雨に洗われた花は空の器に収まる
放課後、職員室に同意書を提出した。野蒜は今日から出張で不在らしい。全潜りは冬の休眠前と聞いていたが、俺たちの数値がやけに高いせいで、予定が急遽前倒しになった。やらなきゃ靭は死ぬから同意なんて言っても、所詮は形だけだ。
『管理区画へ移送後、数週間かけて全寄生個体の組織を徐々に液状化。数値を注視しながら苗床へ定着させる』――らしい。
成功すれば単位取得。失敗したら長期欠席。下手すりゃ永遠にこの世から欠席扱いだ。事務的な紙切れ一枚の有無で、園の大人どもは安心したり焦ったりと忙しそうだ。
珍しく樋口と四十八願が呼び止めてきた。
差し出されたノートの切れ端には、数字と英文字の羅列。ゲームのフレンドコードらしい。
「どうせ暇になると思うから。……お前らが生きてればの話だけど」
「生存報告がてらログインしてこいよ」
「おう、サンキュ」
教室の喧騒が遠ざかる。夕闇の濃くなり始めた廊下を寄宿舎に向かって足を進めていた時、靭が口を開いた。
「来週木曜の現代文、詩をやるんだって」
「へぇ。誰の?」
「中原中也だったかな。『骨』だって。与謝野くんが騒いでた」
「アイツああいうの好きそうだもんな。名前からして。……たしか『キミニシニタモウコトナカレ』って、ヤツだったか?」
「ふふ、与謝野晶子だね。樫くん、知ってるの?」
「いや、全然知らねぇ。なんとなく聞いた気がするだけ」
名前だけは覚えてる。雨がどうとか汚れてるとか断片的な記憶。塀の中にいた頃に、暇つぶしに本をめくっただけだ。
夕飯のつけ合わせにお浸しが出た。ご丁寧に三つ葉まで乗っかってやがる。出汁の薄い匂いを嗅いだ瞬間、危うく吹き出しそうになった。出来すぎだろ。
俺の隣で座ってる、けがらわしい肉を破って、しらじらと雨に洗われる予定のあいつは、三つ葉のお浸しを食ったことがある。いや、おしたしだったか。
こいつの毎日は、そういうくだらねぇもので埋めつくされればいい。
「雨みたい。すごくあたたかい雨が、そこら中にぽつぽつ降ってきてる」
靭はシーツに背中を預けたまま笑った。俺は収穫祭のときに、涙で顔を雨のように濡らしたこいつの様子を思い出していた。
「……嫌だったか」
自分で思ったより余裕がない声だった。靭が俺の手首へ、指先を重ねてくる。
「ううん。僕、雨は好きだよ。だからもっと降らせて」
あいつの根っこが、俺の心臓の痛みを吸い上げようと健気に脈打っていることだけは伝わった。
「キヨスミウツボって、梅雨に咲くんだよ」
「知ってる。一緒に見に行ったろ」
「雨がいっぱい降ってくると、そろそろ咲く時間なんだって分かるから。樫くんがたくさん雨を降らせてくれて、すごく嬉しい」
微笑む靭の目蓋に俺は影を落とした。
――ぽつり。
閉じた睫毛の際にそっと唇を押し当てた。靭の身体が淡い呼吸とともに小さく震える。そこから先、部屋の音は全部あたたかい雨音へ変わった。
「ステイは言わなくていいのか」
「雨雲にお願いして、止むと思う?」
「無理だな」
額にひとつ。
頬の輪郭をなぞるように、ふたつ。
乾いた肌へ熱を落とすたび、衣服の擦れる音が静かに響く。葉を叩く雨みたいな柔らかい音がした。
靭の唇から、吐息混じりの声が零れる。
少しだけ開いた淡い唇へ、今度は深く自分の輪郭を重ねた。一度離れて溢れた呼吸を惜しむみたいに、また角度を変えて塞ぐ。
濡れた音が微かに鼓膜を揺らすたび、靭の手首はシーツへ深く沈んでいった。
顎を支えていた指先をそのまま首筋へ滑らせる。脈打つ喉仏のすぐ横。血管の透ける白い肌へ雨足を強めていく。
