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空の上の神様 〜台湾で祀られる零戦パイロット、杉浦茂峰の物語〜  作者: はまゆう


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第四章・神様の煙草〜終わらない日々

台南市安南区。海尾。


朝の五時。


まだ薄暗い空の下で、謝金蘭は小さなスクーターを停めた。彼女が廟の鍵を開ける音——カチャリという乾いた金属音——が、静かな住宅街に響く。隣の家の犬が一度吠えたが、飼い主に叱られてすぐに黙った。


彼女は毎朝この時間に来る。もう二十年以上、欠かしたことがない。


病気の時も、台風の時も、孫の運動会がある日でさえ——まず廟に寄ってから行く。「飛虎将軍に挨拶しないと、一日が始まらないから」と彼女は言う。


廟の中はひんやりとしている。台湾の南部は一年中温暖だが、早朝のコンクリートの建物は少し冷たい空気をまとっている。彼女はスイッチを入れ、電灯を点ける。オレンジ色の光が、三体の神像を柔らかく照らし出す。


まず線香。


細い茶色の棒を三本取り、ライターで火をつける。手であおいで炎を消し、香炉に立てる。煙がゆっくりと立ち上る。白く、細く、天井に向かって真っすぐに伸びていく。


次に煙草。


三本。台湾でよく売られている「長寿」ブランドのものだ。フィルターが金色の、少し贅沢な銘柄。これを三体の神像の前——それぞれの足元に置かれた小さな灰皿に、一本ずつ供える。


ライターの火を見つめながら、彼女は毎朝同じ言葉を小さく呟く。


「飛虎将軍、おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします。」


煙草に火がつく。紫煙が線香の煙と混ざり合う。二つの煙はしばらく絡み合うように漂った後、やがてひとつになって高い天井へと消えていく。


それを見届けてから、彼女は歌い始める。


「君が代は——」


声は決して大きくないが、はっきりとしている。日本語の発音は完璧とは言えない。それでも彼女は教えられた通りに、一字一句を丁寧に紡いでいく。


「ちよにやちよに——さざれいしの——いわおとなりて——こけのむすまで」


彼女は正確な意味を理解していない。誰かに教わったわけでもない。ただ、先代の管理者から「こう歌うのだ」と受け継ぎ、それをそのまま続けているだけである。


しかし——それでいいのだ。


信仰とは、理解することよりも、続けることにあるのだから。



午後になると、彼女は再び廟を訪れる。


今度は煙草を新しく供え、線香を継ぎ足す。そして歌う——「海ゆかば」を。


「うみゆかば——みずくかばね——やまゆかば——くさむすかばね——」


この時、彼女の声は朝よりも少し低くなる。どこか悲しげな、しかし同時に力強い響きを持つ。


「おおきみの——へにこそしなめ——かえりみはせじ」


戦争を知らない世代の彼女が、なぜ軍歌を歌うのか。


それを尋ねた日本人訪問者がいる。彼女は少し考えて、こう答えた。


「これはね、将軍のための歌なんです。将軍が若い時に歌っていた歌。将軍が好きだった歌。私はそれを忘れたくない。それだけです。」


「政治的だと思われませんか?」と訪問者がさらに問うた。


彼女は笑った。


「政治? 将軍は政治じゃない。将軍は私たちの恩人です。お父さんにおはようと言うのに、政治は関係ないでしょう?」


その答えに、訪問者は何も言えなくなった。


そうだ。ここにあるのは、極めて個人的で、極めて人間的な「関係」なのだ。国家でもなければ、イデオロギーでもなければ、歴史認識でもない。ただの「ありがとう」と「おかえり」の繰り返しである。


それが七十年以上も続いている。それだけのことだ。



廟には、時折日本人が訪れる。


観光客もいれば、戦史に興味を持つマニアもいる。中には杉浦の親族——姪や甥の子供たち——が訪れることもある。彼らは遠い親戚の若者が、こんなにも遠い国で大切にされていることに、いつも驚きと感動を隠せない。


ある日、杉浦の大姪にあたる女性が参拝に来た。三十代の、普通の会社員である。彼女は台湾に旅行に来たついでに、この廟のことを思い出して立ち寄ったのだという。


廟に入った彼女は、まず神像を見上げて固まった。


「……本当に、叔父さんにそっくり」


そう呟いた後、彼女は突然泣き出した。彼女自身、実際の杉浦に会ったことはない。生まれるずっと前の話だ。しかし——遺影でしか見たことのない顔が、ここでは「神様」として、毎日煙草を供えられ、歌を歌ってもらっている。


その事実が、彼女の想像をはるかに超えていたのだ。


謝金蘭は黙ってハンカチを差し出した。


「将軍は、あなたが来るのを待っていましたよ」


彼女はそう言って優しく微笑んだ。


その瞬間、訪れた日本人女性は「この人が言っている『将軍』は、もはや杉浦茂峰個人の枠を超えている」と感じたという。「将軍」とは、杉浦のことを指しつつも、同時に「海尾の集落を守ってくれたすべての優しい存在」の象徴なのだと。


「恩」という言葉では説明しきれない。もっと深い、言葉以前の繋がりがここにはある。


それが「飛虎将軍」信仰の正体なのかもしれない。



さて。


ここで一つ、忘れてはならないことがある。


この物語の主人公は、杉浦茂峰だけではない。もう一人の主人公は——「杉浦の選択を受け止め、七十年以上にわたって祀り続けてきた台湾の人々」である。


特に海尾の集落——今は台南市安南区の一部となっているが——の人々は、戦後日本が引き揚げ、関係が断たれた後も、たった一人の「恩人」を決して忘れなかった。


日本が台湾との関係を「終わらせた」後も、彼らは関係を「続けた」。


それは並大抵のことではない。


一九四五年、日本は台湾を放棄した。多くの日本人は引き揚げ、台湾は中華民国の統治下に入った。戦後処理は複雑を極め、日本と台湾の間には長く正式な外交関係すら存在しなかった。


