誰かを育てる側のすぐ近くで
「そこが実のつけ根。もうちょい上。刃を閉じろ。……そうだ」
後ろから靭の手首を軽く支える。パチンと鳴る音と同時に、切り落とされた枝が土に落ちた。そのまま靭の手を取り、切り離したトマトを包み込むように握らせる。
「できた」
「得意げかよ」
「……硬い」
「熟れてねぇからまだ少し青いな。こっちは皮薄いだろ。赤いやつはそんな感じだ」
靭の指先が、少し柔らかい表面を押した。
「本当だ、違う。赤って柔らかいんだ」
八月の後半にもなると、俺たちは実習とは名ばかりの収穫の手伝いに駆り出されていた。今日の農園も、むせ返るような緑の匂いと、収穫に浮き立つクラスの連中の声でごった返している。
これも、収穫祭の準備だと説明があった。沙倉の話じゃ、普通校でいう文化祭みたいなもんらしいが、あいにく俺はつい最近まで塀の中にいた身だ。そもそも文化祭が何なのか、イメージすらまともに湧かない。
とにかく、この園では植物らしく何かしら育てたもんで、地域に還元するのが決まりらしい。……食われる側が自分を差し出して喜ぶなんて正直、意味わかんねぇな。
「うわ、このナス重っ! 見てよこれ」
「こっちのトマトもやばい、弾けそう」
あちこちで土を跳ね上げる音が響く。野蒜は生徒の適当な報告に短く応じながら、黙々と手元の枝を整理していた。
パチン。
乾いた音が周囲の笑い声に混じって響いた。片腕だけで迷いなく銀色の刃を滑らせると、余分な枝が吸い込まれるように地面へ落ちていく。
パチン、パチン。
剪定鋏の音が、やけに鼓膜に入ってくる。野蒜の周りだけ、実習の浮ついた熱から切り離されてるみたいだった。
隣を見ると、靭の吸器が足元の土へ細く沈んでいる。
「足元で、前の人たちの気配がする」
あいつはぽつりと呟いた。教室で俺が座っている席に、かつて座っていたらしい名前も顔も知らない奴ら。俺は、野蒜の手元から足元の黒々とした土へ視線を落とし、長靴の先で軽くつついた。
「なあ先生。この土、前のペアが作ったって本当なのか」
鋏の音が止まる。野蒜は視線を落としたまま、切っ先で無造作に地面をなぞった。
「不適合で早々に切り捨てられたバカどもが、最期まで往生際悪く足掻きやがった成れ果てだ」
土を抉り出して指で弄んでやがる。
「好き勝手に身体を弾けさせやがったせいで、この土は無駄に育ちがいい」
土は、確かに柔らかく濃い色をしていた。五代がいつかほざいていたパワースポット、なんて言葉を思い出す。明らかに崩れかけた見た目の奴らが、俺の席に向かって必死に拝んでいるのを見たことがあった。
そいつらが言う伝説とやらの正体が、自分たちが今踏みつけているこの土なんだと、ようやく実感がわいてきた。
「死に体のバカ共が、一番命の育つ場所に変わるなんてお笑い草だろ。間違っても真似するな、良くねぇ前例だ」
野蒜は自嘲気味に吐き捨て、遠くを見やる。
「俺みたいな、開花すらろくにできなかった寄生種にできるのは、こうして後始末をするくらいだ」
靭が、ゆっくりと顔を上げた。視線なんて合うはずもないのに、まっすぐ野蒜を見すえているみたいだ。
風が抜けて、ナスの葉が擦れる音だけがする。野蒜は、靭から目を逸らした。鋏を持つ手が止まっている。
「……清澄。お前までそんな顔するなよ」
思わず野蒜の空いた袖口を見た。いつも通り袖がプラプラしてるだけのはずなのに、今は妙に目につく。踏みこむには生々しすぎる気がした。
「気になるか」
沈黙のまま、鋏の音だけが響く。
「別に隠してるわけじゃねぇよ。大した話じゃねぇ。昔、調子こいて咲かせすぎた。不適合だった。それだけだ」
「野蒜君、昔は凄かったんだよ。香りというか色気がね。今じゃ見る影もないけど」
いつの間にか、眞継が話に割って入ってきた。野蒜はどう見ても、くたびれたおっさんだ。眞継。お前は一体、何年留年してたらそんな昔を知ってるんだよ。
「近くにいるだけで頭がぼーっとするとか、やたら気分が浮つくとか、ペアじゃない苗床まで夢中にさせて」
「眞継お前、こいつらに余計なこと吹き込むなよ。……まあ、今思えば笑える話だな」
眞継の茶化しに応えるように、片腕の袖が風で少し揺れる。目は笑っていない。
「馬鹿なガキは勘違いするんだよ。求められてる気になってな」
鋏の先が土を掘る。ざり、と湿った音。
「技術的誤認だ何だというが、蓋を開けてみりゃ寄生種なんてもんは、宿主どころかてめぇ自身もろくに管理できやしねぇ」
野蒜の視線が靭に向いた。
「引き剥がされた時には、宿主のほうはまともに立てなくなってた。俺は腕一本で済んだ」
野蒜はポケットをゴソゴソと漁り、短く舌打ちをした。目当ての煙草が空だったんだろう。紙箱を指先で握りつぶす、小さな音が聞こえた。
「運が良かったんだとよ」
「先生、質問していいですか」
「なんだ、清澄」
「その方は今も、生きていらっしゃるんですか」
靭の問いに、野蒜はすぐには答えなかった。潰れた煙草の箱を弄びながら、畑の向こうへ視線を投げる。
「ああ生きてる。左半身はほとんど動かねぇ。車椅子だ。けど、しぶとく生きてる」
