第三章・故郷〜水戸・那珂、遠い空
台湾から二千二百キロメートル。海を隔てた日本の茨城県。
水戸市。徳川御三家の城下町として栄えたこの街は、日本を代表する観光地の一つである偕楽園を擁し、納豆の産地としても名高い。那珂市はその隣に位置する、田園が広がるのどかな地域だ。
杉浦茂峰は、この二つの市に深い縁を持つ男だった。
大正十二年(一九二三年)十一月九日。水戸市で生まれた彼は、五軒尋常小学校、三の丸尋高等小学校と、いわば「水戸っ子」として育った。戦後、行政区画の整理によって那珂市の一部となった地域にもゆかりがあり、現在では両市が「故郷」として彼を顕彰している。
しかし——長い間、日本では杉浦茂峰の名は知られていなかった。
いや、正確に言えば「忘れられていた」。
海軍の戦死者名簿には確かに記載されている。靖国神社にも合祀されている。けれども、零戦パイロットの数は膨大だ。太平洋戦争だけで約一万五千人もの搭乗員が戦死している。その中で、杉浦の「台湾で村を救った」というエピソードは、長い間語り継がれることがなかったのだ。
ある意味で当然だった。
戦争に負けた日本では、戦争の「英雄」を積極的に顕彰する文化は戦後早い段階で失われていた。「軍国主義の復活」を恐れる世論の中で、零戦パイロットの話はタブーに近いものがあった。ましてや「台湾の廟で神として祀られている」などという話は、ほとんど知られる機会がなかったのである。
では——いったいどのようにして、杉浦は故郷で「再発見」されたのか。
そこには、一人の女性の執念とも言える調査があった。
◆
一九九〇年代半ば。
水戸市に住む一女性——仮にここでは「K氏」と呼ぼう——彼女は趣味で戦史の研究をしていた。特に地元・茨城県出身の戦没者について、地道な調査を続けているアマチュア歴史家だった。
ある日、彼女は海軍の戦闘詳報を閲覧していた。そこに「杉浦茂峰兵曹長 戦死 台湾台南上空」という簡素な記録を見つける。特に珍しい記録ではない。しかし彼女の目に留まったのは、その後の注釈だった。
「現地に於いて、民間人を救護する行動を確認」
「——民間人を救護?」
彼女は首をかしげた。戦闘機パイロットが、どのようにして民間人を救うというのか。
それが彼女の長い調査の始まりだった。
彼女はまず、防衛省の戦史資料センターで可能な限りの資料を集めた。杉浦の出生届。小学校の卒業証書の写し。予科練入隊時の身体検査票。戦死の報告書。そして——台湾の米軍記録。
米軍の記録には、一九四四年十月十二日の台南上空の戦闘について、次のような記載があった。
「日本軍戦闘機、被弾後も操縦を維持。墜落前に民間集落を回避する動きを確認。パイロットは脱出後、射殺」
射殺——彼女はその言葉に息を呑んだ。
そう、杉浦は脱出した後、空中で機銃掃射を受け、文字通り「撃ち落とされた」のだ。戦闘機ではなく、落下傘を背負った生身の人間が。
国際法上、落下傘降下中のパイロットを攻撃することは違法行為とされている。もちろん戦時の混乱の中でそうしたルールが守られることは稀だったが——それでも、この記述は彼女に強烈な印象を与えた。
「杉浦は戦闘で撃墜されたのではない。村を避けて飛び降りた後、無防備な状態で殺されたのだ」
彼女はそう確信した。
そして——では、なぜ彼は村を避けたのか?
