愛を液肥ですまそうとするな
黒板を引っかくチョークの音が、頭の奥まで響いていた。授業中の雑音が妙にくっきりしている。教室中の咳払いやノートをめくる指先、椅子がきしむ音。いちいち全部が皮膚の裏っかわに直接触れてくる。
俺の席の周りはガラ空きだった。密葉は骨になり、荒古江は温室。殻沢は弾けて、靭は俺の身体のなかにいる。
皮膚の内側から根がわずかに叩いてきた。あいつが点字タイプライターを探している。
「いいぞ、打って」
俺は自分の両手をキーの上に置いて、指の力を完全に抜いた。肉の内側で、靭の根が蠢いて骨を引っ張る。毎日この機械を叩いていたあいつに意識を預けた方が、俺が自分で打つより圧倒的に速い。俺の指が意志とは無関係に滑らかにキーを刻み始めた。
「ほんとお前、クソ真面目だよな。……休眠扱いじゃなくて、出席つけて貰ったほうがよくねぇか?これ見りゃお前がいるって、先公も一発で分かるだろ」
「今日の講義は、寄生時の神経融合について」
教壇で真田がチョークを走らせる。あいつのガワは珍しく教頭じゃない。たぶん二十代後半の男の身体。中身の気配は相変わらずねっとりしてやがる。
「第二週目、互いの肉体は身を切るような愛の試練を迎える。寄生種は胸の奥から甘い接着剤を惜しみなく宿主に与え――」
身を乗り出し、五代に小声で話しかけた。
「なあ、真田の言うところの『甘い接着剤』って黒板に書いてあるNCAM……?ってやつであってるんだよな」
「そ、チートシートに書いてあるやつ」
手元には『真田語対照表』と書かれた紙。
『真田の言動を拾って、定期テストの記述問題にそのまま書くと爆死する。注意しろ』
愛の試練
→宿主の摂取カロリーの40%を超過時の寄生種のエネルギー自己補填量
テストに出る│ミエリン鞘の脂質代謝
甘い接着剤
→NCAM(神経細胞接着分子)の話
テストに出る│解離定数 Kd = 10^-9 mol/L
ひたすら用語が続いている。翻訳前だろうが後だろうが、どっちにしろわからねぇ。
「宿主の神経節に寄生種諸君の根を、初めて手を握るような優しさで絡ませ……」
与謝野と四十八願が毒づいている。
「 優しくなんて曖昧な言葉で失敗した生徒が何人いると思ってるんですか。調理実習の弱火でコトコトくらい信用できない」
「で、その接触力って何Nなわけ?定量化しろや」
「0.05N以下を維持らしいですよ。確か檀先輩のテスト結果に。手をつなぐ握力と全然違うし、罠にもほどがある」
俺は、昼休みにこの紙が回ってきたときの、沙倉の爆笑を思い出していた。
「笑いすぎてお腹痛い。なにこの、真田の理不尽と戦う有志の会って!」
「僕と四十八願くんの合作です」
「精神論が多すぎんだよ、あのクソ条虫」
四十八願はうんざりした顔で肩を竦める。
「タモさんも健くんも、砂糖ひとつまみって表現を許せないタイプだもんね」
「沙倉、気安く俺の名前呼んでんじゃねーよ」
俺は、あまりピンとこなくて首を傾げた。
「ひとつまみは、ひとつまみだろ」
「マジかよルーキー。お前は絶対に、俺等と同じ側だと思ってたのに!」
「樫くんは、町工場のベテラン工員みたいに手の感覚でどうにかなっちゃうタイプなんですね。何てタチが悪い」
「詩とか好きなのに、そういうの意外っすよね。タモっちゃん」
五代のリアクションに、与謝野は心外と言わんばかりに眉を寄せる。
「詩と手順書は別物です」
「で、あるからして――」
教室の笑い声を割るように、真田がわざとらしく咳払いをした。聞こえていないフリをしているのか分からないが、黒板のチョークを擦る音が大きくなる。
靭の根が小さく震えた。笑ってやがる。
こいつ、こういうくだらねぇやり取り好きだよな。
結局、授業が終わるまで先公のポエムは絶好調で、真田語対照表は順調に更新されていった。
終業のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に崩れた。
「……例のアレ、聞きに行くか」
⠡⠐⠡⠩⠘⠹⠴⠐⠧⠳⠝⠢ (化学準備室?)
