君の名前はひと休みする為にある
職員室に座る野蒜の前に、俺は一冊のノートを叩きつけた。
「先生。少しいいか」
「何だよ、朝っぱらからうるせえな」
窓から吹き込む初夏の風が、空気をかき混ぜる。相変わらずこいつの周りはヤニ臭い。野蒜は面倒くさそうに灰を落とすと、ようやく俺の方に視線を寄こした。
「全潜りには、技術的誤認とやらの数値が必要なんだろ。真田……先生の論文に書いてあった。『互いの感情を利用した変数稼ぎの外出』が許可とればできるって、園の規定に書いてあったから申請しに来た」
真田の論文を切り貼りしたノートを一瞥し、野蒜は鼻で笑う。
「一丁前に論文だぁ? ロクに読めねえくせに。……それよりお前、真田先生からパクったスマホは返したのかよ」
「借りたんだよ。さっき返した。よくわかんねえけど泣いて喜んでたぜ。そんなことより、早く書類をくれ」
「却下。いらねえだろ、そんなもん。お前ら、今ですら数値がハネすぎてて、菅先生がデータ整理で頭抱えてるって聞いたぞ。……それに、お前らは他の個体より許可が出しづらいんだよ」
「俺に前科があるからか? それとも、あいつの目のせいか? 俺の介助じゃ無理なのか」
「そういう理由じゃねえよ。清澄はレッドリスト入りの保護個体だ」
ふと、温室で靭と交わしたやり取りが頭をよぎる。
「お前が咲く予定の花、研究所で触ったとか言ってたけど、外の自然で咲いてるヤツを見たことがあるのかよ」
首を横に振るあいつに、俺は言った。
「だったら、お前の同類の姿でも拝みに行くか」
「キヨスミウツボ……本物の花かぁ。本当に群生してるのかな。ねえ、電車とか乗れるの?」
花が咲くみたいに顔をほころばせた、あいつの面が脳をかすめた。ここで引き下がるわけにはいかない。
「……見届けられねえんだよ」
「はぁ?」
「俺は来年、清澄がどんな花を咲かせるか見られねえ。開花しちまったら、俺の意識はもうねえはずだろ」
ふざけた口調で誤魔化そうとしていた自分の中から、切実な本音がこぼれ落ちる。
「だからだ。あいつが満開になる前に、本物を、自分の目が視えてて意識があるうちに見ておきたい。それのどこがいけねえんだよ」
職員室が変に静かになった。苗床の分際で、死に際まで気にしてる自分がクソダサく思えてくる。野蒜は煙草の先を灰皿で叩くと、小さく溜息をついた。
「本当、めんどくせえ苗床だな」
野蒜は呆れたように眉間を揉むと、引出しから外出届を取り出して、俺の前に放り投げた。
「日帰り。門限は午後六時だ。稟議通すのがクソだりいから、三日以内に出せよ。何か問題を起こしてみろ。お前らまとめて鋏入れるからな」
「おう」
「ったく、舐められたもんだ。……せいぜい吸器を引っ掛けられないように気をつけろ。マジでクッソ痛えぞ」
野蒜の視線が、一瞬だけヤツの欠けた右腕に落ちた。
(まさか、先公もやらかした口か?)
