僕はただ君になりたかった
放課後の空き教室から、アンプを通したエレキギターの音が漏れていた。最初に殻沢の異変に気づいたのは、たぶん五代だった。
「……え、何これ」
五代が足を止め、引き戸を少し開けて中を覗き込む。夕暮れの斜光が差し込む教室にいたのは図書委員の殻沢。薄暗い教室の壁に、咽び泣くような音が滲む。
「なっちゃん。お前、歌すげーうまくね?」
教室に入るなり、五代がカチリと明かりをつける。殻沢は複眼の奥で、何かを必死に押し込めているようだった。
「ねぇ、植物が芽吹くときの音って聞いたことある?」
「いや、ないっすね」
五代は明らかに殻澤の頭に釘づけになっていた。外骨格の頭の隙間から、細い草が数本覗いている。
「僕はあるんだ。ここ最近、みちみちって頭の中でずっと。……撒けっていうか。弾けろっていうか。外に広がろうとする音が聞こえる」
殻澤が再び弦を鳴らした。今度は、耳の奥が痛くなるほどに歪んだ音が、アンプから吐き出され教室を満たす。
「弾いてる時だけ静かになるんだ」
音の振動に合わせるように、殻澤の頭の草が、すうっと僅かに伸びた。ついでに、制服から覗く首元からも。
「こうやって音にして外に出さないと、自分が自分でなくなっちゃいそうで」
「マジか。そんな急にわさって伸びるもんなの?成長期にも程があるっしょ……」
五代は呆気にとられたのも束の間、すぐにカバンから小さな鋏を取り出した。まるで髪型でも整えるみたいな顔で、殻沢の側頭部から伸びた葉先を摘む。
「サイドちょい重いな。切っていい?横へ流した方がシルエット綺麗だし」
五代は慣れた手つきで、急成長した葉先を整えていく。余分な草が、ぱらりと床へ落ちた。殻沢は驚いたのか、触覚がピンと跳ね上がっている。
「あれ、痛くない」
「たりめーっしょ。オレ野蒜っちの直弟子なんで。……あ!」
チョキ、と最後に一太刀入れたところで、五代の手がピタリと止まった。黒板へおもむろに向かうと、チョークを猛烈な勢いで走らせ始める。無駄にデザインだけは良い。そこに躍らせた文字は『散開LIVE』。
「閃いちゃった。なっちゃん、ライブやらん?」
「は?……なんで」
「絶対やった方がいいって。いやー、自分の才能が怖いわ。語感良すぎっしょ」
「何言ってるの。無理だよ、普通に怖がられるでしょ。……見世物みたいで嫌だ」
「違ぇよ。お前自身を見せんだろ。むしろビジュ良くね?その辺の量産バンドマンより、なっちゃんの方が全然映えてる。隠す方がもったいないっしょ」
放課後のあの日、五代の思いつきから始まった散開LIVEは、気がつけば悪ノリの坂道を転げ落ちるようにして、収穫祭二日目の体育館ステージという舞台へ行き着いてしまった。
「殻沢、ライブやるの?」
「うん、一曲だけ。でも、いつの間にか話が大きくなっちゃって……」
最初はただの身内ノリだった。有志ステージなんて、在校生と保護者がまばらに集まるだけのゆるいイベントで、数人のスタッフと数列のパイプ椅子で十分に回る。身内が休憩がてら体育館に転がり込んで、適当に拍手して、また作業に戻る。それだけのはずだった。
原因は、五代がノリでネットにアップした弾いてみた動画。外骨格の異形を隠そうともしない殻沢のサムネイル。再生ボタンを押せば、アンプから吐き出される、歪んだディストーション。それ以上に視聴者を惹きつけたのは、殻沢の声だった。
#苗床志望――SNSにいつの間にか定着した予想外すぎるイレギュラー。殻沢の胞子をその身に受け入れたいと願うファンたちによって、動画は瞬く間に拡散され、気づけば体育館の前には、知らない制服や私服の波が押し寄せていた。
本当なら、靭と一緒に後方から「あいつ、ちゃんとやれてるかな」なんて、保護者面で眺めるつもりだった。現実は、ただの雑用地獄だ。
「樫! 悪い、頼む、マジで人手足りねぇ。そこから動かないで門番やって!」
実行委員の腕章をつけた五代が、額に猛烈な汗を浮かべながら、人波の向こうで悲鳴を上げていた。すべての元凶であり、このライブの言い出しっぺが、自分がやらかした事態の大きさに顔を引き攣らせてやがる。
「苗床希望者と在校生分けて!あと一般客に胞子絶対かぶんないよう、誘導徹底な!」
五代が喉を枯らしながら指示を飛ばすが、ガヤガヤとした群衆の熱気がそれを掻き消していく。
俺は靭の肩を軽く引き寄せ、体育館の狭まった入場通路の中央に腰を据えた。急なダッシュなんてできないし、するつもりもない。だけど、俺がここに立っているだけで、通路の半分は物理的に塞がる。
俺のすぐ足元のパイプ椅子に靭を座らせ、近くにあった会議机の上に、色分けされた入場用のリストバンドの束をぽんと置いた。
「靭。ここを通る奴らの手首にリストバンドを巻いてやってくれ。自己申告制だから、苗床希望って言った奴だけでいい」
「ん、わかった」