顎のラインから耳の後ろの柔らかい窪み、鎖骨の合わせ目。隙間なく熱を落とすたび、靭は切なげに息を漏らし、俺の手首を掴む力を強めていた。
雨を吸い上げて、花弁の先から熱を滲ませているみたいだ。なんて言ったら、あいつは笑うだろうか。夢中になって何度も、何度も、あいつの肌へ熱を押し当て続けた。
「樫くん、僕もする」
「何でだよ。花らしく黙って雨に打たれてろよ」
「違う。僕が樫くんにそうしたい」
「菅にでも報告しとくか。キヨスミウツボは自分で雨を降らせられます、って。大発見だな」
「そんなこと書いたら、先生に怒られちゃうよ」
くすくすと靭の喉が小さく鳴る。焦点の定まらない瞳が、俺の気配を探すみたいに微かに揺れた。
「怒られりゃいいだろ。……ほら、こいよ」
わざと衣服を擦らせて音を立てる。自分の体温がどこにあるのか、靭の耳へ教えるために。手首を掴み、シーツの上へ優しく押し広げる。ここに俺がいると肌へ覚え込ませる。
靭はてのひらに触れる熱を確かめていた。次に触れる場所を予告するように、唇の端へ親指を滑らせる。ゆっくり輪郭をなぞり、これからそこへ触れるのだと意識を集中させた。
靭が小さく息を呑む。淡い期待で開かれた唇へ、今度は静かに深く入り込んでいく。
視界を閉ざされている分、靭の感覚はひどく敏感だった。押し当てた熱を貪るように吸い上げてくる。
固く閉じていた蕾が、あたたかい雨を芯まで吸い込んで、自ら一枚ずつ花弁を綻ばせていくみたいに。塞いだ隙間から零れる吐息は熱を帯び、雨に濡れた花の蜜みたいな香りに変わっていく。
一度離れ、呼吸を整える隙を与える。
肩を小さく揺らす靭の額へ、自分の額をぴたりと重ねた。
「お前、今めちゃくちゃ甘い匂いしてる」
わざと意地悪く囁く。靭の頬が、ふわりと鮮やかな赤に染まった。真っ白な肌へ滲んだ色は、ただ雨に打たれるまま、全部を委ねて開ききっているように見えた。
「耳のうしろも、おなかも……ぜんぶ、あつい」
自分の身体に起きている変化を、靭は蕩けた声で素直に告げてくる。あいつの無防備さは胸の奥を激しく掻き乱した。
怖がらせないように。
この甘い蜜を一滴も零さないように。
掴んでいた手首を解放し、今度は俺の首筋へ細い腕を導いた。しがみつく場所を教えてやると、靭はすぐに察して俺の背中へ指先を食い込ませ、自分からもっと深い雨の中へ白い身体を預けてきた。
「たまには俺にも吸わせろ」
声を落としながら、俺は再び甘くほころびきった場所へ深く沈めていく。靭が喉の奥で小さく悲鳴を上げる。俺の背中へ立てた爪が、堪えきれないみたいに食いこんだ。
もう手加減なんて言葉はどこにもない。
靭の身体が、俺の熱を求めて激しく跳ねる。細い首筋から鎖骨にかけて、俺の唇と歯が執拗に跡を刻み込むたびに白い肌が桜色に染まっていく。靭が小さく息を呑み、力なく開いた瞳が空を泳ぐ。俺は首筋に落とした牙の跡を、親指でなぞった。
「真っ赤に咲いてる」
俺が噛みついた場所が、熱を持ってじわりと鬱血していく。白い肌に浮かび上がる紅い跡を、俺は靭の代わりに視界に焼きつけた。
「お前が俺の雨を吸い込んだ証拠だな」
自分の中で昂る熱が、どこまで届いてしまうのか分からなかった。でも、あいつの顔を見た瞬間、そんな迷いは全部どうでもよくなった。
「僕、そんなに跡ついてるの?」
「二分咲きくらいだ」
すかさず、鎖骨のすぐ近くへ牙を立てる。
