苗床の分際でステイでよろこぶな
初めての開通を終え、教室の扉を引く。視線の束に思わず舌打ちしそうになった。クラスの連中が何を期待してるかは、バカでもわかる。吐き散らしたような匂いか、拒絶反応で青ざめたツラ。事後くせぇ生々しい雰囲気だ。
あいにく期待通りにはいかなかったらしい。俺はいつも通り靭の隣に立ち、靭は俺の腕に吸器を繋いだまま、白杖で床を叩いて静かに歩いて席につく。
「嘘だろ。あいつらマジで開通確認今やってきたの?」
「普通、もっとこう……なんかあるだろ」
期待外れで肩透かしを食らったんだろう。教室を支配していた妙な緊張がプツンと切れて、五代が弾かれたように机を叩いて爆笑し始めた。
「ぎゃはは! 奇跡の生還かと思ったら、なにそのビジュ。ツボちゃんが白杖持ってるせいで、樫、お前マジでリード繋がれた盲導犬じゃん!」
「五代、うるせーよ。どけ」
「うわ、犬が喋った!笑いすぎて肋いてー」
調子こきやがって。五代の言葉に周りもクスクス笑い始める。
「ツボちゃん、こいつマジで名犬の素質あるっすよ。試しに『お手』って言ってみ? こいつ、意外とノリいいからさ」
後で覚えとけよ、と五代をジト目で睨みつける。隣にいる靭は楽しそうにクスクス笑いながら、スッと迷いなく手を差し出してきた。
「樫くん、お手」
「チッ、お前まで」
文句は口にするものの、身体は勝手に動く。俺は靭の手のひらに、自分の手をポンと重ねた。
「ぎゃははは! マジでやった! 忠犬すぎるだろ!」
椅子から転げ落ちそうになって笑う五代の頭を、俺は軽く小突いてあしらう。
「いいから座れ、邪魔だ」
揶揄われてはいるけど、腹は立たない。こいつには、何を見せても大丈夫だっていう、妙な安心感があるからだ。
五代の騒ぎを横目に、生徒会ペアの佐倉と与謝野が、呆れながら近づいてきた。
「全く、五代くんはしょうがないんだから……。二人とも開通お疲れさま」
沙倉が、俺と靭の肩をまとめてぽんと叩く。その手のひらから伝わる熱は、苗床のひ弱さなんて微塵も感じさせない、生命力そのものだった。
「タモさん、冊子を二人に渡してくれる?しばらくは慣れないだろうから、これに目を通しておくといいよ」
与謝野が冊子を差し出して補足をする。
「生徒会で作った吸器をつないだときの生存ガイドです。夜間の連結索の扱いとか、緊急時の切り離し手順……あと、直結後の報酬系発動あたりかな。意識が混濁した時の先生への連絡方法は、一回練習しといたほうがいい。本当、油断してると何が起こるかわかんないから」
「……ああ、わかった。助かる」
受け取った冊子を開くと、並んでいたのはくっそゆるいイラストのガワを被った不穏すぎる事故事例のオンパレード。でかでか躍る赤文字の注意!が、余計にヤバさを引き立てている。
『連結索の絡まり、ヨシ!』
ヨシ、じゃねーよ。
棒人間みたいな二人が、寝返りを打った拍子に縄跳びみたいな連結索で互いの首を絞めつけ、次のコマで泡吹いてぶっ倒れてる絵。
『吸器の無理な引き抜き、ヨシ!』
報酬系でガンギマった苗床が、「俺はイケる」とトチ狂って無理やり吸器を引き抜き、血をブシャアと噴き出している、シュールな注意書き。
『過剰吸血による貧血、ヨシ!』
「気持ちよすぎて止まらなかった」という供述と共に、干からびてスルメみたいになった苗床と、血を飲みすぎてパンパンに弾けた、フグみたいな寄生種の絵。
パラパラめくりながら、眉間に皺を寄せる。
(なんだこれ。バカの博覧会かよ)
「靭、お前気をつけろよ。寝相が悪いペアは、寝る前に互いの手首を拘束すること。じゃないと死ぬんだとさ」
「えっ、死んじゃうの……?」
「お前、寝相わりぃからな。蹴りいれてくるし。まあ、こんな間抜けな真似はしねえけど」
鼻で笑いながら言うと、隣にいた佐倉が、底なしに哀れむような目で五代を見つめた。
「樫君。あんまり言わないであげて。冊子ができるまでは、安全管理が徹底されてなくてさ」
「待て。佐倉、その目はなんだ。……五代、お前かよ!?」
五代が視線を逸らす。タンスに指をぶつけるどころか、全身の神経を逆撫でして気絶するレベルの激痛をその身で体現してきた男。こいつお調子者どころか、歩く事故事例集だったのかよ。
冊子をめくり、ひときわ異彩を放つページに目が止まる。
『緊急剪定時の妨害行為 教職員への暴行厳禁』
