第二章・祠と煙草
時は流れる。戦争が終わり、焼け野原だった日本と台湾の街々は、少しずつ再生していった。
海尾の集落も変わった。水田の畔にコンクリートの家が増え、道路が舗装され、若者たちは台北や高雄へ働きに出るようになった。あの日の空襲の記憶は、年を追うごとに風化していく——かのように思われた。
しかし。
杉浦茂峰の「夢枕立ち」は、途絶えなかったばかりか、むしろ増えていったのだ。
「昨夜も出たよ。白い帽子のあの人」
「私もよ。にこっと笑って、こっちを見てた」
「何か言わないの?」
「言わない。ただ立っているだけ。でも——すごく優しい目でこっちを見ているんだ」
そんな噂が、集落の井戸端会議で交わされるのは日常茶飯事だった。冗談半分で話す者もいれば、真剣な顔で語る者もいる。しかし誰もが口を揃えて言った——その姿は決して怖くない、と。
「まるで、守ってもらっている気がする」
ある老漁師はそう言った。彼はあの日、畑の爆発音を聞いて外に飛び出した少年だった。大人たちに「下がっていろ」と叱られながらも、炎の向こうに落ちていく落下傘をしっかりと見ていたという。
「あの人のおかげで、俺は生きている。親父も、おふくろも、妹も——みんな生きている。あの人がうちの真上に落ちてたら、どうなってたか」
彼はそう言って、自宅の軒先に日本風の小さな祠を作った。大きさは三十センチもない。中に杉浦の名前を書いた木の札を入れ、線香を立てた。
「ほんの気持ちですよ。お菓子を供えて、『ありがとう』って手を合わせるだけです」
それが——海尾の「飛虎将軍」信仰のはじまりだった。
◆
「飛虎将軍」。
なぜそんな名前がついたのか。実は、杉浦自身は決して虎とは無縁の青年だった。しかし台湾の民間信仰において、空を飛び、村を守る勇士は「虎」の力を帯びるとされた。零戦があの日、まるで飛ぶ虎のように咆哮しながら空を駆けていた——そんなイメージが、人々の記憶の中で杉浦と結びついたのだ。
「飛虎」。それは敬意と親しみを込めた、台湾の言葉による愛称だった。
祠は次第に増えていった。一軒、二軒、三軒……多い時には集落の三分の一以上の家に、小さな杉浦の祠があったと言われる。人々は朝に線香をあげ、夕方には軽く手を合わせた。中には日本式にお茶と米を供える家もあった。
「おはよう、飛虎将軍。今日も家族を守ってください」
「ただいま。無事に帰れたよ。ありがとう」
そんな日常が、ごく普通に営まれていた。
ある年のこと。集落に一人の老婆が住んでいた。彼女の名は林陳金蓮——村人からは「アバウ(おばあちゃん)」と呼ばれていた。彼女はあの日、杉浦の零戦が迫ってくるのを自分の家の軒先から見ていた。そして、最後の瞬間に機首が逸れたのを、はっきりと目撃した数少ない生き証人だった。
彼女の証言はいつも同じだった。
「すごい音だったよ。空が割れるんじゃないかと思うくらい。私は『もうだめだ』と思って、孫を抱きしめてうずくまったんだ。でも——」
彼女は目をキラキラと輝かせて続ける。
「その機体はね、こっちに来るのをやめたの。左に、左に——まるで誰かが引っ張るみたいにね。ねえ、あの人はわざと畑に落ちたんだよ。村の中に落ちたら、みんな死んでた。それをあの人は知ってたんだ。自分の命と引き換えに、私たちを選んだんだよ」
彼女は毎朝、祠に線香を立て、煙草を一本供えた。杉浦は戦死の直前に煙草を吸っていたという話がどこからか伝わっていて、それを聞いた彼女が「若い人は煙草が好きだろう」と思ったのが始まりだった。
「朝はね、『起きなさい、煙草をどうぞ』って。夜は『おやすみ、疲れたでしょう』ってね」
煙草には火をつける。煙が立ち上るのを見て、「将軍が吸っておられる」と彼女は微笑むのだ。
◆
一九七一年。
海尾の集落は、一つの決断を下した。
「みんなで、ちゃんとした祠を建てよう」
声を上げたのは村の世話役をしていた数人の老人たちだった。「もう各自ばらばらに拝むだけでなく、集まって拝める場所が欲しい」——その提案は、すぐに集落の総意となった。
場所は、杉浦の零戦が墜落した芋畑のそばが選ばれた。所有していた農家が喜んで土地を提供した。「三平(約十平方メートル)もあれば十分でしょう」と。