靭はあえぐような声を漏らしながら、自分の肌を確かめるように指先を這わせた。熱を持った肌を指先でなぞり、刻まれた跡を確かめている。
「……樫くん、外していい?」
靭の指が俺のシャツの襟元を迷いながら探り、ボタンの硬い感触を見つける。俺は靭の手元を導いた。
「ここがいちばん上だ」
言葉を合図に靭の指が動き出す。
――ぽつり。
あいつが一つ外すたびに、俺も少しずつ隙間を侵食し、開いた胸元に熱を落とす。
二つ目、三つ目。
互いに外し合っているうちに、最後が外れ、あいつのシャツは両肩から滑り落ちた。日光を浴びないまま育った、透き通った白い肌が露わになる。触れると指の跡がそのまま残りそうなほど儚い。剥き出しの花芯をさらけ出した靭に、俺は額を押し当てた。
「きれいだ。狂いそうになる」
囁きながら、鎖骨に刻んだ新たな紅い跡を、今度は熱い舌先でゆっくりとなぞり上げた。痛みを伴うほど激しく噛みついた場所を、次の瞬間には甘く宥める。
靭は乱れた呼吸のまま、俺の背に回した腕に力を込めた。
雨がいつのまにか、抗いがたい濁流となって、意識を内側から塗りつぶしていく。
あいつの身体はしなやかな弧を描いた。
胸と腹が隙間なくぶつかり合って、古傷の位置がぴたりと重なる。浅く息を呑む気配。刃物で裂かれた跡が、今も腹の上に歪な線を残している。
「……ここ」
「ああ、お前が咲く場所だ」
昔抉られた傷口が別の熱でじくじく疼く。
俺は靭の手首を掴み、逃がさないまま自分の腹へ押し当てた。その瞬間、靭の呼吸が止まり、背中から伸びる吸器がどくりと脈打つのがわかった。
「早々くたばらねぇってわかったろ」
沈黙が落ちる。焦点の定まらない瞳から、涙が零れ落ちていく。
――そんな顔で泣くな。
胸の奥が騒がしくなる。最低だと思われても構わない。泣かれるより、俺が落とす雨に溺れている顔の方がずっといい。舌打ち混じりに靭の手首を掴み、半ば無理やり自分の熱を押しつけて牽制する。最低だと思われても構わなかった。泣かれるよりずっとマシだ。
「そんなことより、お前責任とれよ」
靭は何も言わない。ただ、泣き笑いみたいな表情で、熱を確かめるように撫で返してくる。その無防備なツラに、腹の奥がぐちゃぐちゃに掻き回される。俺の指の内側で、あいつの根が嬉しそうに叩いてくるのがわかった。
⠷⠡⠐⠫⠀⠊⠗⠕⠢ (み か げ お ち た?)
「堕ちてねーよ。ばーか」
俺は何度目かわからない、熱い雨を降らせた。このまま俺の全てであいつを満たしてしまいたい。
気づけば靭を抱き寄せていた。俺の中の熱が、抗えずに靭へ流れ込んでいく。あたたかい雨だけを降らせるつもりだったのに、触れるたびに身体の奥で水嵩が増していく。俺の中の空洞に、雨水みたいに靭が溜まっていくからだ。自分でも、もう止め方が分からない。
強くしがみつくよう促すのが精一杯だった。靭が息を漏らすたび、堰き止めていたものが軋むみたいに胸の奥が鳴る。
⠷⠡⠐⠫ (み か げ)
あいつの根が、俺の指越しに名前を呼ぶ。
瞬間、言葉にならない感情が弾け飛んだ。花が咲き乱れるような、飲み込みきれなくなった水が一気に溢れるような、脳のリミッターがぶっ壊れる感覚。
吸器がドクドクとのた打ち、俺の腹の古傷を目指して迷わず伸びてくる。組織が柔らかくほどけ、一番深いところで俺とあいつが混ざり合う。ミチ、と音がして、あいつの根っこが俺の肉の奥深くへ食い込んできた。
噛みつくように唇を重ねれば、あいつの牙が俺の唇を裂く。靭がかすれた声を漏らし、背中に爪を立てた。肉が裂ける音。全身全霊で俺を受け入れようと、あいつから放たれる甘い毒のような何かが脳に回っていく。
