毎年遺書を書く先生がいるらしい
「李徴って私のことみたいです」
教室の最前列で、高橋が声を弾ませた。いかにも現代文の授業が大好きな優等生といった顔。
「己の珠に非ざるを惧れるが故に……ってところ、なんとなくわかるんです」
「安心しろ、李徴はお前ら全員に似てる」
教室でどっと笑いが起きる。高橋だけが弾かれたように目をぱちくりと瞬きをしていた。てっきり、褒められるとばかり思っていたのだろう。
「言葉って、妙にぴったり嵌まる時あるだろ。ああいうのは効きすぎるから危ねぇ」
声が午後の眠たい空気の中に響く。樫先生は黒板に背中を預けて、腕を組んだ。
「自分の話だと思った瞬間から、作品は見えなくなることもある。ほどほどにな、他人の言葉は根を張るぞ」
僕は机に頬杖をついたまま、その光景を眺めていた。樫先生はいつもそうだ。現代文の教師なのに、まるで文学を危険物か何かのように扱う。
「じゃあ、次」
先生は気だるげに体を起こすと、再びチョークを拾い上げた。黒板に向かう背中は、僕たちに何かを教えようという熱意よりも、何かから僕たちを守ろうとしているかのように頑なに見えた。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心とはどのようなことか説明せよ、という設問だな」
先生はチョークを溝へ戻すと振り返り、僕たちを真っ直ぐに見据えた。
「作者の気持ちと書かれているが、額面通りに受け取るな。本文から、採点者が期待してる答えを推測しろという意味だ。定期試験ならどう書く」
教室のあちこちでノートをめくる音がした。何人かが迷いなく手を挙げる。
「自分の才能のなさを認めるのが怖くて、他人から低く評価されることにも耐えられない気持ちです」
「そうだな。丁度、高橋も共感した箇所だ。その答案なら点は入る。じゃあ、なんでそう書いた?」
樫先生は頷き、さらに問いを投げかける。当てられた生徒は一瞬口ごもり、困惑気味に答えた。
「……本文にそう書いてあるからです」
「本当か? 人間、自分のことを説明するときは案外嘘をつくぞ。後から辻褄を合わせようとする。俺だってそうだ」
先生は、ふっと口を緩ませた。チョークの先が教卓を軽く叩く。カツンと乾いた音が静かな教室に響いた。
「失敗した理由なんて、本当は本人にもわからんことが多い。もっと言えば、作者が本当にそう思って書いたかどうかも俺は知らん」
教室の空気がざわついた。誰かが小さく声を漏らす。
「えっ、作者なんですよね?」
「作者だって、自分の書いたもの全部説明できるわけじゃないだろ」
先生が肩を竦めた拍子に開襟シャツの襟元がわずかにずれた。浅黒い首筋の中央、喉笛のあたりから色素の抜けた白い傷痕が覗く。獣にでも噛み裂かれたような生々しい跡。
僕は思わずそこに釘づけになる。先生は気づいているのかいないのか、何事もなかったように黒板へ向き直った。
「設問として丸になる答えと、人間一人分の中身は別だ。そう簡単に覗けるもんじゃねぇよ。だから、本当か? って思いながら読むくらいで丁度いい」
タイミング良くチャイムが鳴った。先生は息を吐くと、無造作にシャツの襟元を正し、白い傷を布の奥へ隠した。
「今日の授業はここまで。日直、号令」
放課後、僕は職員室に立ち寄った。樫先生は分厚い資料の束をめくっていた。デスクの上には背表紙の擦り切れた文庫本一冊、隣のトレイに僕たちの読書感想文のノートが置かれている。
「失礼します。ノートを取りにきました」
「おう。そこにあるやつ、勝手に持ってけ」
顎で示されたトレイから、自分の名前が書かれたノートを引き抜く。正直、開くのが少し怖かった。僕が提出した感想文は、およそ提出物と呼べるような代物じゃなかったからだ。
読書感想文なんて正直、何を書けばいいのか分からなかった。別に話に感動したわけでもないし、共感したわけでもない。ただ、特定の場面が嫌だった。どこの海とも分からない場所ですくい上げてきたような、ぐちゃぐちゃでまとまりのない言葉を書き殴った。
一足早く提出を終えた隣の席の椎名が、『主人公の孤独に深く共感しました』と書いて、容赦なく赤線を引かれていたのを思い出す。余白に『無理して仲良くならなくていい』と、先生の冷たい文字が躍っていた。
要領がいいあいつでさえそうだから、一言やり直しと突き返されるのがオチだ。恐る恐る、ノートのページをめくる。僕の拙い文字の下に、妙に長い赤ペンの跡が走っていた。
『文章は意味を理解する前に、先に身体に刺さることがある。それでいい』
いつもより少しだけ強い先生の筆跡。僕は思わずノートを強く抱きしめていた。海の底に沈んだままになっていたものを見つけてもらえた気がしたから。
「樫先生」
顔を上げると、先生は手元の資料に目を戻そうとしている。僕はその横顔に向かって、衝動的に不躾な問いを投げかけていた。
「先生って、なんで国語の先生になったんですか。授業でも、言葉をあまり信用してないみたいに見えるのに」
ページをめくる音が途中で止まる。沈黙の後、先生は資料を机の上に放り出した。
「信用してねぇよ、今もな。俺は元から文学青年でも何でもなかった。むしろ逆だ、言葉なんてまやかしだと思ってた」
先生の右手が、無意識に自分の胸のあたりに置かれる。まるで、そこに今も残っている
何かの感触を確かめるみたいに。
「……分からせられたのかもな。言葉は人を生かしてしまう。そう簡単にくたばらせちゃくれない」