建設は村民の手作業で進められた。煉瓦を積み、トタン屋根を葺き、小さな祭壇を作った。高さは一メートルほど。祠と言うにはあまりに粗末なものだったかもしれない。しかしそこには、村人の熱意がぎっしりと詰まっていた。
完成した日、村中で小さな祭りが開かれた。線香の煙が立ちこめ、人々は順番に手を合わせた。果物や菓子が供えられ、中には日本のお酒——サカラ——を持ち寄る者もいた。
「飛虎将軍、これからもよろしくお願いします」
誰かがそう言って、拍手を一つ打った。
台湾の民間信仰では、神に祈る時、軽く拍手を打つのが作法である。そうすることで神の注意を自分に向けてもらうのだ。
その日から、小さな祠には毎朝煙草が供えられ、煙が絶えることはなかった。
◆
しかし——本当の意味での「変わり目」は、その十年以上後に訪れる。
一九九三年。
海尾の集落は、時代の流れとともに大きく変貌していた。台湾は経済成長を遂げ、台南市の郊外はどんどん都市化していった。水田は減り、工場や住宅地が広がっていく。農漁村だった海尾の風景も、もはや昔の面影は薄れていた。
そんな中、集落のある若者が神社の建立を本格的に提案した。
彼の名は吳明池。地元の有力な実業家であり、幼い頃から飛虎将軍の話を聞いて育った一人だった。
「このまま粗末な祠では、将軍に失礼だ」
彼は私財を投げ打って、本格的な廟の建設を始めた。
設計は台湾風の伝統的な廟様式。鮮やかな朱色の柱に、龍の彫刻が施された屋根。廟の正面には「鎮安堂飛虎將軍廟」と大きく書かれた扁額が掲げられた。
——一九九三年、鎮安堂飛虎将軍廟、正式に開廟。
台南市安南区、海尾の地に、白い帽子の日本海軍士官を祀る廟が、確かに誕生したのだった。
◆
開廟の日には数百人もの参拝者が集まった。地元のテレビ局も取材に来ていた。報道陣のカメラの前で、吳明池はこう語っている。
「飛虎将軍は私たちの恩人です。あの日、彼がいなければ、私たちの先祖はみんな死んでいた。その恩を、私たちは決して忘れてはならない。それは敵とか味方とか、そういう問題じゃない。人間として、当たり前のことです」
彼はそう言って、廟の前に設置された煙草立てを指さした。
「毎朝、毎晩——欠かさず煙草を供えます。これはアバウが始めた習慣で、もうずっと続いています。飛虎将軍は二十歳の青年でした。煙草が好きだった。私たちはそれを覚えているんです」
報告を受けた記者たちは驚いた。なぜなら——廟には煙草の他に、毎朝「君が代」が歌われ、午後には「海ゆかば」が歌われているというのだ。
「日本の国歌と軍歌を、台湾の廟で?」
記者がそう尋ねると、吳明池は静かにうなずいた。
「当たり前でしょう。彼は日本の軍人です。彼の国の歌を歌わなくて、誰が歌うんですか」
その言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
戦後半世紀近く。日本と台湾の関係は複雑な変遷をたどっていた。しかし海尾の人々にとって、「杉浦茂峰は日本の軍人だった」という事実は、隠すべきことでも、気まずいことでもなかった。それは彼のアイデンティティそのものだった。そして、そのアイデンティティを丸ごと受け入れ、敬意を払うことが、「恩返し」の形だと信じていたのだ。
◆
鎮安堂飛虎将軍廟は、それから三十年近く経った今も、毎日開かれている。
朝の五時。管理人の老女がそっと廟の扉を開ける。彼女の名は謝金蘭。吳明池の後を継いで、廟の世話を任されている女性だ。
まず線香に火をつける。三本。神像の前の香炉に立てる。煙がゆっくりと立ち上る。
次に煙草。白いフィルターの、台湾でよく売られている銘柄だ。三本——三つの神像の前、それぞれの小さな灰皿にそっと置く。ライターで火をつける。「カチッ」という軽い音とともに、オレンジ色の炎が煙草の先端を焦がす。
紫煙が、線香の香りと混ざり合って天井へ昇っていく。
謝金蘭はその煙を見上げながら、小さな声で言う。
「飛虎将軍、おはようございます。今日もいい天気ですよ」
それから彼女は深呼吸を一つする。