俺は鞄を肩に引っ掛けながら、小さく息を吐く。初めは菅に聞こうとしたが、真田の専門領域らしい。奴の話は回りくどくて気が進まないが、俺が言い出したことだから腹を括る。仕方なく俺達は、化学準備室へ向かって歩き出した。
化学準備室は、いつ来ても古本の匂いと生き物の据えた匂いが混ざっている。棚にはホルマリン漬けの標本瓶が並んで、薄黄色い液体の中で長細い条虫がご丁寧に畳まれていた。
「まずは全潜り達成おめでとう。見事な侵入だ。宿主の表皮をそっと押し分け、己の導管を深淵へ突き立てた瞬間の……世界が二人だけになる静かな充足を君等は味わったのだね」
「そっとどころか、ダムが決壊する勢いだったよな、靭。……おい、さっきから何でずっと黙ってるんだよ」
俺が口を挟んだ瞬間、真田の肩がびくりと跳ねた。相変わらずビビりなのは変わらないらしい。生きづらそうだな。
「……で、視神経を共有したいと。君達は、なんて美しい願いを抱いてしまったんだ。さあ、座りなさい」
促されるままに椅子にかける。
「標準の定着速度は概ね21日だが……成程。流石、特級固体だ。もうかなり深いところまで行っているらしい」
「そういや真田……先生は、ガワを新調したのか。教頭はどうした」
「教頭の視神経は、最近少しばかりくすんでいてね。君たちの明るい光を映すには、いささか解像度が低すぎるのだよ」
真田は含み笑いを浮かべると、本棚に背中を預ける。
「本題に入ろう。視神経の共有というのはね、単に同じ景色を視るだけでは済まないのだよ。相手が見ているもの、感じる痛み、抱いている恋心まで、自分のものとして流れ込んでくる」
真田は眼鏡を押し上げながら、わざとらしく肩を竦める。恋心という言葉だけ、やけに熱っぽかった。
「視神経を繋いだが最後、世界は二度と元には戻らない。ただ歩いている時ですら、網膜の奥へ相手の見たものが混じる。風に揺れる枝葉や獲物を狙う鳥の影、相手の個人的な飢え。……共有する覚悟があるか、まずは自身に問いなさい」
口調こそ穏やかだが、机の下の足元は落ち着きなく動いていた。視線がドアの方を向いている。
「相手が絶望的な景色を見た時、君はその絶望を自分のものとして咀嚼できるか?相手が愛おしいものを見た時、自分の心臓が跳ねるのを止められるか?」
自分の腹へ触れる。服の下で根が同意するようにゆっくり蠢いた。結論が決まってなきゃ、そもそもここにいねぇよな。
「もし苦痛さえも愛せるというのなら、やりなさい。自分という輪郭の喪失は、寂しくも甘美なものだ……もっとも、この私に相談した時点で、君達はだいぶ終わっている」
奴の視線の先に名簿らしきものがあった。
「運命の終宿主候補を観察することに忙しいのだよ。視神経のシェアなど、この私がするわけがない。私の恋愛脳がダダ漏れになって、教頭から拒絶反応が出かねないからね」
「お前、そういうところ本当気色悪ぃな」
「忠告しておくよ。相手の視界に溺れて、自分自身を見失ってはならない。視神経の共有は、何も神経接続だけの話ではない……君は最近、書に耽溺しているようだね。野蒜君から聞いているよ」
実態は、靭が現代文の講義を聞けなかった分の内容を尋ねただけだが、あの時の野蒜のツラは傑作だったな。
「ずっと一人で抱えていた痛みを、誰かの言葉がぴたりと言い当てる。その瞬間、人は心を動かされる。だが少年、あれも寄生の始まりだ」
真田が机の上の文庫本を指先で叩く。
「君の最も弱っている場所へ、他者の言葉が根を下ろす。だから私は、本を閉じ深呼吸しろと教える。心地よさに酔って、自己の核まで明け渡さないようにと」
靭が神妙そうに聞いてやがる。何か思うところがあるのかもしれない。
「寄生種は代用品を嫌う。愛を液肥ですまそうとしてはいけないよ。借り物の言葉に甘んじてもいけない。彼らが欲しがるのは、宿主そのものだ」
真田は眼鏡を押し上げた。さっきまでの講義口調とは違う声音。
「自身で栄養を取り込み、歩こうとする不完全さを愛して定着する。そして宿主が生きることをやめた途端、驚くほど弱る……実に、愛が重い生き物だろう?」
「お前がそう思うなら、そうなんだろな」
「そうかい? 私はかなり誠実な説明をしているつもり――」
気づけば俺は、自然と真田の頭へ手を伸ばしていた。くしゃりと髪を掴んで撫でる。
「……でもまあ、先公の論文はそれなりに役に立ったぜ。ありがとな」
真田の身体が露骨に硬直した。白衣の袖口がびくりと跳ね、椅子がギギと音を立てて後ろへ下がる。
「何ビビってんだよ。先公なんだろ?偉そうにしてろよ」
真田は咳払いを一つ挟み、乱れた白衣の襟元を整えた。
「きっ……君は、宿主側のくせに捕食者みたいな距離の詰め方をするから、下品で嫌なんだ」