その答えを求めて、彼女は台湾へ飛んだ。
◆
一九九八年。初めての台湾。
K氏は台南市安南区の海尾へ向かった。現地の人に道を尋ねながら、狭い路地を抜けていくと、突然、カラフルな装飾が施された廟が現れた。
鎮安堂飛虎將軍廟。
彼女はその場で立ちすくんだ。
廟の正面には、日本軍の軍帽をかぶった若い士官の像が飾られている。右手には刀——いや、もしかすると操縦桿? 彼女にはそれが何を意味するのかすぐにはわからなかった。しかし一つだけ確かなことがあった。
この像は——彼が調査してきた杉浦茂峰に、間違いなく「似ていた」のだ。
写真で見た若者の面差し。きりっとした目元。ほんの少し上がった口角。
「——杉浦さん……」
彼女は思わず声を漏らした。
廟の中に入ると、線香の匂いが立ち込めていた。祭壇の前には三つの神像。中央の一番大きな像が、確かに彼だった。
彼女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて誰かが話しかけてきた。
「日本人ですか?」
管理人の謝金蘭だった。
「はい……私は、杉浦茂峰という方を調べに来ました」
謝金蘭の目が見開かれた。そして——彼女は突然、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。飛虎将軍の故郷の方が、ついに来てくださいました」
その瞬間、K氏の目から涙が溢れた。
彼女はその時まで、自分がなぜこれほどまでに杉浦のことを調べているのか、はっきりと自覚していなかった。ただの「趣味」の延長だった。歴史の一片を明らかにすることに酔いしれていただけだったかもしれない。
しかしこの瞬間、彼女は理解した。
——私は、この人を故郷に連れて帰りたかったのだ。
杉浦茂峰。たった二十歳で戦死し、遠い異国の地で「神」として祀られているこの青年を、せめて一度は「ただの人間」として、故郷の人々に知ってもらいたかった。誰も覚えていない彼の名前を、記憶の闇から救い出したかった。
彼女はそう決意したのだった。
◆
帰国後、K氏は猛ダッシュで活動を始めた。
まず水戸市と那珂市の役所に問い合わせた。「杉浦茂峰という戦没者の記録を探している」と。
役所の対応は冷たかった。戦後五十年以上が経過している。当時の資料は散逸しているか、あるいは個人情報保護の名目で開示できないという。何人もの担当者が首をひねり、「その名前は聞いたことがない」と答えた。
彼女は諦めなかった。
新聞社に問い合わせた。郷土史家の会に参加した。予科練の生存者を探し出し、話を聞いた。その過程で少しずつ、杉浦の生きた姿が浮かび上がってきた。
「杉浦は無口な青年だった。けれど、飛ぶことだけは誰よりも情熱を注いでいた」
「教官に怒られても、自分の飛行スタイルを曲げなかった。不器用だけど、真っ正直な男だった」
「出征の前日、母親に『必ず帰る』と言って笑っていた。それが嘘だとわかっていたのは、本人だけだったかもしれない」
そうした証言の一つ一つが、K氏の心の中で杉浦という人間を立体的に形作っていった。
彼は英雄ではなかった。神でもなかった。ただの——誰よりも優しい目をした、普通の二十歳の青年だった。
◆
二〇〇〇年代初頭。
K氏の活動は徐々に実を結び始めた。地元新聞が「台湾で神として祀られる水戸出身の零戦パイロット」という記事を掲載したのである。
反響は大きかった。
「そんな話、初めて聞いた」
「水戸にそんな英雄がいたのか」
「台湾の人が、日本人を祀る廟を大事にしているなんて……」
問い合わせが殺到した。中には「杉浦の親族に会いたい」という人もいた。杉浦には戦後も生きている姪や甥がいることが判明したからだ。
彼らにとって、この話はまさに寝耳に水だった。
「叔父が……台湾で神様に?」
杉浦の姪にあたる女性は、最初は信じられなかったという。家族の中で杉浦の戦死の話が出ることはほとんどなかった。ただ「戦争で若くして死んだ」という事実だけが、重い沈黙とともに家族の記憶の片隅に置かれていたのだ。
しかし台湾の廟の写真を見た時、彼女は声を詰まらせた。
「……このお顔、叔父さんにそっくりです」
その瞬間、杉浦は「記憶の中の亡き親族」から、「今も生きて誰かを守り続けている存在」へと変わった。
◆
二〇〇八年。
ついに——第一回目の「神像里帰り」が実現した。