今までの不注意なミスとは根本的に異なる図解。苗床が泣き叫びながら手術用ハサミを手にした先公を殴り飛ばしている。
――寄生種の生命維持が限界に達した際の緊急剪定は、苗床の生命保護を最優先とする。感情に任せた執刀妨害は、共倒れを招く最も愚かな行為である。過去に教員が負傷し、処置が遅延した事例あり――
「これ、事故のジャンル違くねーか」
「あー、いや、その。若気の至りっていうか黒歴史っていうかさ?」
「マブい笑顔が見たいから、ペアの子に痛い思いさせたくないって、五代君の猪突猛進を止める術がなかったんだ」
与謝野が眼鏡をクイと押し上げ、冊子に目を落とす。感情を押し殺してるみたいに。
「適合率が不十分な段階での強制剪定は、寄生種を死に至らしめる。それを承知で先生はハサミを入れ、五代君は先生の鼻柱を叩き折ったんです……結果として、代償を脳の損傷という形で背負うことになってしまって」
「ちょ、二人ともしんみりさせすぎ! 俺、あの時マジで必死だったんすって!」
五代は、茶化すように自分の後頭部をガシガシ掻いていた。
「野蒜っちがハサミ持ってきたとき、あいつの根がビビってんのが伝わってきちゃったんすよね。……身体が勝手に動いちゃったっていうか? 『俺のツレにハサミ向けてんじゃねえ!』って。ま、結局、力ずくで引き剥がされちゃったけどさ」
ケラケラ笑う視線は、病室で見た最期の笑顔を探しているようだった。
「だから俺、剪定師になることにしたんすよ。誰かに無理やり切られるくらいなら、俺の手で一番マブい形に整えてやれんじゃんねって。先生を殴ったやつが剪定師志望とか、笑えるっしょ」
おどけて親指を立てる五代の手首には、リストバンドがされている。強引に割かれた歪な傷跡が隠しきれていない。状況を想像すると、奥歯の裏が苦くなる。
もし俺が、靭の根を満足させられくなったその時は、先公があいつを俺から剪定しに来るんだろう。
——そんな真似は、死んでもさせねぇ。
不穏な想像を振り払うように、俺はいつもより早く、靭を連れて共同浴場へ向かった。
湯気で真っ白に煙る中、俺は靭の体を洗っていた。石鹸をしっかり泡立てて、ガキの体を洗うみたいに、指先の力加減に神経を集中させる。
「じっとしてろ。沁みたら言えよ」
髪の生え際から耳の裏、吸器の接続部のキワまで。自分でも引くぐらい手が勝手に動く。この手慣れたスピードと力加減は、たぶん、身体が覚えてしまっている。孤児院にいた頃、俺の裾を掴んで離さなかった小せぇチビどもの感触を。
(靭も、あいつらと同じだ。俺が目を離したら、すぐどっかで壊れちまう)
靭の背中にある吸器も、俺にはそんなヤバいものに見えなかった。ただ一生懸命に栄養を欲しがっている、幼い口。
(腹を空かせてる奴に、自分のメシを分けるのに理由なんていらねぇだろ)
くだらねぇことを思いながら、俺は黙々と指を動かし続けた。けれど、吸器の根元を撫でる俺の指先に、靭がわずかに肩を揺らす。視界を奪われているからこそ、こいつは肌に触れる温度の変化に敏感なのかもしれない。
されるがままになっている靭の表情は、どこか遠くを見ているような、俺の奥底を覗き込んでるような、妙な静けさを持っていた。
「樫くん。君は、僕の向こう側に誰を見ているの?」
呟きが湯の音にかき消される。俺が聞き返すより先に、靭はいつもの、何を考えているのかわからない微笑に戻った。
俺の習性をこいつに見透かされているような気がして、俺は逃げるようにシャワーの蛇口をひねった。
脱衣所の鏡の前。風呂上がりの湿気の中、俺は手慣れた手つきで連結索をセットしていく。指先の感覚は、施設でチビどもの靴紐を片っ端から結んでやっていた頃と同じだ。
ふいに、靭が俺の服の袖をそっと掴んできた。かつて俺の裾に縋りついてきた感触と重なって反射で手が動く。俺は靭の頭を、ぽんと軽く叩いた。
「よし、完璧だ。……行くぞ」
靭の腕をとり顔を近づけた瞬間、あいつはそっと手を伸ばして、俺の前髪をかき上げた。
「……靭?」
驚いて動きを止める。盲導犬としての役割に徹していた俺の、無防備になった額に、靭はそっと唇を寄せた。
「犬にだって、おでこにキスくらいするでしょ?」
靭の声は穏やかだった。俺が必死に守ろうとしてる能書きは、あいつには最初からどうでもよかったんだ。