そんな中で、台湾の人々が「日本の軍人」を祀り続けることは、決して「安全」な選択ではなかっただろう。体制に疑問を持つ者と見なされる可能性もあった。実際、戦後のある時期には、日本軍に関連する祭祀は当局ににらまれることもあったという。


それでも彼らは続けた。


廟を粗末な祠から立派な建物にした。毎朝煙草を供え、君が代を歌った。神像を貸し出し、信者の願いを叶えさせた。そして——日本の訪問者を温かく迎え入れた。


「なぜそこまでするのですか?」


そう尋ねた日本人に、かつて廟の関係者はこう答えた。


「恩を忘れることは、人間が人間であることをやめることだからです。」


彼にとって、「恩を返す」ことは、単なる道徳の問題ではなかった。人間の存在証明そのものだったのだ。



ある年の命日——十月十二日。


鎮安堂飛虎將軍廟では、年に一度の大きな祭りが開かれた。


廟の前の広場には赤い提灯が飾られ、線香の煙がもうもうと立ち込める。台湾の人々だけでなく、日本からも数十人の参拝者が駆けつけた。水戸市と那珂市の関係者も出席している。通訳を介しての挨拶が交わされ、その後、合同慰霊祭が行われた。


台湾側の代表が、まず日本語で「君が代」を歌った。発音は決して流暢ではない。しかし一音一音に心が込められていた。


続いて日本の参拝者が「海ゆかば」を歌った。彼らもまた、台湾の人々から教わった通りに、少しぎこちなく、しかし真剣にそのメロディをなぞった。


二つの歌が、廟の前に響き渡る。


日本語と台湾語。勝者の歌と敗者の歌。しかしそこにはもはや勝ち負けの感覚はなかった。ただ「杉浦茂峰」という一人の青年を偲ぶ声が、国境を越えてひとつになっていた。


祭りの最後に、廟の管理者がこう言った。


「飛虎将軍は七十年前、ここで死にました。二十歳でした。私たちの曾祖父や曾祖母と同じ年です。彼は自分の命より私たちの命を選びました。だから私たちは選びます。彼のことを決して忘れない、と。」


拍手が起こった。多くの人が涙を拭っていた。


その中で、一人の台湾の老婦人が、そっと神像に語りかけた。


「将軍、また来年もお会いしましょう。お煙草、たくさん持ってきますからね。」


神像は答えない。


しかし廟の中の線香の煙は、突然ふわりと揺れた。風もないのに。


誰かが呟いた。


「将軍が——笑ったのかな」



エピローグ・空の上の神様


杉浦茂峰は、いまだに二十歳のままである。


彼が命を落としたあの日から、七十余年の歳月が流れた。世界は変わった。戦争は終わり、国境は書き換えられ、人々の記憶も世代を重ねるごとに薄れていった。


しかし彼だけは——少なくとも海尾の人々の心の中では——変わらない。


白い帽子をかぶり、背筋を伸ばし、優しい目をしたまま。時々夢に現れては微笑み、また消える。決して言葉を発しないが、その存在だけで「守られている」と感じさせる。


彼は神になったのか。


あるいは、神にされたのか。


その答えはおそらく、どちらでもない。彼はただの二十歳の青年だった。人間だった。その人間が、たった一つの選択によって、誰かの人生を変えた。そしてその「変わった側」の人々が、勝手に彼を神にした。感謝の念が形を変え、七十年以上もの間、現実のものとして機能し続けている。


それが「信仰」というものの正体かもしれない。


荒唐無稽だと笑う人もいるだろう。杉浦自身がこんな状況を見たら、さぞかし戸惑うことだろう。想像してみてほしい。自分が祀る側の人間だった二十歳の若者が、死後七十年経って「神様」にされているのだ。彼は頭を抱えるかもしれない。あるいは照れ笑いするかもしれない。


しかし——それでも。


廟を訪れる人々の真剣な眼差しを見て、毎朝線香と煙草を欠かさない謝金蘭の姿を見て、「君が代」と「海ゆかば」を歌う台湾の人々の声を聞けば、誰もがこう思うのではないだろうか。


——これでいいのだ。


勝ち負けでもなく、善悪でもなく、正義でも悪でもない。ただ、人間が人間に対して抱く最も純粋な感情である「感謝」が、これほど長く、これほど美しい形を保ち続けている。


それだけで、この物語には十分な価値がある。



台南の空は、今日も青い。


海尾の集落は完全に都市化し、もはや水田は見当たらない。コンクリートの家が立ち並び、大型スーパーの看板が立ち、道路には多くの車が行き交っている。


その中で、鎮安堂飛虎將軍廟だけは、時間が止まっている。


毎朝五時。線香の煙が立ち上る。


昔と変わらず三本の煙草に火がつけられ、「君が代」が歌われる。


神像は無言でそれを受け止める。二十歳の青年の顔をしたまま。


ここには戦争がない。勝ち負けがない。敵も味方もない。


ただ白い煙が、空へ空へと昇っていくだけである。


その先に——あの夏の日の、炎の空が見えているかどうかは、誰にもわからない。


しかし少なくとも、煙を見上げる人々の目には、いつも優しい光が宿っている。


それはおそらく、「ありがとう」という言葉の光なのだ。


終わり


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