鋏が鳴り、実をもぐ音が響く。
「あいつには嫁もいる。ガキもできた。……だから清澄、そんな顔するな」
目の前の先公にとって、それが救いなのか罰なのか、俺にはよく分からなかった。
「娘さん、すごく可愛いんだよ」
「眞継、お前マジで黙れ」
「おーい、野蒜っち。これ、どうするんすか?」
五代が収穫カゴの脇に置かれた、重みで枝を撓ませている真っ赤な実を指して大声で叫んでる。野蒜はいつもの不機嫌な顔に戻っていた。
「収穫祭までにジャムにする」
「了解っす」
五代は軽く手を挙げ、そのまま駆け寄ってくる。その途中で、俺たちの足元を見て動きを止めた。
「あれ?」
ニヤ、と奴の口角が上がる。
「樫。ツボちゃんが、目の前で土に寝取られてるけどいいんすか?」
「は?」
五代が顎でしゃくった先には、まだ土へ沈んだままの靭の吸器があった。
「だってソレ、前の苗床の残りカスっしょ?根っこ突っ込んで感じてるなら、もう半分浮気じゃ」
ゴッ。
「いっっ……!? ちょ、樫?マジで蹴る!?」
「キモい例えすんな」
靭の吸器がゆっくり土から離れる。
「吸器汚れちまったな。洗いにいくか。……ちゃんと洗えよ。そのまま俺に突っ込んだら、はっ倒すからな」
「洗うよ、でも上手くとりきれるかな」
「取れなかったら、ごぼうみたいにタワシで洗ってやる。安心しろ」
「ええ、痛そう」
背後で、眞継が何か言った気がした。野蒜の低い声が返るも、クラスの奴らの声に混ざってよく聞こえなかった。
「さっさと行くぞ」
俺は靭の腕を軽く引っ張った。
「期日までに手紙提出しておけよ。特に収穫祭に開花合わせるやつら、保護者が読むことを想定して書け。適当書いて恥かくのはお前らだからな」
その日のホームルーム終了間際、野蒜の投げやりな声が教室に響いた。教室が弾かれたようにざわめきが広がる。
「またアレ書くのかよ」
「去年、全文書き直し食らった先輩いたらしいよ」
不平不満が渦巻く中、野蒜は教卓に手をつき、気だるげに視線を走らせた。
「提出遅れたら実習も止まるぞ。ペア名義だから、片方がバックれても無駄だ」
教室内に「無理」「マジかよ」という声と、重たい沈黙が混ざり始めた。俺は窓の方を向いたまま、頬杖をついてそのやり取りを聞き流していた。
「なんなんだ、その手紙って」
左隣の席の殻沢の複眼が、何とも言えない鈍い色に光っている。
「日ごろの学習のまとめ報告なんだけど、開花直前の生徒は必須で書くやつ。遺書とかラブレターとか、好き勝手言われてるけど……大体合ってるよ」
誰かが笑った。だが、その笑いはすぐに立ち消えた。教室の温度が、一気に数段階下がったのがわかる。
半寄生のペアは他人事を決め込んでいるが、全寄生で開花時期を収穫祭に合わせて調整している連中の一部は、石像のように固まって動かない。野蒜だけが、その光景を笑いもせずに、ただ冷めた目で見下ろしている。
(作文提出とかだりぃな)
内心で毒づいた。学校側の言い分なんて透けて見える。開花は名誉、家族への感謝。実体は、キレイにラッピングされた遺書の強制だ。
『ぼくのお母さんは、千円札一枚だけ置いて遠くへいってしまいました。雪が降っていて、すごく寒い日でした。でも、先生たちがぼくを見つけて、本当の愛を教えてくれました。ぼくがいま生きているのは、先生たちのおかげです』
孤児院のパンフレットに載せられる、かわいそうなガキの作文を思い出して、吐き気がした。
⠡⠕⠐⠣⠩⠴ ( 樫くん )
皮膚の内側を叩かれる感触。靭が俺を呼ぶ。あいつはただ、空気の微かな揺れを感じ取っているようだった。
「何だよ。直接話しかけりゃいいだろ」
「親御さんに読まれるって、そんなに嫌なことなのかな」
「さあな。喜ぶ奴もいりゃ、吐きそうな顔してる奴もいるな」
実際、この教室にいる連中の家庭環境はバラバラだ。てめぇのガキを研究資源としか見ていない家もあれば、妙な価値観を押しつける親もいる。
( そもそも、書く相手がいねぇ奴はどうすんだ )
脳裏にいくつもの断片がよぎった。警察の取り調べ室で出された、冷めた茶の味。面会室のアクリル板を叩く乾いた音。
『お前はまだ、子供なんだぞ』
自分のことのように怒鳴った弁護士の顔。背後にいた刑務官の悲痛そうな顔。あいつらに向かって、何を今さら書くことがある。今さら冤罪でした、なんて蒸し返すのか。そんなことしても誰の時間も戻らない。
――俺は死に損なって、まだ生きています。おかげさまで今も、誰かを育てる側のすぐ近くにいます。
遠回しな生存報告。無意識に書いた『おかげさまで』の文字を消しゴムで消す。俺の手紙は、たった二行で終わった。
「僕は、菅先生に書きたい。僕をここまで繋いでくれたから」
靭の言葉は、案の定
まっすぐだった。恩を恩として真っ当に受け取れる感性に、俺は思わず目を逸らした。
「どうせ下書きに何時間もかけるんだろ、お前は。日が暮れそうだな。で、何書くつもりなんだよ」
「樫くんが教えてくれた、カルピス牛乳割りの黄金比」
「のんきだな、お前」
窓の外では、八月の終わりの太陽が照りつけていた。