盲導犬にキスしちゃいけないなんてルールはどこにもない。俺が自分を犬だと言い張るなら、靭はそのまま受け入れることにしたらしい。
あいつは、俺がこうして誰かの世話を焼くことでしか自分を証明できないヤツだってことを多分知ってる。だから、そのままでいいと、唇ひとつで俺を全肯定してきたんだ。
「バカか。お前は」
突き放したものの、自分でもわかるくらいにたじろいでいた。
施設でのお兄ちゃんでもなく、掃き溜めでの番号でもない。苗床でも盲導犬でもない、ただの俺が、こいつの唇の熱だけで、何年ぶりかに引きずり出されたような感覚。
「行くぞ。……変なことすんじゃねぇよ」
「ふふ。……うん、行こう。樫くん」
顔が熱い。靭に悟られないよう、俺は乱暴に前を向いて歩き出した。リードは繋がれたまま。相変わらず靭の隣を歩き、靭は俺の腕を掴んで白杖をついて歩く。でも、その形はさっきまでとは少し違っていた。
部屋に戻って明かりを消した瞬間、空気が一変した。昼間の介助者の皮が剥がれ落ちていくのが自分でもわかる。
「さっきは随分と余裕だったな、靭」
俺の血管を捉えている靭の腕を、わざと強く引き寄せてベッドに押し倒した。風呂場での仕返しだ。今度は世話じゃなく制圧しにかかる。
「教室で好き放題言ってくれたな。犬にキスだ? 随分と飼い主面じゃねぇか」
指先で、靭の耳裏や吸器の根元をなぞる。洗いたての肌が指に吸いつく。
「なら、最後まで責任持てよ」
耳元で低く囁き喉元に手をかける。逃げられないように押さえ込んだ。
「……あ、樫くん、まって……ひゃっ」
首筋から肩にかけて、跡が残らない程度に確実な重みで噛みつく。
「好き放題に俺の血管噛みやがって。……だったら、俺もお前のどっか噛んでも文句ねぇよな」
ただの威嚇だから一瞬で済ませるはずだったのに、一度沈めた歯は離れることを拒み、靭の肌へ当て続けてしまう。血を奪われてる分、俺の体温と重さで全部上書きしてやりたい気分だった。
靭の心臓が激しく跳ねている。
俺の全部を感じろ。
あいつの熱に触れて、俺はただの余裕のないガキになっていた。攻め込んでいるはずなのに。靭は、俺がまだ犬の役割を捨てきれていないことを見抜いたように、わざとらしく笑って言った。
「ふふ、樫くん。……ステイ」
その瞬間、俺の動きは彫像みたいに止まった。ドクドク血管が波打ち、押さえつける腕には力がこもったまま。
屈辱どころかむしろ、ホッとした。待てと言ってくれるこいつがいる限り、俺は一線を越えて、この温かな関係を壊さずに済む。
「グッド。いい子だね、樫くん」
髪の隙間に指の腹が滑りこんで、俺の頭にゆっくり沈む。自分でも忘れてたような古傷を一つずつなぞられてるみたいだった。
『そのうち、樫君にもわかるよ。君の中身を、宝石みたいに大切に扱ってくれる相手が――』
なんでこんなときに、俺は沙倉の言葉なんて思い出してんだよ。正直、誰かに真っ当に構われるなんて慣れてない。一人の人間として正面から向き合われたとき、どうすりゃいいのか教わってこなかった。
だから、こうして犬の役割で、あいつの手に身を預けてる間だけは。この胸焼しそうになる仕草を素直に受け取っていいと言い訳がつく気がした。
「チッ。本当にお前は……」
舌打ちしながら、結局そのロールプレイに従っちまう。
「樫くん、シット。動いちゃダメだよ」
「命令してんじゃねーよ。誰が犬だ、あぁ?」
俺の腕の強さも、落とす熱も、屈服させられているフリをしてることさえも、全部こいつは分かってる。だから、わざとくすぐったそうに身をよじって煽ってきやがる。
「ふふっ、くすぐったいよ。ほら、やっぱり言うこと聞かない。駄犬がいるな」
「お前、マジでいい度胸してんな」
凄んでみせるけど、重ねる唇が優しくなってしまう。吸器から血を吸われていることなんて、もう前提条件だ。ただの幼稚なじゃれ合いに夢中になっている。
悪態をつきながら、靭の隣に倒れ込んだ。今度は本当に犬みたいに、靭の胸元に顔を埋める。
「満足か。さっさと吸え。吸ったら寝るぞ」
結局、また血を分け与える日常に引きずり戻される。忠犬でも駄犬でも好きに呼べよ。
「うん。樫くん、おやすみなさい」
ステイなんて言われるまでもない。俺は自分から、この場所を離れないことを選んで、深い眠りへ落ちていった。