先生は胸元から視線を外すと、僕の腕の中にあるノートを薄目で見つめた。
「お前が『よく分からないけど残った』っていう異物感を抱えてるのは、間違ってねぇかもな。ほら、用が済んだならさっさと下校しろ」
「ありがとうございました」
頭を下げて、職員室を後にした。廊下に出ると、夕方の涼しい風が制服の隙間に吹き込んできた。抱えたノートがほんの少しだけ温かいような気がした。
六月になると樫先生は学校に来なくなる。病気療養のための半月の休暇が毎年恒例だった。樫先生は、背が高くて名前どおりに身体がカチカチに仕上がっていた。見た目が現代文というより体育教師みたいだから、療養という言葉に全くイメージがわかない。
五月末頃、放課後に先生が教卓で遺書だとふざけて言いながら黙々と白い紙に穴を開けていたことを思い出した。
教卓の上からポツ、ポツ、と小さな音が聞こえた。最初はボールペンを落としているのかと思ったが違う。雨の降り始めに窓を叩く雫みたいな不思議な間隔で。
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「先生、それ雨粒ですか?」
何気なく訊くと、先生は手を止めずに笑った。
「そうだな。雨を落としてるのかもな」
窓から差し込む午後の光が、先生の横顔を白く切り取っていた。チョークの粉が光の中で小さく踊る。
作業に没頭する先生の姿は、授業中の先生とはどこか別人みたいだった。何だか見ていて切なくなるような遠さを感じた。
梅雨入りの話題が出ると、先生は落ち着きをなくす。天気予報に雨マークが並び始めると、先生はあからさまにそわそわして、僕たち生徒が必死になって中間テストに耐えている期間に消える。樫先生は毎年六月半ばに呑気にハネムーンへ出かけているらしい、なんて噂が立っていた。
噂の痕跡は、僕たちのすぐ身近な場所にも残されていた。学園の旧校舎の裏手。雑木林の根本に、いつからかささやかな群生地が出来上がっていた。
葉緑素を持たない、どこまでも透き通るような白。光合成を放棄し、他の木の根に寄生して生きるキヨスミウツボの群生だ。六月半ばになると、樫先生がいなくなる代わりに裏山が一般開放されて、観光客たちが熱心にカメラを向ける。
「今年もきれいに咲いたねぇ」
「本当に。絶滅危惧種に載るほど珍しいのに、不思議なこともあるものね」
一度だけ、教頭先生がその賑わいを見つめながら苦虫を噛み潰したような顔で愚痴をこぼしていたのを聞いた。耳たぶを心なしか赤くさせながら。
「まったく……。あの男は、公の場で何を繁殖させているんだか」
七月になれば、先生はまた何事もなかったかのように教卓に戻ってくるのだろう。
テスト明けの午後、ひとり裏山に入った僕は、ひっそりとカシの木の地面に頭をもたげる白い花の群生を見つめた。言葉を信用しない先生が毎年残していく痕跡が、僕の足元で静かに雨露をまとっていた。
◇
「――恰度立札ほどの高さに、 骨はしらじらととんがつてゐる」
生徒が詩の最後の一行を読み終えた。
教室に静けさが漂う。誰もが何かしらを考えている顔をしていたが、手を挙げる者はいなかった。
机の下で指先をぎゅっと握りしめていた生徒がいる。樫は黒板を向いたまま、その様子を見てすらいないはずなのに、チョークを置いた。
「教科書の答えじゃなくていいから、思ったこと言ってみろ」
生徒たちはすべてを見透かされているような、心地いい錯覚に囚われた。
――本当は違う。
樫の浅黒い皮膚のすぐ下で、心臓の鼓動を共有する白い根が、生徒の小さな心の震えを愛おしそうに感知しているだけだ。
(前から二番目の列の子。今、すごく良いこと考えてるよ。聞いてあげて)
(さっきから何度も手を挙げようとして、迷ってる)
胸の奥で囁く靭の言葉を、樫はただ自分の肉体を使って教室へ届ける。しばらくして、前から二番目の列の女子生徒がおずおずと手を挙げた。
「あの……」
「鈴木、お前はどう思った」
鈴木の声は小さい。途中で引っ込めてしまいそうなほど頼りなかった。
「なんで三つ葉のお浸しなんだろうって思いました」
教室の何人かが顔を上げる。彼女は膝の上で握った拳に力を込めた。言葉を探すように視線が揺れている。笑われるかもしれないと思っているのが見ていてわかった。
「他にも色々あったはずなのに……好きな人との大事な思い出とか。でも、三つ葉のお浸しで」
鈴木が首を傾げると、教室にクスクスと小さな笑いが起きる。それでも鈴木は食い下がった。
「でもなんか骨みたいに引っかかる気がして。人って死ぬ時、そういう変なことを思い出すのかなって」
「いいところ見てるな。人間、自分の人生をわざわざ物語みたいに整理して覚えてるわけじゃねぇからな」
樫は教卓に寄りかかり頷いた。
「今際の際に名場面集みたいなもんが流れるかは知らんが、案外、三つ葉のお浸しの方が勝つかもしれねぇな」
後ろの席で誰かが「地味すぎるだろ」と呟いた。今度は鈴木も吹き出していた。
(そういうものかもね)
樫の胸の奥で靭がくすりと笑った。
(僕も覚えてる、あの日のお浸し。素材の味しかしねぇって深蔭が言ってた)
樫は咳払いを一つし、チョークを持ち直した。
「じゃあ、次いくぞ」
---(点字対訳)---
移ろえる雲の行方を仰ぎ見て
待ちにし雨が君を連れくる
降り注ぐ雨の粒さえ唇と
思えば濡れて惜しからぬ身ぞ
この雨で狂い咲けよと白妙の
濡れる蕾を染めし唇
あめつちの境も知らぬ激しさに
君の白が色に溶けゆく