台湾の鎮安堂飛虎將軍廟から、杉浦茂峰の神像が水戸市へ運ばれるのである。
現地の新聞は大きくこれを取り上げた。「台湾の神様、故郷・水戸へ」という見出しが躍る。テレビ局も取材に殺到した。
しかし——その裏で、ある「問題」が起きていた。
神像をどこに安置するか、である。
水戸市には神社は多い。仏閣もある。しかし「日本の軍人を祀る台湾風の神像」を受け入れる場所は、どこにもなかったのだ。どの寺社も「異教の神像を祀ることはできない」と断った。
結局、K氏や有志が中心となって、公民館の一室を借りて一時的な展示会を開くことになった。「飛虎将軍と杉浦茂峰——日台交流のシンボル」というタイトルの展示は、こぢんまりとしたものだったが、多くの人が訪れた。
「これが台湾で大切にされている神像か……」
「本当に若い方だったんですね」
「二十歳で……子供じゃないか」
そんな声があちこちから聞こえた。
何より感動的だったのは、台湾からわざわざ駆けつけた参拝者の姿だった。廟の管理者たちが神像に寄り添うようにして来日し、毎朝欠かさず線香と煙草を供えていたのだ。
水戸の公民館で、台湾の人が日本の軍人に線香をあげている。
その光景を見た地元の老人が、ぽつりと呟いた。
「戦争が終わって六十三年。ようやく……こういう時代が来たんですね」
彼の目には涙が光っていた。
◆
それから十年以上が経った。
神像の里帰りは、その後も何度も繰り返された。二〇一五年、二〇一九年、二〇二三年——杉浦の生誕百年の年には、水戸市と那珂市で大規模な記念行事が開かれた。
那珂市では、市の公式行事として「飛虎将軍」の顕彰が行われるようになった。台湾と日本の児童が一緒に参加する「日台交流絵画展」では、零戦と平和をテーマにした作品が多く寄せられた。
また、毎年十月十二日——杉浦の命日には、水戸市と那珂市の関係者が集まって慰霊祭が開かれている。規模は小さい。しかし必ず台湾からも参拝者が駆けつける。彼らは「君が代」を歌い、線香をあげ、煙草を供える。
ある年の慰霊祭でのこと。
台湾から来た老婦人が、杉浦の遺影の前で声を詰まらせながら話した。
「私はあの日、海尾で生まれていたんです。もし飛虎将軍が村に落ちていたら、私はこの世にいなかった。お腹の中のまま、死んでいた。」
彼女はそう言って、深々と頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は生きた。子供も生まれた。孫も生まれた。曾孫も生まれた。あなた一人の決断が、どれだけの命を救ったか——私はその一人として、感謝してもしきれません」
その場にいた全員が、涙を拭った。
杉浦茂峰は、二十歳で死んだ。
彼には子供はいない。孫もいない。曾孫もいない。
しかし台湾の海尾では、彼を「命の恩人」と呼ぶ人々がいる。その子孫たちも、彼のことを「飛虎将軍」として崇めている。
間接的にではあれ、杉浦の「命」は——その行いは——七十余年を経て、確かに実を結び続けているのである。
◆
ところで。
ここで一つ、疑問を感じる読者もいるかもしれない。
「杉浦は本当に、自分が死ぬとわかって村を避けたのか?」
「もしかしたら、たまたま機体の制御が効かなくなって、墜落コースが変わっただけかもしれない。それを後から『自己犠牲』として神話化したのではないか?」
その問いはもっともだ。
確かに、戦闘機が被弾した後の挙動を「意図」だけで説明することは難しい。炎上しながら操縦桿を操作するのは至難の業だ。杉浦が「村に落ちまい」と明確に考えていたことを証明する決定的な資料はない。
しかし——証言がある。
台湾の海尾の人々の証言だ。
「あの機体は確かにこっちに向かってきた。でも直前で軌道を変えた。まるで誰かが引っ張るみたいに」
「操縦が効かないなら、そのまま一直線に落ちるはずだ。あそこは水田が広がっている。なのにわざわざ左に——家を避ける方向に曲がった」
「炎の中で彼はまだ機体を操っていたんだ。自分を殺す火の中で、それでも桿を握り続けたんだ」
これらは全て、実際に空を見上げた人々の言葉である。
おそらく——いや、確実に——杉浦は最後の瞬間まで戦っていたのだ。敵機とではなく。炎と。重力と。そして自分の命と引き換えにするかどうかという、たった一つの選択と。
彼は選んだ。
二十歳の青年が、自分の死を選んだ。
それ以外に、この証言を説明する方法はあるだろうか?