靭は下半身から光のように溶け出していた。一番濃い蜜を煮詰めた原液が、熱い水となって俺の中に流れ込む。あいつの身体が小さくなっていくのに、その分だけ、俺の中のあいつは鮮明に存在感を増していった。
「かた……ぎ、くん。嵐みたいだ。いっぱい降ってくる」
耳元を掠めたのはあいつの声か、俺の脳鳴りか。消えかけてるくせに、あいつはまだそんな寝言を言っている。
俺の身体の水分が全部、靭へ明け渡されていくと同時に、あいつから俺の全身へドロドロした何かが流し込まれてくる。
本当に嵐のど真ん中に投げ出されたみたいだった。心臓が聞いたこともない速さで暴れ狂う。胸の中で爆竹が連発し、破裂しそうなほどに。
あいつの液体が胸までたどり着いた瞬間、パチ、と脳内のスイッチが切り替わった。違和感が一瞬で、どろどろの甘い快感に化ける。俺は自分から体の中の扉をすべてこじ開けた。腹の古傷から、あいつが濁流みたいに雪崩れ込んでくる。
その瞬間、身体の奥から沸騰するように熱くなる。毛穴という毛穴から滝のような汗が吹き出し、目からは涙か血だか分からないものが溢れて枕を濡らした。
名前を呼ぶことも忘れていた。声が混ざり合う体液に溶け、ただの振動となって靭に伝わる。視界が弾け、真っ白い光が脳内を駆け巡った。
ふっと、俺の背中に回されていた靭の両腕から力が抜けた。あいつの腕は白い液体に解け、俺の背中にじわ……と染み込んで消えていく。身体に空いている穴という穴から、あいつの命の塊が原液のように、からっぽの俺へ流れこんでくる。
靭は俺の中に自分の居場所を作るために、俺の体内の水分を片っぱしから熱に変えて追い出しているようだった。
最後に見つめた靭の唇が、何かを紡ごうとした直後。その輪郭すら熱い水となって口内へ滑り落ちた。俺はあいつに溺れたまま、微睡みのなかへ深く沈んでいった。
――どれくらい経っただろう。
気がつくと、嵐のように騒がしかった心臓の音が静かになっていた。鉄臭い匂いと、靭の甘ったるい残り香、自分の生臭い匂いに目が覚める。真っ赤に染まったシーツの上には、俺ひとり。靭はもういない。
あいつの身体は溶けて消えたのに、身体のあちこちに根っこが残っている。俺の背中と肩にすがっていた根が、抱き合っていた形のまま俺の体から生え、俺自身を固定していた。どう考えてもヤバい見た目なのに、妙に落ち着く。
腹の古傷に、一番太い根が楔のように深く刺さっている。二カ所の傷口から滲む血を、根がこぼさないように吸い上げるのが見えた。根元は赤に染まり、先へ行くほど乳白色にぼやけている。
心臓の裏っかわに、あるはずのない熱が宿っている。ずっしりした重い塊が、俺の心臓の動きに合わせて、ここで生きてると力強く主張していた。俺が息を吸い込むと、そいつも一緒に小さく膨らむ。多分、靭はそこにいる。
暗闇の中、舌で口内の傷をなぞる。指でその凸凹を確かめ呟いた。
「下手くそ」
自分でも笑えるくらい声が緩んだ。あいつが昂ぶったままに噛み切った、俺の唇にある置き土産を何度も指でなぞる。
「……もっとしとけば良かったか」
お前の残した跡は、来年の六月まで俺のガワに残っててくれるか。脱ぎ散らかしたシャツを横目に未練がましく思う。シーツが血の色に染まっているのに、俺は無性に満たされていた。妙な興奮と熱が体の中に居座っている。俺の骨みたいなツラをして、あいつの根が身体を支えていた。
「靭、上手いことやれば木曜の現代文、聞けるかもしれねぇぞ」