急に笑えてきて、緩みそうになる口元を必死に堪える。
「何ニヤついてんだ、気持ちわりい。さっさと出てけ。会議が始まる」
「言われなくても、用が済んだらすぐ消えてやるよ。先生、サンキュ」
「ありがとうございますだろ」
俺は野蒜から外出届をひったくるように掴んで、職員室の扉を引いた。
半月後の週末、俺たちは予定通り、あいつの同類を拝みに山へ出かけた。駅の改札を抜けて、靭と一緒に電車に乗り込む。久しぶりの娑婆の空気は、排気ガス臭くて懐かしい。
横を歩く靭は俺の服の裾を掴み、視えないなりに辺りを探っていた。白杖を鳴らす音がいつもより浮かれてる。発車ベルの音に驚いて、肩をビクつかせてやんの。
「ドア閉まるぞ。捕まってろ」
呼びかけると同時に、プシューという音を立てて扉が閉まった。車輪がレールを噛む音が響いて、不規則に車体が揺れる。靭がふらりと重心を崩し、俺は慌ててあいつの肩を支えた。
「わ、すごい揺れるね。吸器ちぎれないようにしなきゃ。……電車ってすごいな。不思議な匂いがする」
靭の声は期待で弾んでいた。電車のなかは、他人の柔軟剤の香りと空調の風が混ざった匂いが漂っている。金属の擦れる音とアナウンスが、耳をくすぐるように流れていく。
俺は窓の外に目を向けた。
「今はまだ街だけどもう少し行けば、山の緑が見えてくるぜ」
「僕の先輩たちがいるところだね」
「ああ。この時期になると、三号路にお前みたいなヤツらが木の根元に生えてるらしいぞ」
「楽しみだな、あと二駅先で着くんだっけ」
「次はトンネルがくるぞ。音が変わるからな」
靭は景色なんて視えもしねえのに、窓ガラスにガキみたいに手を当てていた。よほど嬉しいらしい。俺の体内に居座ってるあいつの根も、心なしか跳ねてやがる。
電車の振動すら、こいつにとっては世界と繋がるための貴重な感触なんだろう。
駅に着いて、しばらく山の小径を歩くと、ふわりと湿った空気が濃くなった。雨粒をまとった白いアジサイが、ふんわりした真っ白な雲みたいに咲き誇っている。その株元に、キヨスミウツボが咲いていた。
思ってよりもずっと小せえな。
「着いたぞ。これがキヨスミウツボか」
白杖の柄を握り直す靭の手をそっと引き、しゃがみこませる。あいつがゆっくりと指先を伸ばして花に触れた瞬間、ほのかに甘い香りが手元に漂った。
「ふふ。ひんやりしてて、むちっとしたお餅みたい。硬いのに柔らかい。静かで、あたたかい匂いがする」
「そうか。ぶっとくて白いストローが束になってるみてぇだ。花びらが四つ、いや、五つとか六つのもあるな。ガバガバかよ、適当なんだな」
「いち、に……あ、本当だ。数が違う」
俺の雑な説明に靭は笑いながら、指先を動かした。しゃがみ込んだ、ちょうど目線のところにアジサイの大きな花房がある。
俺は、あいつの横顔を見ていた。あいつは、どの白とも違うが、どれなら同じなのかしっくりこない。俺は、自分で思っている以上に視えることに甘えて、周りの色を雑に見ていたのかもしれない。
同じ白でも、アジサイの白は雨粒が光って緑っぽかったり、青みがかってたりもする。けど、キヨスミウツボの白はうまく言えねえけど、生クリームみたいなコクがある。靭、お前はどうだ。体温のある白。俺みたいな、掃き溜めの血を吸ってるのに――
――キレイだな。
「どうしたの?」
「いや。お前の髪も肌も白いから、花と同化して見失うかと思ったけど。案外そうでもねえなって」
「そうなの? 僕はどんな白?」
「そのうち点字で教えてやるよ。俺がくたばる前にな」
「じゃあ、期待してるね」
「ほら、目線のところにアジサイがあるぞ。触るか?」
靭が頷いたのを確認して、俺はあいつの手をもう一度引き寄せ、大きな花房に触れさせた。これだけ根元で豪快に群生してりゃ、てっきりアジサイの方が養分を吸い取られてしょぼくれてるかと思ったが、そんな気配はない。むしろ堂々と立派な花を咲かせている。
「ちぎった和紙みたいな花……柔らかい。これ、ガクかな? たくさん集まって、大家族みたいだね」
靭は楽しそうにアジサイに指先を滑らせていた。心なしか、俺の中にいるあいつの根も緩んでる気がする。
