起こした暴走と惨劇を鑑みれば、バイオハザードの主犯である自身は処分されて当然と思っていた。
野蒜から届けられた決定事項を見た時、志新はしばらく文字の意味を理解できなかった。
「……どうして」
少し離れた場所で、野蒜が小さく息を吐いた。声に疲労が滲んでいる。
「お前は最初からずっと消えたがってたのにな。世の中という土が腐りすぎてて、どこまでもお前を生かそうとする」
志新は肩を震わせ、野蒜の肩へ額を押し当てた。大人たちは教団の存在そのものを記憶から抹消することを選んだらしい。志新を裁けば、背後にある情報まで世間へ露出する。故に、古江志新は植物であるとして、この温室へ隔離することで幕引きとした。
「こんな腐った場所でも、立派に咲いて欲しい。お前たちの教師としての俺のエゴだ」
――生きろ。
「僕は、咲きたくなんてなかった」
それなのに、枯れることすら許されない。密葉が望んだ納得も、自分が望んだ消失も全部、温室の土の上で別の形へ書き換えられていく気がした。
「でも、先生がそう言うなら、ここにいてもいいのかな……」
志新は密葉と繋がっていた頃の感覚を思い起こすように皮膚から透ける寄生糸を見つめている。野蒜は答えず、志新の隣で生命維持装置の静かな駆動音に耳を傾けていた。
「古江、次の苗床が必要になったら、お前から言え。無理強いはしねぇよ。一人で枯れることを選ぶなら、それもれっきとした全うだ。今度はちゃんとお前自身で選べ」
一人で枯れるのか。誰かと新しい共生を試みるのか。野蒜は見守ろうとしている。志新に与えられた、痛ましく自由な授業だ。
「先生。僕は、まだ答えが出そうにないです」
志空は天窓を見上げ、骨をそっと撫でる。あの日から、志新の時計は止まったままだ。
野蒜はタブレットへ表示されたデータを確認しながら、小さく頷く。
「時間はたっぷりある。ラフレシアの寿命が尽きるまで、古江志新という一つの生命を見守り続けるのが、俺の仕事だ」
その時、温室の換気窓から小さな黒い影が迷い込んできた。
ぶぅん、と羽音が響く。
一匹の蠅が、色彩豊かな花々の上を旋回しながら、空中で小さな円を描いている。彼の身体から微かに漏れる独特の香りが、この小さな生き物を引き寄せていた。
志新は車椅子へかけたまま、羽音へ耳を澄ませた。不思議と怖くない。密葉の骨を抱きしめている時に感じる、胸の痛みもない。
「……おいで」
指を差し出すと、蠅は迷いなく志新の指先へ止まった。チリチリした脚の感触。適合試験で流れ込んできた他人の意識よりもずっと小さいが、明確な個の鼓動を感じる。
「先生。僕に親友ができたみたい。きっと、密葉くんの生まれ変わりです」
離れた場所で記録を書いていた野蒜が、顔を上げた。指先の小さな客人を壊さないよう見つめる少年の横顔がある。
「そうか。そいつは、お前の毒程度じゃくたばらない。お前を道具にもせんだろう」
志新は小さく笑う。蠅は指先からラフレシアの肉厚な花弁へ移り、羽を擦り合わせた。親友の指先から飛び立った一匹の蠅は、その脚に微細な花粉と、囁くような羽音を纏わせ、温室の壁の隙間を抜けていく。
あれから幾月かの時が流れた。志新はポケットの骨を丁寧に小瓶へ納め、お守りのように首から下げた。
同じ蠅が再び温室へ戻ってきたのは、そんなときだった。翅が、別の花の香りを纏っている。志新は蠅の複眼をじっと見て対話を交わす。
後輩だという、同じラフレシアの種を持つ少年がいるという。彼もまた、どこかの閉鎖施設で自分の毒に怯え、静かに枯れるのを待っていたのかもしれない。
「先生。……彼、ここに来るって」
志新が選んだのは、自分と同じ痛みを知る同族との共生。野蒜は生徒が自らの意思で手繰り寄せた選択を聞き、口角を上げた。
「蠅をキューピッドにするとはな。俺の授業よりよほど実践的だ」
やがて温室の扉が開く。車椅子に乗せられた少年が、志新の姿を捉える。彼の肌にも、志新と同じように瑞々しい蔦が浮き出ていた。怯えながらも自分の色を探そうとしている一輪の蕾に微笑む。
「こんにちは。君を待っていたんだ」
志新は彼の横にそっと腰を下ろす。そして、自分の肩に止まった一匹の蠅と、首から下げた小瓶を、誇らしげに指し示した。
「紹介するね。僕と君を支えてくれる親友だ」
一匹は、遠い空から君の声を届けてくれた銀色の羽を持つ伝令官。そして。
「この中には、僕に生きろと……いや、納得して死ねと教えてくれた、とても強引で酷いやつが眠ってる。親友の以前の姿だよ」
志新は小瓶をそっと撫でる。かつて自分を道具にして地獄へ共に歩み、新たな出会いへ繋いでくれた不器用で情熱的な骨を。
「彼がいなかったら、僕は今ここにはいなかった。……君も怖がらないで。僕らにはたくさんの味方がいるんだ」
少年の瞳に小さな光が宿る。志新の手のひらに止まった蠅が、今度は少年の指先へと飛び移った。
「よろしくね」
志新が差し出す手に、迷いは消えていた。
温室の床に新しく運び込まれた土は、肥沃で深い黒色をしていた。かつての教団の拠点から、野蒜自らが改良の名目でさらってきた土壌には、炎に焼かれて堆肥へと姿を変えた信徒たちが混じっている。
「お前さんたちが言うところの美しい共生が、ここで正しく実践されているぞ」
野蒜は、シャベルで土を均しながら、冷ややかな笑みを浮かべた。かつて自身の子どもを苗床として扱い、自分たちの永生を願った人間どもが、いまや教え子の足元で、彼らが大輪の花を咲かせるための食料になり下がっている。
「奴らは今、ようやく神の御心に適ったわけだ。自分たちの命を、次の世代へ繋ぐ本質的な命題にな」
野蒜の言葉を肯定するように、温室の天窓から差し込む光の中で、数多の蠅が羽音を響かせた。
「密葉、お前が見たかった景色はこれだろ。お前の羽音で賛美歌を歌って、足元の土どもに敬虔に祈らせろ」
志新は、土に向かって慈愛の笑みを落とした。恨みも怒りも、すべてはこの肥沃な大地が飲み込んでくれる。
――おおきに、おかげさまやな。
羽音が囁き声のように聴こえた。蠅の賛美歌が鳴り響く中、二輪のラフレシアは鮮やかな深紅の花を広げていく。
死の匂いはもはやどこにもない。過去の痛みも、現在の孤独も、未来への不安も、全て等しく抱えて誇り高く咲いていた。