靭はのんびり頷き、両手で器用にリストバンドの束をパチパチと整えた。
「おい、列はこっちだぞ。反対側」
パイプ椅子の隙間をすり抜けてショートカットしようとする他校の女子生徒たちに、俺はただ普通に、声をかけた。
五代が言うには、俺はデカいから普通に立っているだけで女子には威圧感を与えるらしい。カサカサと前に行こうとしていた女子生徒たちが、びくりと足を止めて俺を見上げる。
「あの、私、苗床希望なんですけど……!」
「そうか。じゃあ、そこの前で手出して。靭、次、苗床希望の人な」
「はい、右手出してね」
靭が迷いなくすっと手を伸ばす。視界が閉ざされているはずの靭の指先が、差し出された女子生徒の手首を的確に捉えた。そわそわと落ち着かない他校の生徒の手首に、靭は慣れた手つきでパチッとリストバンドを巻きつけていく。
「では左側の列へ進んでください」
靭のマイペースな対応がかえってよかったのか、女子生徒たちはそれ以上は無理に進もうとせず、大人しく指示された列へ並び直していった。
「ねえ、散開の瞬間、絶対動画回そうね。一生の記念じゃん」
「わかるー、殻沢くんイケボすぎるし。想像しただけで耳孕みそう」
「寄生って、やっぱ幸福感あるのかな。外でシチュボつきの蜜売ってたじゃん。1個買っちゃった」
「うそー。何で教えてくれなかったの?言ってよー」
入場待ちの列から漏れる軽い笑い声。こいつらは、これから自分たちが何を吸い込むことになるのか、本当にわかっているのか。
「みんな、綺麗に散ると思ってるんだね」
靭が、空になった段ボールをトントンと叩きながら呟く。会場には熱気と期待、純粋な憧れ。何かを与えられたい側の感情が渦巻いていた。壊れそうなもの、特別なものをエモい物語として消費しようとする部外者の目。思った以上に女子が多い。
……苗床は男子に限定するんじゃなかったのかよ。よく教職員が許したな。まあ、俺の知ったこっちゃねぇが。
やがて定刻になり、体育館の舞台中央から、借りてきた猫みたいに肩をすぼめた殻沢が、おずおずとマイクに口を近づける。
「……今日は、来てくれてありがとうございます」
照明に当たった殻沢のシルエット。外骨格の光沢と白い菌糸が同じ質感で光るなか、複眼が居心地悪そうに揺れていた。
「え、本人? マジで存在してた。尊っ……」
「あの姿、加工じゃないんだ。ガチじゃん」
「いや、絶対仮装だって。世界観作り込んでる系でしょ。てか声ちっちゃ」
スマホを握りしめた他校の女子たちが、キラキラした目で舞台を見つめている。異形が開花する瞬間を待ち構えている。
「え、本当にあいつがやるの?」なんて冷やかしが、後方列の生徒から漏れる。
けれど奴がギターを構え、一気に弦を振り抜いた瞬間、体育館の空気が音圧で弾け飛んだ。暗転した空間に、アンプのハウリングが長く尾を引いた。
――ギュ、ィィィィィィンッ!
歪んだ振動が床板から足の裏を突き抜け、腹の底を直接揺らす。客席が静まり返った。
歌へ入った瞬間、殻沢は別人になる。奴の声は熱気のこもった空間を、ナイフのように真っ直ぐ切り裂いていく。
冬は君の殻 夏は僕の針
加速していく 溶けていく
冬は君の跡 夏は僕の嘘
ごめんねさえも 愛に聴こえる
歌詞が生々しいのにキレイだった。今にも壊れそうな危うい声。客席の空気が変わる。誰もが勝手に、「自分だけはあいつを理解できる」みたいな悦に入った顔をしていた。
あいつは歌う。喉の奥で増殖し、骨の裏で高まった圧力を無理やり外へ吐き出すように。俺は、視線を逸らし雑用を続けた。歌詞を理解したくないのに、耳に張り付いて離れない。
鏡を覗けば君が笑い
僕の声で君が泣く
君が死んだ音がした
僕が生まれた音がした
殻沢の首筋で、白い菌糸が脈打つ。照明の熱を吸い、外骨格が剥き出しの生々しさを帯びていく。歌えば歌うほど、撒く側へ近づいていくその姿に直感する。これが最期だ。
誰かが泣いている。もう、誰もスマホなんて構えてない。内側から裂けていく殻澤の生に、全員がただ射抜かれている。
ライブが臨界点を超えた。ハウリングが鼓膜を刺し、照明の熱が酸素を奪う。声とノイズが混ざり合い、体育館の壁を押し広げるような圧となって膨れ上がる。
僕はただ君に
なりたかったあああぁぁッ!!
強烈なストロークの直後、視界が白く爆ぜた。ギターの残響だけが、主を失った空間に取り残される。
ステージには、もう誰もいない。照明の熱に照らされ、眩い胞子が雪のように降り注ぐ。外骨格は粉々に砕け散り、純白の菌糸が空を舞う。
最前列で悲鳴を上げたファンの頬に一片の胞子が吸着する。そいつは泣きながら、恍惚とした表情でそれをなぞった。止まない残響の中、エレキギターだけが横たわる。
殻沢は自分の意思でここに立ち、エモい物語を消費しに来た連中の肺胞の奥まで消えない自分を送り込んだ。奴らは、殻沢の続きを吸ってしまった。