大家族――
俺がいた施設のガキどもの顔がよぎって、すぐさま記憶のシャッターを下ろした。
「俺みたいなのといるより、アジサイと一緒にしてやった方が、お前もよっぽどキレイに咲けそうだな。華やかだし、お祭りみたいだ」
「ううん。僕は樫くんがいい」
自嘲気味に吐いた言葉に、あいつはそっと微笑んで首を振り、根元でひっそり育つキヨスミウツボをもう一度撫でた。
「樫くんの名前、気に入ってるんだ」
あいつが俺の両手に指点字を打つ。
⠷⠡⠐⠫⠀⠎⠀⠅⠵⠋ (みかげ の なまえ)
⠧⠞⠌⠹⠷ (ひとやすみ)
思わず顔を背けた。自分が疎んでいる名前の響きを、そんな風に解釈されたのは生まれて初めてだった。
「なんだよ急に」
「ただの事実だよ」
「俺の言い方真似してんじゃねえよ」
「ふふ、真似されてるんじゃねーよ?」
肩越しに伝わる清澄の体温が、急にズシリと重くなった気がして、耳まで熱くなる。
靭は少し身を乗り出すと、俺の右腕の点字のケロイドに自分の指先をそっと重ねてきた。
「今ここで息をして話してる時間が、一番休まるんだ。樫くんという木陰で、僕はちゃんと呼吸できてる」
「そうかよ」
言い返そうとしたが、喉の奥が詰まって何も出なかった。耳元を通り過ぎる風の音や、遠くで鳴く鳥の声が、やけにくっきり聞こえる。
こいつと一緒にいると、普段気にしねえような些細な音までいちいち入り込んで、柄にもなく悪くねぇなって思っちまう。
「お前が言う通り、ひと休みでもするか。ここから少し歩いた先に座れる場所があるらしい」
あいつの同類どもと別れを告げて、アスファルトで固められた遊歩道まで戻る。さっきまでの静けさが嘘みたいに、にぎやかな音がなだれ込んできた。
カチカチ地面を叩く登山ストックの音に、他の登山客の話し声。どこかの売店から漂ってくる、焼き団子の醤油の匂いが鼻をくすぐる。山頂の広場まで来ると、ケーブルカーの駅から吐き出された観光客どもでごった返していた。
「少し付き合え。いいもの見つけた」
俺は靭と人混みに紛れ込んだ。売店の看板には、渦巻きのソフトクリームが並んでいる。
バニラ。少し黄色みがかった、生クリームみてえなコクのある白。やっぱりさっきのキヨスミウツボの色に似てる。ソフトクリームをひとつ買い、ベンチの横に座って靭の前に差し出した。
「ほら、食ってみろ。甘い匂いがするだろ」
「おままごと、まだ続けていいの?」
「当たり前だろ。雰囲気だよ、雰囲気」
「樫くんは食べないの?」
「俺が横取りして食うから問題ない。……早くしねえとお前の分がなくなるぞ」
嘘だ。全部あいつに食わせたかったし、そもそも二つも買う金なんてねえ。だけど、そうでも言わなきゃ、こいつは遠慮して俺に差し出してくるに決まってる。
「実質、俺が苗床の分際でお前の概念を食い散らかしてるみたいなもんだよな」
めちゃくちゃな理屈を吐いて、さも自分も食っているような芝居を打つ。俺は、あいつが手探りでスプーンを運ぶのを横で見守った。ひんやりした甘さと、ほのかなシャリシャリ感。栄養にならなくたって、温度や味くらいは、靭に伝わるはずだ。
「……うまいか?」
さっきまであんなに毒づいてたのに、自分の口から出たのは、呆れるくらい甘ったるい声だった。俺のニヤついたツラは自分じゃ見えないし、あいつも視えない。だから俺が今どんな顔をしてるかなんて、知ったことじゃない。
このくらい不自由な方が、俺にはちょうどいい。冷たい甘さを口にしたこいつは、くすくす喉を鳴らして笑った。
「変な樫くん。……でも、美味しいね」
胸の奥がこそばゆくなって、視線をそらす。すぐそばで咲き誇る賑やかな花どもを眺めながら、俺はわざと溶けかけたソフトクリームを靭の唇に押し当てた。
「来年咲くならお前もこれくらい、旨そうな色になれよ。そうなったら、俺の盲導犬の役目もおしまいだ。清々する」
「ふふっ……つめた。……樫くん、うそつき」
靭は俺の血管を吸器で微かにトクトクと叩きながら、可笑しそうに喉を鳴らしている。
「食いながら喋ってんじゃねーよ、行儀悪ぃな」
毒づきながらも、俺は靭に対してより深い木陰を作っていた。