口を開く。
「——君が代は」
その声は澄んでいた。決して大きくはない。けれど確かに、廟の正面に掲げられた扁額まで届くような、しっかりとした声だった。
「千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
彼女は日本語が得意ではない。発音は必ずしも正確ではないかもしれない。しかしその一音一音には、途方もなく長い時間をかけて培われた敬意と感謝が込められていた。
朝の「君が代」が終わると、彼女は静かに手を合わせる。三回、軽く拍手を打つ。台湾の廟では、これが正式な祈りの作法である。
その後、彼女は廟の中を掃除し、線香が切れていないか確認し、参拝者が来るのを待つ。
午後になると、彼女は再び廟を訪れる。
今度は歌うのは「海ゆかば」だ。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」
彼女は決してその歌詞の意味を深く理解しているわけではない。誰かから教わった通りに、ただそのメロディをなぞるだけだ。けれど——
「大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ」
この部分を歌う時、彼女の目はいつも遠くを見る。戦争を知らない世代の彼女が、なぜそんな表情をするのか。聞いた者がいるとすれば、きっとこう答えるだろう。
「飛虎将軍が、これを聞いて喜んでくださるからです。それだけで十分でしょう?」
◆
廟には現在、三体の神像がある。
中央の一番大きな像が、いわゆる「飛虎将軍」——杉浦茂峰その人を表している。軍帽をかぶり、軍服をまとい、右手には刀——いや、ある像では飛行機の操縦桿のようなものを持っていることもある。顔立ちははっきりと若々しく、どこか日本人らしい面差しだ。
左の像は「飛虎將軍の副官」とされる。右の像は「飛虎將軍の馬」——いや、正確には馬ではなく、台湾の民間信仰でよく見られる「虎」の姿をしていることもある。
これらの像は単に廟に安置されているだけではない。
「貸し出し」されるのだ。
「飛虎将軍を、うちの家に呼びたいんです」
そう申し出る信者は後を絶たない。病気治癒を願う者。商売繁盛を祈る者。子供の学業成就を願う者。——台湾の民間信仰では、神像を自宅に招いて祈願することは決して珍しくない。
飛虎将軍も例外ではない。
「はい、では三ヶ月間、お貸ししますね」
謝金蘭は神像を丁寧に箱に納め、信者の家へと運ばせる。借りた期間中、その家では毎日線香と煙草が供えられ、時には「君が代」が歌われることもあるのだ。
期限が来れば、神像は廟に戻される。しかし多くの場合、すぐに次の借り手が現れる。飛虎将軍は——杉浦茂峰は、いまだに「出張」続けなのである。
◆
ここで一つ、知っておくべきことがある。
飛虎将軍を祀る人々は、別に「日本びいき」なのではない。もちろん、台湾には日本統治時代の良き思い出を持つ高齢者は多い。インフラや教育制度に対する感謝の念は、今も少なからぬ人々の心に残っている。
しかし海尾の人々が杉浦を祀る理由は、もっと単純だ。
恩があるから。
ただそれだけ。
「この人は、私たちの命の恩人だ」
その一点において、国籍も時代も、勝ち負けも関係ない。人間が人間に対して感じる、最も純粋な感情——感謝と敬意——が、七十年以上にわたってこの信仰を支え続けているのだ。
ある来訪者が謝金蘭に尋ねたことがある。
「飛虎将軍は本当にいると思いますか?」
彼女はにっこり笑って答えた。
「あなたはご自分のお父さんのことを『本当にいたのか』と聞きますか?」
それが答えだった。
飛虎将軍はいる。杉浦茂峰はいる。彼は今も海尾の空を見守り、煙草の煙を吸い、二十歳の若さで果たせなかった夢の続きを、静かに見つめている。
——少なくとも、この廟に集う人々にとっては、紛れもない真実なのである。
◆
ところで。
この物語には、もう一つの舞台がある。台湾から遠く離れた、日本の茨城県だ。
杉浦茂峰の故郷——水戸市と那珂市。そこでの「飛虎将軍」との関わりは、また少し違った形で始まっている。




